第6話
結局指環が口をきいたのは夢でもなんでもなく——キイラの頭がいかれてしまったという可能性はまだ捨てきれないが——次の朝は陽気なカドの声で目を覚ました。キイラはこのお喋りな指環を黙らせるために、金槌で叩いて粉々にしてやると何度か脅さなくてはならなかった。石を割ることによってどのような影響があるのかは、キイラにも、そしてカド自身にも分からないようだったが、ともかくカドは黙った。
キイラは、カドに人前で喋らないことを約束させた。カドについては、ユタにもレイガンにもまだ伏せておくべきだと思った。指環と会話したなんて言いだしたら、頭がおかしくなったと思われるのは必至だ。目の前で喋らせたとしても大騒ぎになるに違いないし、最悪指環を取り上げられてしまうかもしれなかった。キイラは指環を——例えそれが奇妙な声で喋るいわくつきの品だったとしても——手放したくはなかったし、ようやく始まりそうな修行が取りやめになったりなどしたら目も当てられない。それに、キイラはレイガンという男をいまひとつ信用ならないと考えていた。いつも微笑を湛えてはいるが、あの日食堂で見せた眼差しは驚くほどに冷ややかな色を帯びていた。油断のならない大人。
「われわれは〈魔術師団〉、あるいは神兵部隊と纏めて俗に〈二軍〉と呼ばれる。これは、この魔術師団が、大公の有する正規の軍隊に連なるもうひとつの軍隊という側面を持つからだ」
レイガンが自室の肘掛椅子に腰掛けながら説明した。レイガンの部屋はユタのものとそれほど構造は変わらなかったが、幾分調度品が値の張るものであるように見えた。窓はやはりはめ殺しの
「とはいえ、われわれは優れた兵である前に魔術師であって、優れた学者でなくてはならない。普段はそれぞれの専門の研究に心血を注ぎ、イベルタ魔術の発展に貢献している。厳密に言えば、軍と呼ばれるべきは国軍であるところの第一軍だけだ。われわれは所謂『奥の手』であって、武力として魔術を行使するのは有事の際だけということになっている」
最後の一言を強調したレイガンの瞳の中を、一瞬物憂げな影が駆け抜けたように見えた。向かいに座ったキイラがレイガンの顔を覗き込むと、彼はなんでもないというふうに首を振った。無意識なのか、彼の手が外套の隠しへ伸びた。
「神殿つき魔術師は、大きく分けて上級魔術師、下級魔術師、見習いの三つだ。このうち、魔術師と一般に呼称されるのは上から二つのみ。見習いは、上級以上の魔術師に師事する決まりだ。魔術を学ぶものはみな見習いから始まり、全過程の修了を以て下級魔術師と認められる。それで、晴れてこの外套を着ることが許されるというわけだ」
隠しから何やら包みを引っ張り出しながら、レイガンは自身を包む丈長の外套、その襟の辺りを指でトントンと叩いてみせた。それから少しの逡巡のあと、ややばつが悪そうに尋ねた。
「吸っても?」
キイラはそこではじめて、レイガンの取り出したその包みが水晶煙草の葉だと気がついた。水晶煙草は主に魔術師が好む嗜好品で、青みがかった透明感のある乾燥させた葉をパイプに詰めて吸う。ローデンロットでは見たことがなかったものの、トラヴィアに来てからは頻繁に見かける品だった。水晶煙草自体は害のあるものではないが、集中力を高めることと引き換えに強い依存を齎すため、嫌うものも多い。キイラが頷くと、レイガンは安堵したようにパイプを取り出した。
「ユタに口うるさく言われるので、一応やめる気はあるんだが」
手袋を嵌めたまま、器用に石蝋紙の包みから一枚摘まみあげ、ぱりりと砕いてパイプへと詰め込む。
「やめられないのね」
「ユタは、せめて同席者に断るようにと」
レイガンは肩を竦め、パイプに簡単な魔術で火を点けた。やがて、薄紫の煙が火皿からふわりと立ち昇る。二回目の煙が淡く透ける魚となって、繻子のような尾鰭をひらつかせながら棚の隙間に滑り込むのを見てから、ふとキイラは尋ねた。
「ユタとは恋人同士なの?」
