或る使用人の手記

みなみ嶌

第一頁

 敬虔けいけんな信徒であった両親のおかげか、それともこの名前のせいなのか、私には彼の姿を見ることができました。それが幸か不幸かは私には分からないのですが、彼の興味……いえ、正しくは警戒だったのでしょう。

 ともかく私は、あのお方以外の人間はまるで、ただの動く背景のように考えていた彼の注意を引いてしまったのです。


 これは、私がとある城である王子にお仕えしていた頃のお話しです。



【或る使用人の手記】





 私がその城に仕えることとなったのは、確か十九のまだ寒い春先の頃だったと思います。

 当時から、その城はまるで打ち捨てられたかのように寂しげで古ぼけており、どこか重く暗い印象のするお城でした。うまく言葉に表せないのですが、常に灰色がかったもやのようなものがかかっているように思えるのです。

 それもこの城の成り果てと、王族の間に起こった騒ぎを思えば、そう見えてくるのも仕方がないと、当時の人々は誰もが思ったことでしょう。かく言う私も、この城にお仕えすると聞いた時には不安と恐れで目眩めまいがしたものです。

 王をはじめ、城の者たちが去り、一部の者だけが残ったこの城。

 それからわずか数十日というのに、錆びついてしまったいかめしい鉄の門。恐々と自らの手をかけ、そっと押し開いたときの、まるで地獄の門を開いたかのような不気味なあの軋む音に、私は息もできませんでした。


 この捨て置かれた寂しいお城の主となったのは、かつての王位第一継承者であった王子様でした。

 王の実子ではありましたが、新たに側室となられた姫君との間にお生まれになったお子を正規の子とされたことで、あの方の人生は大きく狂ってしまわれたのです。

 皆から疎ましく思われた王子は王族の証とも言える真紅の御髪を失われ、そして誰からも王子として扱われることはなくなりました。


 いえ、でも……ただ一人だけ、彼を王子と呼び、ただひたすらに敬い、忠誠を誓い続けた者がいました。

 彼は常に王子の傍に立ち、慈しみ、惜しみない愛情をもって、うやうやしく王子の手を引いておりました。

 彼の瞳はあの方を映す時はエメラルドに輝き、見つめられれば誰しもとろけてしまう程の優しさをたたえておりましたが、あの方以外を見る目は、それは冷たく、芯より冷えていたのです。

 彼には、あの方だけにしか関心がないのでしょう。

 だからこそ、誰にも触れず触れさせないあのお方も、彼にだけはそれを許していたのかもしれません。自ら寄り添う様を見れば、なぜか私も心がほっとし、僭越せんえつながら、どうぞあの方から最後まで離れないでほしいと祈らずにはいられませんでした。


 彼が私のことを認知したのは些細な出来事がきっかけでした。

 城にお仕えしてひと月が経とうとした頃です。私は主に城内の清掃を担当しており、あらかた城内の整理ができ、ほうとひと息をつけた頃でした。

 城内は広く、いくつもお部屋はありましたが、鎖されて入ることのできない棟や、破棄されてしまった広間も多く、私たち使用人が手を入れる箇所はほんのひと範囲と言っても差し支えがありませんでした。物覚えの悪い私でも勤め始めだというのに行き来に困らなかった程ですから。

 ただ、こんな狭い範囲での暮らしで、いつあの方に出くわしてもおかしくない状況にあるということに、当時の私は心底怯えておりました。しかし、それは杞憂きゆうとなりました。……王子は、あの方は極端に人目を避けられる方でしたので。


 私たち使用人には、必ず心得なければならない掟がございました。

 それは他のお屋敷や…他の旦那さまにお仕えしたことのない私にも奇妙で、不気味な約束事でありました。

 まず――、私たち使用人は、王子の寝室へ入ることは許されませんでした。

 また、食事や衣服、湯浴みにいたる、全ての王子への直接の接触はご法度となっておりました。

 私は、てっきり城にお残りになったあの方の身の回りのお世話をするものとばかり思っておりましたので、これには随分驚きました。

 食事は寝室の傍の廊下へ、決まった時間に持っていき、ワゴンごと置いていくこと。汚れた衣服やシーツはいつの間にかランドリーシュートの中へ放りこまれ、洗濯し花の香りをまとわせた衣服は、気付くと衣裳部屋から消えておりました。また、小さなバスルームからは時折、まだあたたかな湯気が昇っており、無造作に落ちているタオルと濡れたタイルに足の型が残っていることも。

 私たちは主の顔をほとんど見ることなく、細々と日々の仕事をこなしておりました。

 手は掛からないが、とにかく得体の知れない主を不気味に思う会話が裏では頻繁になされておりましたが、表に出ればみな一様に口を引き結び、深くは詮索せんさくせず、己の役割に勤めておりました。

 しかし私は気付いてしまったのです。猫足の可愛らしいバスタブの湯を抜きながら、濡れたタイルを拭きあげていた時に。――タイルには、二人分の足型が残っていたことを。



 話が少しれてしまいましたね。

 私が姿の見えない誰かの存在に疑問を持ったことで、彼は私を試したのかもしれません。

 それはいつものように、城中の窓を磨いていた時でした。窓からは西日がきつく差し込み、視線を上げることがつらい程で、私は目を伏せながら一生懸命磨いておりました。

 そうして、ふと目を横に逸らすと、窓の向こうに映るバルコニーに誰かが立っておられるのに気づいたのです。

 その方は、堂々とした体躯たいくをお持ちの、まだ若い男の人のように見えましたが、たなびく長い髪が夕日に染まった真白だった為、御年の判断に迷うものでした。いえ、そうでなく……。そう、その時私はひゅっと喉を鳴らして、その姿から目が離せませんでした。だってそうでございましょう?この城で、真白の御髪を持つお方と言えば、あの方以外に他なりません。どうして一目見てその考えに至らなかったのか、本当に私はなんと愚図ぐずな人間なのでしょう。


 初めて私は、私の主でいらっしゃる――王子のお姿を見たのです。


 私の遠目からはお顔立ちまでは見て取れませんでしたが、その佇まいには高貴さと、この世のものではないような美しさがございました。はためく黒い外套がいとうも西日に染まり、全てが柔らかで優しい印象を与えるにも関わらず、どこか見る者の心を不安でざわめかせるような、そんなお姿でした。

 バルコニーの手摺に手をかけ、遠くを見つめる王子のお姿を、窓を拭くのも忘れて眺めていた私ですが、王子の白い御髪の隙間から時折、ちらちらと黒いものが見え隠れすることに気付きました。

 その黒いものは――黒い手が王子の重なって見えないところから伸びて――、風にじゃれるようにして遊ぶ王子の髪を撫でておりました。そしてそのまま――、王子の肩へ触れ、正面を向いていた王子を抱き寄せました。王子は黒い腕に両方から抱き締められ、そしてゆっくりと抱きしめ返しました。そして……。

 長い接吻を終えた王子はわずかに足元をふらつかせ、相手の肩口にもたれかかるように体勢を崩しました。そして私はその隙間から彼を「見た」のです。


 夕日にも染まらない漆黒の羽。漆黒の髪。そしてこんなにも遠いはずなのに、彼の、燃えるように煌めくエメラルドがこちらを真っ直ぐ射抜いていたことを。

 敵意と警戒と、狂気が爆ぜる瞳で。




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