孤狼

 腰の辺りに、体当たり――低空タックルを浴びたうひゃ男は、そのまま何の抵抗も出来ずごろりと仰向けになった。そして少年はうひゃ男の腹の上に馬乗りになり、再びニヤリと獣じみた笑みを浮かべ――

 怒涛のように、拳を打ち下ろした。

「うひゃっ、がひっ、おひっ、ぐほっ、ごぼっ、がぼっ、ぐぶっ、うぶっ、ぎぶっ、ごっ、がっ、ば、ばぁあああ!!」

 滅多打ちだった。一発殴るたびうひゃ男の顔はピンボールのように弾け飛び、勢いが消えないうちに反対側の頬にカウンター気味に逆の拳を叩き込む。隕石のように降り注ぐそれに、うひゃ男の声は設定を失っていった。まず唾液が飛び、鼻水が飛び、皮が飛び、血が飛び、歯が飛んだ。うひゃ男は十二発目の拳に断末魔のような大声をあげ、その上から降ってきた拳に鼻っ柱を叩き潰され、完全に沈黙した。

 そして少年は拳を、唾液と鼻水と粘液と血液の糸とともに引き、もう一人を振り返った。

 タックルを決めてからここまで、僅かに三秒。キメ男はあっけに取られ、反応する暇もなかった。

「ふ、ふひ?」

 少年は、再び笑う。ニヤリ、と。まるで、獣のように。

 キメ男が一歩、後ろにさがる。

「お……おいおい、ふひ……なんだよ、こいつ……?」

 少年が上体を屈める。獲物に喰らいつく、獣のように。

 キメ男がさらに二歩、後ろにさがる。恐怖に体が震え、歯の根が合わなくなる。

「や、やべぇ、ふひ……やべぇよ……っ!」

「ハァ――――――――ッ!」

 雄たけびと共に、少年は飛び掛った。

 少年の在り方はその風貌と同様に、大きく逸脱していた。

 学校には通っていない。そして家族とも暮らしていない。日雇いの仕事を見つけ、その金で暮らしている。寝床は野宿。ただ、その日を生きるだけの生活だった。獣に近いその生き方は、幼少の頃の出来事に起因していた。

 叶えられなかった衝動があった。矛先を失ったそれは、自身の檻の中で膨れあがり、やがて少年の裡には自身すら抑えられないほどの巨大で濃密な猛りが生まれていた。

「ハァ――――――――ッ!!」

 トドメの拳が、キメ男の顔面に突き刺さる。馬乗りにされたキメ男は両手を伸ばしたままピクピクと痙攣し、そのまま動かなくなった。血だまりに沈む三つの身じろきしない体が転がる中、返り血を全身に浴びた姿で少年は立ち上がる。三日月が微かに惨状を照らす中、再び少年はニヤリと笑った。

 ただ、戦いたかった



 理由は、新しく入門生が来たからだった。

 暗い夜道を歩く。今日の月は、特に細い。普段以上に道の先が見えにくい。特に街灯の下の死角はほとんど見えない。車道を中心として、よく注意して進まないといけない。

「それにしても、今日は暑いな」

 手団扇で自分の顔をあおぎながら、正信は呟いた。ここのところ夏に向けて気温が上がってきていたとはいえ、今日の夜は真夏日並みだ。じっとりと湿気を孕んだ空気はまるで質量を持っているように体に纏わりつき、汗を吹き出させ、動きを鈍らせる。

「……ふぅ」

 息を一つ吐き、手の甲で額の汗を拭った。しかし手の甲にも汗が滲んでおり、あまり効果はなかった。少し走っただけでこの様だ。正信はこの季節が、得意ではなかった。

 左手には、兄きから受け取ってきた書類を持っている。道場借用に関しての必要事項が書き込まれた書類だ。普段は兄きが月の初めに事務所に持っていくものだが、兄きは今、新入門生にあれこれと入門手続きや必要事項についての説明をしている。基本的に見学者は稽古が始まる前に訪れ、練習内容を確認してから入門を決めるパターンが多く、今回のような稽古終了間際というのは珍しかった。だから今日は代わりに、正信が一人で運んでいた。普段通らない道なので少し緊張していたが、ほとんど一本道で迷う心配も無く胸を撫で下ろしていた。これぐらいのお遣いぐらいは、やらなければ。やれなければ。これぐらいのことは、出来なければ。

 そう考えながら俯き加減で歩いていると不意に、正信は注視していた先の電柱の根元に、物影を見つけた。

「?」

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