惨劇

 ふと、紗姫の言葉を遮って――失念していた男の声が、耳を打った。

 振り返る。そこには、教室窓際最後尾の席に座る、最近ではいつも外の風景を頬杖をついて眺めていたため存在感のなかった、この騒ぎの中でも微動だにしなかった――

「加勢してやろうか?」

 ニヤリ、という笑みがすっかり定着した仁摩在昂が、立っていた。

「な……」

 歩いてくる。問題だけは起こすなと兄と担任からいわれていた仁摩が、こちらに向かってくる。喜々とした足取りで笑みを、伴って。

 マズい。この獣がこんな状況で、絡んでこないわけがなかった。

「おいおい、なんだよこいつ」

 取り巻きの一人が、無造作に仁摩に近寄る。知らないのか? そういえばこいつ、見たことがない。交流戦を、見ていないやつか。

「下がってろよ。今、紗姫さまがこの男に教育を――」

 仁摩の手が男の後頭部に、伸びる。

「へ?」

「やめ――」

 ぐちっ、という音がした。

 仁摩が左手で男の頭をひきつけ、右肘と膝で、頭を挟み込んだのだ。双方、十センチは肉のうちにめり込んでいた。

「ひぎっ……」

 潰された虫のような悲鳴をあげて、男は顔から床に突っ伏した。あとには血の海が広がっていく。

「な…………」

 紗姫が絶句する。周りの取り巻きも似たような反応だ。とつぜんの狂気じみた攻撃に、言葉を失っている。仁摩の顔にまで、男の返り血がかかっている。それを仁摩はべろりと、舌を伸ばし舐め取った。

「さて……お前らは、楽しませてくれるのか?」

 以前一撃でやられた正信に、その惨劇を止めるすべはなかった。


 教室は三分前より、さらに惨憺たる雰囲気に包まれていた。

 廊下から、クラスメイトたちがこちらの様子を窺っている。その中には大量の野次馬も加わっていた。これだけ集まれば、もう担任の設楽先生がくるのも時間の問題だろう。そしたら仁摩も、学校を去ることになるのだろう。

 正信がいる教室の様子は、さらに変化していた。もちろん倒された椅子や傷つけられた教卓や弾き飛ばされた花瓶や割られたガラスやへこんだ掃除用具入れはそのままだが、さらに教室中央から半径三メートル以内の机椅子が、隅においやられている。

 そしてその周囲に、六人の男子生徒が倒れていた。いずれも沈黙し、動く様子はない。そしてその体からは、赤い液体が垂れ流されていた。

 そしてその中心に、一人の男子生徒と女子生徒が対峙している。

「な、なによこいつ……」

 紗姫はトンファーを目の前で水平に、受けの構えを取っていた。この男――仁摩在昂が現れてから、わずか三分でこの事態になってしまっていた。一人は蹴りで、一人は殴られ、そしてタックルからの拳を降り注がれ、みな倒された。紗姫ほどではないにしろ、みな道場で三年以上淵己式空手術を学んでいるというのに……

 仁摩が、こちらを見た。紗姫はそれに、気合を入れる。来るなら、来い! 最初から気に入らなかった。正信をたぶらかして、交流戦で派手に勝って目立っていい気になっているその姿が――

 しかし、紗姫の思考とは裏腹に、仁摩は踵を返して教室の出入り口を向いた。臨戦態勢に入っていた紗姫は出鼻をくじかれ、

「な……ど、どこいくのよ! 紗姫と戦うんじゃないの!?」

 それに仁摩は紗姫に背を向けたまま、

「女は、殴らん」

 そのまま仁摩は、教室の出入り口へと歩いていった。あとに残された正信は、その姿を呆然と見送る。な、なんだあいつ……あんな、フェミニストのようなところも――

「素敵……」

 へ?

 不意に聞こえた、あまりに場違いなオトメちっくな呟きを。声のした方を見ようと、振り返る。だけどその声色を正信が間違えようもなく……

「し、枝穂ちゃん……?」

 振り返ると、やはり声の主は正信の想い人である清楚可憐でいつも本を読んでいた文学少女、古池枝穂ちゃんだった。しかし彼女の様子は、普段正信が見つめている姿とは違っていた。本を見下ろす時の真剣な表情とも、友達と交わす淡い笑顔とも違い――その頬は熱っぽく上気しており、その口元は緩み、目はキラキラと輝いていた。これではまるで――

「仁摩クン……カッコいいです……」

 ハートマークがつきそうなほど、うっとりしていた。

 ――マズい!!

 それを見て、正信は慌てた。こ、この様子……どうひいき目に見ても、仁摩に惹かれてる。下手すりゃ、惚れかけてる! こ、このままじゃ、ずっと憧れだった人が、こ、こんな野獣に――!

「に、仁摩!」

 気がつけば、口が喋ってた。

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