やーらかい
そして正信は、再び頭を壁にもたれかける。そして両手を頭の後ろに回して、ボソボソと呟き出す。
「変わったか、お前? 前のお前だったら、ああいう光景見ても楽しそうとか……っていうかそもそも、ああいうの見ることもなかったしな。教室にいる時はずっと、頬杖ついて窓の外見てたし」
ぴくん、と仁摩は片眉を上げる。
「……そう、だったか?」
それに正信の方も片眉を上げる。
「……気づいてなかったのか――っていうか、無意識のこーどーだったのか、アレ?」
「…………」
仁摩は考える、教室での日々を。だが、いくら思い出そうとしても、浮かぶのは退屈さと虚無感と、あとはせいぜいあの凶暴女の北嶺紗姫がトンファーで大暴れしたたことぐらいだった。そういえば教師の顔すら、ろくに思い出せない。
学校へは、行くまでがすべてだった。正信の友とのやり取りは、楽しめた。だがついてしまえば、あとは破壊の欲求不満が募るばかりだった。
――兄の残した呪縛を、感じるのみだった。
「そうか……」
「いや、言っておいてアレだけど、オレの方も合点がいった。長い間、お前、苦しんできたんだもんな」
正信の呟きに、仁摩は顔を上げる。正信はその視線を、宴会の席――芳武に向けていた。その瞳は以前のように卑屈なものではなく、澄んだ穏やかなものだった。
「気持ち、わかる気はするんだ。オレも、兄きには複雑な気持ちがあったし。まぁ、知ってるとは思うけど。なんか、兄弟って不思議だよな。友達より近くて、でも友達ほど気が許せるわけでもなくて、異性なんかとはもちろん違くて、親ともまた違う。だけど縁を切れるわけでもない」
つらつらと連ねる正信の言葉を、仁摩は黙って聞いていた。
「いや、この言い方じゃまるで縁を切りたいみたいに聞こえるな。そういうわけじゃなく、絶対ずっと繋がってくわけだから、うまい付き合い方が必要っていうか、距離が大事というか、でも肉親だからそういう気構えこそいらないかと思えるけど、そうでもなくて……」
だんだんと迷走してきた正信の言葉に、仁摩は口を挟む。
「――少し違うな、おれの考え方とは」
「そ、そうか?」
助け舟を出された正信は半笑いで答える。それに仁摩は、
「おれにとっての兄きは、そうじゃなかった。兄きとは、昔からろくに言葉を交わしたことはなかった。日常生活の接触そのものが、無かった。ただ、武を教授される時のみが、兄との繋がりだった。しかし兄は、そもそも自分との心の交流を求めてはいなかった……ように、思うな。ただおれを、自分が考える武を体現する器、ぐらいにしか考えていなかったように、思う。まぁ、被害者意識なのかもしれんが」
『…………』
しばらくの間、二人は壁によりかかって、黙り込んだ。微妙な空気。互いに、互いの言葉を租借している空気。
「なら、さ……」
正信が声を出す。それに仁摩は、耳を澄ました。
「え、と……うまく言えないけど、オレとお前って、逆なのかもな。なんていうか、そんな感じ? だからさ、オレとお前……っていうか、その……」
「ありがたかった」
口をついて出ていた。
「へ……」
「お前と、お前の兄に出会えたこと。そして、家に匿ってもらい、学校への手ほどきを受けたことだ。いらぬことなどといって、すまなかったな」
「そ、そうか……」
再度沈黙。今度も微妙だが、さっきの微妙とはまた違った意味でのびみょ~。照れ臭さというか青臭さというか青春というか。
「まぁ、さぁ、のぉ、ぶぅ~?」
その微妙な空気に、えらく甘えた声と共に青い髪がばさりと割り込んできた。その奥から、可愛らしい――"真っ赤な"顔が、こちらを覗きこんできた。
「さ、紗姫?」
「にゃぁにぃ?」
「いや、にゃにっていうか……そ、そういや、まだ言ってなかったな。あ、ありがとな? わざわざ、助けにきてくれて。ホント、助かったよ。そういや紗姫は、なんで来てくれたんだ?」
「そぉんなにょ~、紗姫にょ、勝手でしょう~?」
会話になってない。てか言葉が通じていない。正信の言葉に構わず、紗姫はふにゃりとこちらにしなだれかかってくる。それに正信は頬が引きつり――顔を、真っ赤にする。
「ちょっ、おまっ……! よ、酔ってるなお前!?」
「よぉってにゃんか、いにゃいもーん……しゃきはぁ、猫にゃりっ。にゃんっ」
擦り寄る。頬に。頬で。
やーらかい。
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