バルタンの娘
「ハサミ・ササカマです」
教卓の横から消え入りそうな声が聞えた。
ぼくが初めて眼で視た異星人の女の子は、蟹のような赤い手で両の刃をこすりあわせて焦れていた。
好奇の視線が彼女一点に注がれる教室はひそひそとざわめく。
みなさん。静かにっ。
頬がこけた女教師が一喝する。
えー、ササカマさんは木星の資源衛星基地から先月に開通した直通の超空間通路を渡り、ご両親の都合で来日しました。そうですよね。
「はいっ」
ササカマさんは伏せていた顔を上げて、しゃくりぎみに答える。
それが起点になって様々な声が漏れる。
ザリガニ。
アメリカのやつだ。
田んぼで釣れる。
うわ。やだあ。
ササカマさんは、耳まで紅潮しはじめていた。
どうしてか、ぼくはいてもたってもいられなかった。
「バルタンだよっ。かっこいいじゃんっ」
ぼくの周囲の空気が困惑でない交ぜになり、席を立った音で辺りが静寂に満たされた。
なぜそんな言葉を選んだのか、あの頃の自分は馬鹿だったのだと、今にしてみれば思う。
当時で二百年以上前の映像作品に出て来る単語を、喋る輩。
同じ学年の男子には通じなかった架空の異星人の名前。
「宇宙忍者なんだーっ」
ぼくは意味不明に口走っていた。
ササカマさんも、他の皆も茫然とした中で、冷静に女教師が言葉を繋いだ。
じゃあー、ダンくんの隣の席が空いてますね。そこに座ってね。
時間差で頭に熱がのぼり、気づいたときにはササカマさんが横にいた。
「知ってるよ。分身するんだよね」
柔和な笑みを浮かべて、鞄の荷物を肩にある鋏とは別の脇から伸びる四対の手で器用に整理しながら言った。
「うん」
ぼくはササカマさんの理解できない身体感覚に脳の疼きを感じたが、それもすぐに慣れてしまう。
学校で唯一の異星人への興味が尽きて、ひとりの女の子と扱われる頃には周囲に溶け込んでいた。
家でテレビ放送を観た。
資源衛星基地の環境、主に重力が木星人に作用して外骨格を纏わせた。
木星からの水素が資源衛星基地を限りなく地球化したこと。
超空間通路というのは相互に関係した遠いようで近い、原理は解らないが利用している繋がった虫食い穴であること。
同じ知的生命が互いを求める観念的な力が穴を開けたのではないか、とか学者さんが番組を締め括った。
ぼくにはそんなことはどうでもよくて、バルタンへの共通点が両の鋏しかないササカマさんが頭に思い浮かんでいた。
「わたしの星は海と、古いアーカイブビデオぐらいしか見るものがなかったの。それで、あのシリーズに夢中になっちゃった」
夕暮れ前の陽が窓から射す。
日直当番だったぼくらは、教室の隅で育てている亀を眺めながら怠く箒を掃いていた。
「でも、もう会社潰れちゃったんだよね。バルタンの」
ササカマさんの声が響くけれど、ぼくは返事を頷く程度しかしなかった。
彼女の言葉がぼくの耳だけに聞こえるようで、持て余していたかった。
亀がのろのろと動いて、ササカマさんのハサミで粉々になったドライフードをぱくぱく食べていく。
ふいに彼女が泳ぐ海の景色が視たくなった。
テレビに映っていた青い海、それに赤い滴が跳ね広がっていく想像。
「地球のどこよりも綺麗な海に視えたな、ササカマさんの故郷」
ぼくの浅い正直な感想に、ササカマさんは手を止めて唇を結んで下を向いた。
「あそこの塩の味って、知ってる?」
資源衛星の海から取れる塩。
あそこの塩。
そう、ぼくは意味を汲み取って首を振った。
「ついてきてほしいの」
仕度を済ませて、いつもと帰宅とは違う道を選ぶ。
その間中に、ぼくは色々と悶々と考えていたけれど記憶の内容は無い。
駄菓子屋の裏にあるトタン壁、その横にある木が目印だったようにササカマさんは歩みを止めて鞄を下ろした。
すると、脇腹から一列に生えた四対の右一番下の手を左刃で指す。
「ちょっと持ってて、しっかり持ってね」
ぼくは言われるがまま光沢のあるつやつやした第二節を持った。
少し湿った艶めかしい手触り、の瞬間。
「んっ」
ばぎっ。ぎぃ。ぐちっ。
刃が走り粘液を散らす。
その細い手は切断されて、筋組織が波打つのを握ったぼくの手で感じる。
「穿って、吸って、身を」
ぼくは心拍が呼吸と同調した感覚を得て、言われるがまま歯で中身を抉った。
塩の味。
「どうせすぐ、生えてくるから。それより、この木」
ササカマさんは少し乱れた息を整えながら言う。
「最初に木星資源基地に着いた日本人は不安だったと想うの。なにか縁のある昔話の御守りが欲しかった。地球にも木星にもある昔話の思い出、地続きにさせたのは、この木のおかげかもしれないね」
駄菓子屋よりも高級なチーズカマボコだと食感を思い、眼の前を視る。
ふしくれた、柿と言われていた木がある。
まだ実ってはいない。
「また、明日ね」
彼女は鞄を持ち、歩いていく。
ぼくはササカマさんの十の手の動きの波を見つめながら、去っていく姿を視ていた。
桃栗三年、それから八年。
彼女は次の日に転校していった、と頬こけた女教師が言った。
ぼくは故郷から離れるように県外で十八歳を迎えた。
久々に地元へ戻るバスの中で、あそこに彼女は来ているのだろうか、あそこへ彼女はいるのだろうか。
柿は実ったのだろうか。
あの時に捨てられなかった彼女の殻を鞄に入れたまま、淡い期待を抱きながら、揺られていた。
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