本の虫


 ぼくは他人が本を読む最中の、意識してないだろう動きを気に入っている。

 単純に文字を追っているのだなと理解できるからだ。

 人は分かることより分からないことの方が多い生き物だし、理解の幅は広くなくてもいいと思うのだけれど。


 今、目の前で顔を洗おうとする子がいる。


 こきゅこきゅこきゅ。


 彼女は顎から伸びる一対の毛むくじゃらの腕で眼鏡を拭く。

 猫が顔を洗うというよりは、ハエトリグモの目を磨く様に似ていた。


 ぼくは机に出しているノートを写しながら、彼女の毛並みに感心する。

 眼鏡を拭く用の布はあるが、それと同様に磨ける代物だろう。

 一連の動作を終えたあと、膝の上に置いた本を手に取って読み始める。


 今日は気分がいいのだろうか、顎の腕がわきわきと微動している。

 いつもはクラスにいるときと同じように身を引き締めて読んでいるというのに。


 疑問だったけれど、頭の上にある黒いボタンのような目らしきもの飾りなのだろうか。

 どんな見方をしても光沢が変わるだけだが、もし視られているなら、どういう風に視えているのだろう。

 でも、そうであっても、意に介さないかもしれないな。


 まるでぼくは空気に空気を重ねたような存在だ。


 そんなことを思いながら、やがて鞄に仕上がった物たちを入れた。

 繊細な字が書かれた彼女のノートを置いて、少し考えて言葉を述べる。


 ノート貸してくれて、ありがとう。どうかな、お礼は何がいいだろうか。


「一緒に朗読会を開きましょ」


 彼女は顎の腕を前に持ってきて言った。

 何のジェスチャーか分からない仕草である。


 いいよ、と言うと彼女は急に恥ずかしくなったのか俯いてしまった。


「だってシミくん、同好会に入ったのに何も持ってこないんだもん」


 部室を出たあと、身体に熱が上がってきた。

 放課後に特に用事もないから誘われて入っただけ、実質は彼女とぼくの二人だけの活動実態。

 本を読んでも漫画ぐらいだし、何を持っていけばいいか。


 そんなことを悶々としていると家に着く。

 とりあえず父の書斎から適当なタイトルの本を選んで鞄に詰めて、風呂に入って寝転ぶ。


 シミ、紙魚。


 あの子に何度か呼ばれているのに、今日はやけに頭の中に響いた。

 由来の通り本の虫ではないが、自分の名前を好きになってしまいそうだ。

 それからは特に案じることなく、うとうと眠ってしまった。


「はい、どうぞ。お互いの持ってきた本を、交換して読み合うということで」


 昼休み、教室の窓の向こうからは賑やかな声が聞こえてくる。

 ぼくは返事をすると、途惑うことなく父の本を渡した。


 硬い殻を持つ手からは、原色の立方体が幾何学的に並んでいる絵の表紙の本を渡される。


「わたしの趣味に割り振っちゃった感じで、ごめんね」


 いや、ぼくも同じようなものだよ。


「そうなんだ。そっかぁ、楽しみかな」


 彼女は自分を急くような足取りで教室を出ていく。

 上履きを必要としない足は、こつこつと音を鳴らす。

 たぶん部室に行ったのだろうか。


 父の本の内容、結局は知らないから分からないけれど、よく読んでいた参考書の類が載っているだろう。


 とりあえす手元の文章を追ってみると、あらすじから乾いた匂いがしそうなSFのジャンルだと分かる。

 薦められたことは無かったから、こういうのもいいかもしれない。


 かつんかつんかつん。

 かつかつかつかつかつかつかつ。


 主人公が搭乗しているロボットに搭載されたヒロインのAIが脱出装置を起動し自爆カウントを数えたとき、こちらに急速に向かってくる音がした。


「もぉッッ。シミくんッッ。これなにッッ」


 彼女は肩を持ち上げて、肘から剥き出した牙を露出させながら言う。

 刺さってきそうな足を鳴らしながら、机に向かって手に持っていた本を突き出す。

 中身を精査してくれといったように、眼光が鋭くなっていた。


「同じようなものだよ、って言ったよね」


 黒いカバーの中身を確認すると、あれやこれやを様々に言い換えた言葉があるのを見た。

 ぼくは言葉を失って、間の抜けた表情をしていたかもしれない。


 冷や汗が出てきた。


「放課後、部室、逃げないで」


 ちょうどチャイムが鳴りクラスの人間が戻り始めた頃、それぞれが各人の掃除当番に行き、作業を始めた。

 ぼくは自分の思慮の欠けた行動に恥じ入った。


 放課後、足取りは重い。

 ゆっくりと部室の扉を開けようとする。


 そのとき、外殻を持った二対の手に、引きずり込まれる。

 ぼくらは倒れ込んで、ドアが閉まる。


「最初に声をかけたとき、わたし体良く趣味の仲間が欲しかっただけ、なのに……」


 顎の腕が微細に揺れて、まるで猫が招くように毛が波立った。

 そこに水滴が落ちた。

 彼女の涙を毛並みが弾いた。


「えっちなもの持ってきて、そんな軽薄なヒトだなんて思わなかった」


 胸の上で泣かれて吐かれる言葉にしては優しいな、と思ったりした。

 一度も経験なんて無いのに、優しいなんて思ったりした。


 隣に落ちた鞄を彼女が漁って、父の本を取り出して渡される。


「読んで」


 ぼくは、この際どこでもいいだろうと紙を押さえた。

 顔の前に本があり、本の前に彼女がいる。


「早く」


『フミ子は両の乳房をこねくり回されて、だんだんと火照っていく』


 彼女は脇腹にある二対の細い棒のような手で硬くしこった先端を揉んでいく。


『吐息を漏らし、床にフミ子の汁が溜まり、胸が天井を仰ぎ視る』


 胃酸を吐き、床はじゅうじゅうと溶け、彼女の喉から内臓の袋が出でては萎む。


『若旦那はフミ子の豊満な部分をわし掴みにすると、ちうちうと赤子のように吸った』


 ぼくが彼女の骨ばった腰をわし掴みにすると、上半身と下半身が分離して髄液が散った。


『くぐもった声の中で艶やかな一鳴きをすると、フミ子は全身の力を抜いた』


 ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃァア。


 かけていた眼鏡が飛び、割れる。


 ぎっぎゃぎゃぎゃぎゃァアアア。


 彼女は叫んで、歯で顎の腕を血が滲むほど噛んで、部屋の四隅を蠢き当たる。


 次第に動きが止まり、五分は脈動しただろうか、彼女が口を開いた。


「シミくん、だいすき」


 ぼくはすっかり赤くなった窓の外を視ていた。


 視続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る