虫の知らせ

 眉をひそめる。その影は、人というには異質なものがあった。形がおかしい。縦長のシルエットで、頂点に頭、少し下に両腕、それを両脚が支えているという形ではない。地に伸びた四肢が、胴体を支えているような形になっているのだ。あれではまるで――

「四つん這いの、獣……」

 だが、そんなわけはなかった。そうだとするなら、その大きさは相当な大型犬か、狼並みにも達する。この市街地の野外に、そんなものがいるとは考えられない。だとすると、アレは――

 獣が立ち上がった。

 正信の瞳には、そう映った。元来四つん這いであるべきものが、その在り方を変えて二足歩行に変えた。しかしその姿もまた、しっくりときていた。それはまるで、熊かなにかのように映った。それも両腕が足と同等に長い――

「尾木戸では、ないのか」

 ひと……

 それを見た時、正信の体は震えた。人だ。獣じゃない。そんなことは、見ればわかる。だけどそれは、奇妙な光景だった。そこから発せられるのは、人から受けられるものではない。

 剥き出しの犬歯。垂れる涎。握り締められた拳。脈動する筋肉。地をしっかりと掴んだ素足。膝が曲がり腰が屈んだ下半身。血走った、目玉。

 そこから感じられるのは、自分にはない――獣性。

「…………」

 圧倒的な威圧感が、正信の全身を打っていた。こんなプレッシャーは、受けたことがない。体が後ずさりそうになる。

「お前は……誰だ?」

 受けた言葉が歪んで聞こえるほどの、それは異空間だった。獣はのそりのそりと歩みを進めてくるが、その前傾姿勢は肉食獣の飛び掛る直前に似ていた。足でしっかりと地面を掴み、狙いを定めている。その両手は無骨に太く、手の先に鋭い爪が伸びていてもなんの違和感もないだろうことを思わせた。

「お、おれ、は……」

 自然、答える声が震えていた。体に起こった反応は、負けたくないという武者震いか。それとも、恐怖に――

 頭を振った。

 ――認めない! 恐怖で心を喰われるわけには、いかない!

「お前は、尾木戸では……ないな」

 ぴくっ、と正信は反応する。その言葉に、今度こそ武者震いで体を震わせた。

「……尾木戸だ。尾木戸、正信だ」

 その言葉に、今度は獣が震えた。どうやら、笑っているらしい。その反応に正信は驚いた。獣が、人らしい感情をあらわにしたことに。

 獣は薄く、目を細め、

「ほぉ、兄弟か……面白い、ここで……」

 さらに低く、体を沈めた。

 完全な臨戦態勢。

 それを実感し、正信の体が後ずさる。正信は組み手が苦手だった。元々高くない身体能力に加え、闘争心の無さも相まって、相手を躱すことばかりを繰り返してきた。そんな、道場ですら真っ向勝負など出来ない自分が――実戦を? 考えたくもない事態だった。だが、どうすることも……

「――オレの愛する弟に、何の御用かな?」

 そこに、それを上回るであろう巨大な圧力が、正信の後ろから訪れた。獣もそれに反応し、そちらを見る。正信も振り返る。そこには――

「あ、兄き……」

【究武】尾木戸芳武が、立っていた。



 弟である尾木戸正信と、その向こうに身を屈めて立つ裸足の少年を視界に入れ、芳武は考えていた。

 虫の知らせとでも言うべきか。芳武には、時折それがくる。あれは全日本大会で初優勝した頃からだったか、師匠の付き合いで盛り場や娼館通りなどを歩く時などに感じられるようになった。ピンとくるのだ。この先には、何かがある。もしくは身内に、何かが起こっていると。これが武道家特有の、気配を察するというものか、と芳武は考えていた。

 ――さて。何者だ、こいつは?

 そんな予感に新入門生への説明を打ち切り後輩に任せて正信のあとを追ってみれば、この場面だった。向こうに立つ少年の姿は、なかなかに異質なものがある。白いTシャツとジーンズはともかくとして、この砂利道に素足。まともな人間なら血まみれになっているところだろう。髪もぼさぼさの伸び放題で、顔も手も薄汚れている。まるで話に聞く、狼少年のようないでたちだ。

 正信は、こちらを見て瞳を揺らしていた。体が小刻みに震えている。怖がっていたのだろうか? だとしたら、自分は今の弟にとって救いのヒーローということになるだろうか? ハハハ、気分がいいな。

「あ、兄き……」

「どうした弟よ? なんだこの男は。お前に、なにか用事なのか?」

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