レイガンが煙をふかしそこね、パイプから口を離して思い切り咳き込んだ。出来損ないの小魚が慌ただしく泳ぎ去っていく。キイラは素知らぬ顔で頬杖を突いた。咳の発作が治まると、レイガンは顔を顰めながら襟元を緩め、呆れたように溜息を吐いた。
「違う」
「わたしは、てっきり……」
「きみくらいの年頃の少女はきまってそういう妄想を抱きたがる。他に考えることはないのか? とても付き合っていられない」
「ユタもあなたも、お互いの話ばっかりしているから」
「同じ門下なんだ。彼女は、きみもうすうす分かっているだろうが、少し特殊な生まれでね。入団前から何かと気にかけていた」
「妹のように?」
魔術師は再び水晶煙草を吸い込むと、肩を竦めた。
「ユタは……うつくしい女性だ。誰が見ても、そう言うだろう」
キイラが頷くと、レイガンが首を横に振り、クルミ材の机を人差し指で軽く叩いた。
「そんなことはどうでもいいんだ。私の話を聞きたくないのか?」
キイラは慌ててかぶりを振った。
「ねえ、神殿つき魔術師に関しては分かったけど、神官は?」
「これから説明する」
キイラにかからないよう注意しながら、レイガンが新しい煙を吐き出した。これは見事な硝子細工のような翅を持った蝶の形をしていた。
「神官の職位はもう少し複雑だが、簡単に分けるならば特級神官、一級神官、二級神官と続き、そしてその下に三級神官・見習いが連なる構成になっている。神殿つき魔術師とは別体系になるが、この辺りが少し複雑で、われわれは魔術師でありながら神官の序列にも組み込まれる」
「どういうこと?」
「正しく言うならば、私たちは『二級神官相当』の地位にあるんだ。神殿つきの資格を手にした瞬間に、そうなる。まあ、そういった諸々の事情も手伝って、神殿つきと神官の間には確執があったりもするんだが……」
「なんだか、変な話だわ」
「それだけ神殿つきが重要な存在だということだ。だから、狭き門なんだ」
「狭き門?」
「誰でも簡単になれるとでも思っていたのか? 特権階級だぞ」
レイガンが顔を顰めた。先ほどの煙の蝶が向こうから羽ばたいてきて、彼自身の襟に止まった。
「これまで二軍に入隊した魔術師のうち、最年少記録はドルムの十七歳だ。これが二年前」
「わたしは、十四になったばかり。まだ、三つも下だわ」
「三つも、と考えるか、たった三つと捉えるかはきみ次第だな」
肩を落としたキイラを見て、レイガンはくつくつと笑い声を立てた。
「そのために、これから勉強するんだろう。幸い、私はすぐれた教育者だからな。しかし、実際にやり遂げなくてはならないのはきみだということは忘れるな」
ここでレイガンは真剣な顔になり、きっぱりした口調で「四年だ」と宣告した。
「四年後、きみは魔術師となって、魔術師団の認定を受ける」
「四年も待てないわ!」
「ならば、それだけ努力したまえ」
上級魔術師は軽い調子で言った。
「私としては四年で形になれば奇跡の賜物だと思うが、全てはきみ次第だ。まあ、努力だけでなんとかなる世界でもないが」
キイラは、自分の膝に止まった煙の蝶を睨みつけた。蝶の輪郭は既にぼんやりと歪み、崩れかけている。暫くの間押し黙ってから、やがてキイラは短く尋ねた。
「なんとかならなかったら?」
「孤児寮だ」
レイガンは即答した。
「それも悪くない。家族同然の友だちができるだろう。いずれ独り立ちして、誰か気のいい青年と結婚して、幸せで平凡な一生を送るんだ」
結婚、とキイラは復唱した。考えられなかった。ユトーを喪った今、最早誰かの妻となって、その家を支える自分の姿を思い描くことはできなかった。
「選ぶのはきみ自身だ」とレイガンはしずかに言った。
「修行はつらいものになるだろう。努力が実を結ぶ保証もない。万事うまくいって、神殿つきになったとしても、それがきみにとって本当にいいことなのか、私には分からないんだ。きみが修羅の道を歩むのを、きみの御両親は望むのか?」
「わたしは……」
