第四話 寒の精霊

 ユエの家につくと、早速アルマは祭壇の前に通された。

大人二人が入れば、ぎゅうぎゅうになってしまうほどの狭い部屋に、大きな祭壇が置かれている。千年樹の丸太をくり抜いて造られた大きな祭壇で、立派な龍の彫刻が彫られていた。目を見開き、魔物すら怯えて逃げ出しかねないほどの鋭い歯で、部屋に入って来たばかりのアルマを威嚇している。


「近くに寄っても?」


「眺めるだけなら」


 アルマは祭壇に近づくと、そっと、杯を覗き込んだ。無色透明な水が、なみなみと注がれている。象牙で作られた杯の表面には、恐ろしげな魔よけの獣が彫られていた。その杯を、龍は大事そうに抱えている。


「水は昼に替えました。本当は朝変えなくちゃ駄目なんですけど、湖の氷が厚くて、割るのに時間がかかってしまったんです。そのせいで、ここ数日は朝の儀式も遅れてしまって」


 杯に満たされた水の匂いを嗅ぐ。ほんの少しにおった。まるで、魚を干した時のような生臭さ。


「雪と、水の余りはある?」


「今朝のものが少しだけ。何に使うのですか?」


「身を護るために使うんだ」


 アルマは懐から猿の紋章の描かれた藍色の布を床に広げると、首からぶら下げていたガウを手に取った。つまみを開き、自分の方へ向ける。ガウの内側に刻まれた猿の護り神の彫刻が、アルマを見上げていた。


「精霊を下ろしている時は無防備になるからね。それから、雪と水は精霊を呼び出すときにも使う」


 ユエは頷くと、部屋の奥へ駆けていった。戻ってくるまでの間にアルマは儀式の準備を進めた。

まず笹に色とりどりの布をくくりつけ、自分とユエの座る場所を囲うように置いた。その布一枚一枚に、神仏の絵と守護のまじないが描かれている。笹に糸を巻きつけて囲いを作り終えると、奥の部屋から戻ってきたばかりのユエが水の入った器と、ふかふかとした丸いアローを手渡してきた。


「直接座ると寒いから、どうぞ」


 羊毛で作ったアローはふかふかと柔らかく、触っているとほんのりと温かく感じられた。ユエの小さな心遣いが嬉しくて、アルマの頬が僅かに緩んだ。


「ありがとう」


 囲いの中にアローを敷いて、アルマはその上に腰を下ろした。木の床は冷たかったけれど、ユエが持ってきてくれたアローのお陰で、尻の下は暖かだ。


「これから精霊を呼ぶから、結界の外には絶対に出ないように。それから変なものを沢山視るだろうけど決して驚かず、声を上げないで。自信が無いのなら、目をつむっていても良い。俺が良いと言うまでじっとしているように」


 厳しく言い聞かせるアルマへ、ユエは真剣な表情で頷いた。


「お願いします」


 アルマは肩にぶら下げていた晩鐘ティンシャを両手に持ち、三回打ち鳴らした。甲高い鐘の音が残響しながら部屋に満ちる。杯に注がれた水が僅かに波打った。アルマは目を閉じると、精霊を呼び寄せる言葉を唱えはじめた。


 ”此方こなたから彼方かなたへ 彼方かなたから此方こなたへ”

 ”我は精霊の声を聴く者タルパーダ 凍れる風の精霊ルーへ呼びかけん”


 独唱のような声に合わせて、アルマは頭の中で光を思い描いた。真っ暗な闇の中で、白くて丸い光が浮かぶ。それがだんだん大きくなっていった。一抱えほどの大きさになると、光がぱっと、弾けて広がった。

 闇を払うように広がった光が、アルマの目に異界の景色を見せはじめた。


 そこには、水神の祭壇が置かれた部屋があった。

 千年樹で造られた龍がアルマの方を向いている。恐ろしげな牙を剥いて威嚇していた。その下には象牙の器がある。その周りに、沢山の気配がいた。


「ここにいたのか」


 それは小指ほどの大きさの人だった。頭から足の先まで真っ白で、腕や足に棘のようなものを無数に生やしている。その棘は、雪の結晶に似ていた。小人たちは冷気を放ちながら、祭壇の周りに集まって何やら騒がしくしている。耳を澄ませると、かれらの言葉が聞こえてきた。


 ”主の湖は凍らせたか? 主の川は流れを止めたか?”

 ”まだ止まらない。主の湖も、主の川も!”

 ”早く止めろ!”

 ”山麓から流れ出る川も湖も。全部凍らせてしまえ!”

 

 慌てふためいているかれらの声に、アルマは眉をひそめた。


(湖を凍らせ、川を凍らせ、流れをせき止めるとは穏やかじゃない)


 ふいに、その中の一匹が近づいて来た。

瞑想めいそうするように座り込んでいるアルマを、じっと、見つめている。やがて、人の口に相当する場所に、ぽっかりとした穴が開いた。

そこから氷のように透き通った歯が覗き、舌が現れる。口をもごもごと動かし、やがて、北風のような声をらした。


 ”……精霊の声聞くものタルパダか?”


「アルマという。貴方がたがこちらへ話しかけられるのは珍しい。何があった?」


 彼は少し考える振りをして、やがてはっきりと口にした。


 ”精霊の声聞くものタルパダ、時期外れの冬を訊ねに来たか?”


「今は六の月ダウ・バトゥだ。寒の精霊は雪の残る山へ移り、眠る準備に入らなければいけない時期だろう?」


 ”帰れない。我々は未だ、帰ってはいけない”


 寒の精霊と呼ばれたモノは嫌々をするように、首を横に振った。


 ”湖の主を眠らせるため。そのために我らはここに留まる”


「何故精霊が神を眠らせなくてはいけない。水神が何かしらの原因で怒りを抱えているのなら、それを慰撫いぶする巫女が居るだろう」


 ちらりと、アルマはユエを振り返った。ユエは祈るように両手を胸の前に組み、瞼を閉じている。寒の精霊が、怯えるように雪の入った器の影に身を隠した。


 ”あれはこわい”


「水神の巫女が怖い?」


 ”巫女では、あれは起きてしまう”


「アレ、とは」


 ”水底の暗闇から来たる者。神の意志を持ちながら人を愛おしみ、成り替わろうとする者。”


 刹那、ぐにゃりと精霊の姿が歪んだ。



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