瞑目したキイラの瞼の裏に、マーサとシグ、そしてユトーの面影が彗星のように過ぎった。その光は、痛烈な哀惜の情とともに一種禍々しい色を帯び、キイラの目の奥から背骨にかけてを焼き焦がしながら燃え墜ちていった。耐えがたい熱をやり過ごし、キイラは細く溜息を吐き出した。次に彼女が瞼を開いたとき、その金の瞳は彗星の閃きを宿し、炯炯と輝いていた。
「それでも、フタル人を殺さなくては」
レイガンは、キイラの返事が初めから分かっていたかのように無感動に頷くと、自身のフィビュラに指を触れた。
「キイラ、復讐が生きる力になるのなら」
キイラは自分の手を差し出し、レイガンもそれに応えた。薄い手袋越しのこの他愛ない挨拶が、今日あたらしく結ばれた師弟の契りの代わりだった。
「明朝、またここに来るように」
「なにか、持ってくるべきものは」
「必要なものは私が揃えておく」
レイガンが億劫げに手をひらつかせた。軽く首を傾ける会釈をし、出て行こうとしたところで、キイラはふと振り向いた。
「ドルムという人の前は?」
「なに?」
早くもキイラから興味を失っていたらしい魔術師はのんびりと振り返った。片手には既に鵞ペンが握られている。そのペン先が鈍く光るのを見つめながら、キイラは素朴な疑問を投げかけた。
「最年少記録。ドルムという人が来るまでは、誰が、何歳で最年少だったの」
レイガンは少し考えるようにして、机に向き直り、ペンを羊皮紙に押し当てた。そして、少し書き進めてから、不意に眼差しを上げた。こめかみのあたりを引っ搔きながら、彼はつまらなそうに呟いた。
「私だ。十九だった」
キイラは軽く頷き、退室の挨拶をして部屋を出て行った。無人の廊下を歩きながら、キイラは小声で囁いた。
「やっぱり、よく分からない大人だわ」
指環は少し間を置き、「そうかな」と短く答えた。
キイラの期待とは裏腹に、修行は酷く退屈な滑り出しを迎えた。レイガンがまず与えたのは分厚い一冊の写本だった。腕の中でずっしりと主張する重みにふらつきながら、キイラは尋ねた。
「まさかこれを読めっていうわけじゃあないでしょう」
「そのまさかだ」
レイガンはにやりと笑った。
「修行は?」
「基礎を理解しないことには話にならんだろう。忙しいのでね、基礎なら私が教えるまでもない。それを読み終わったらまた声を掛けたまえ。続きを渡そう」
キイラは唖然として、それからレイガンの背中に向けて散々罵倒を投げつけたが、けんもほろろにあしらわれて終わりだった。キイラは憤懣やるかたなく、部屋に戻るとそれを開きもせずに机の上に放り出した。
「なにが『幸い、私はすぐれた教育者だからな』よ」
キイラはもつれた髪をぐしゃぐしゃに乱し、唸った。カドが控えめに口を挟んだ。
「漸く修行が始まったというのに、あまり幸せそうではないな」
「当たり前よ」
指環を睨みつけ、キイラは噛みついた。
「こんなの修行じゃないわ。あんなこと言って、本当はわたしが諦めるのを待ってるんじゃないかしら」
「そんなはずはないだろうに。そうであれば、初めからおまえにそんな話を持ちかけたりしないだろう」
すぐさま「おまえ」とキイラが鋭く咎め、カドは「きみ」と言い直した。
「とにかく、読んでみたらどうだ。あの男の言うとおりに」
それでも暫くの間は読んでみる気は起きなかったが、日が傾き、ランプに火を灯すころになってから、キイラはしぶしぶ写本を開いてみた。
まだ新しい写本だった。うつくしい真紅の革張りで、頁は質のよい
読み終えてみて、キイラはそれが意外にも読みやすく書かれていることに気がついた。
「本当に、初学者のための本なんだわ」
キイラは呟いた。
「読めそうか」
カドの言葉を無視し、キイラはやおら写本をひっくり返した。一番後ろの頁を調べると、そこにはたくさんの魔術師の名前にまじってレイガンの名前があった。指先にまとわりつこうとする文字の輝きを払い落とし、キイラは再びはじめのほうへ戻った。
結局その夜、灯りとともに部屋に帰ってきたユタが声を掛け、彼女の肩を揺さぶるまで、キイラはずっとその本に集中していた。
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