都会のアンダーグラウンド

 そこに、ソレはいた。呟かれた言葉には、獣じみた荒い息遣いがまとわりついている。狭い道を臆することもなく歩くそのさまは、まるでサバンナのハイエナのようだった。突然目の前に現れたネズミにも、動揺した様子を見せない。

 ソレは、思う。

 尾木戸芳武。年齢二十八歳。淵己式空手術八段にして、現当主。さらには同流派の全国大会素手部門にて、五連覇を達成。二十代の若さで現在格闘技界において最強の二つ名である『究武』の称号を得る。

「…………」

 その姿に、魅せられた。

 古武術としての空手を使いこなす。今のスポーツ化したものではない、本当の殺人術としての空手だ。手足を、刃物と化す空手を――

 ソレは進む。暗く湿った臭う下水道を、気にする様子もなく淡々と。そして目的の位置まで辿り着き、そこに突き出た梯子を昇り、マンホールを開けて道路に出た。

 細い、三日月の夜だった。

 照らすべき街は夜空と比べてもなお暗い。薄闇が覆う街並みは、昼のそれとは別ものだった。

 そこに、三つの人影が現れる。

「おいおい……お前、あんだヨ?」

 くちゃくちゃとガムを租借する、髪をトサカのようにおっ立てた少年は、その手にナイフを握り締めていた。脇を固める二人も似たり寄ったりだ。目の先に得物をちらつかせ、ソレを威嚇としているようだった。

「ここヨぅ、俺たちの縄張りなんだわ。テリトリー。わかル? だからヨぅ、ここに這入った奴らはシメとかないと、オレたちハタさんに殺されちまうわけ。おわかリ?」

 うひゃはは、と耳に障る笑い声を発する右隣の男。その後方では野犬が、ポリバケツを漁っていた。散乱された生ゴミの袋を、漆黒の鴉がつついている。歩く人間はみな猫背で、フラフラと頼りない足取りでその口元はだらしなく開けられていた。

 ここは明るい繁華街から離れた、娼館や酒場が立ち並ぶ無法地帯だった。着ている服は薄汚れており、その目線は獣のように鋭く細められている。

「ふひ、ふひ、ふひ……おい、ガキ。な、な、何とか言えやおい。な、な、なめてんのかコラ?」

 ソレの左隣に立つ目を剥き涎を垂らした男が、小刻みに痙攣を起こしながら詰め寄ってくる。おぼつかないその言動は、ある症状をものがたっていた。

「おいおい、タツ。ちょっと今日キメ過ぎだロ? サックリ刺しちまうなヨ、こいつとは今から俺がお友達になるんだからヨ」

 トサカ男がそう笑い、ソレの肩に手を回した。ソレの表情は変わらない。トサカ男のされるがままだ。

「てなわけで、ヨぉ? 今からお前とオレは、ダチだ。で、ヨぉ。オレ今ちょっと金なくて、遊びいけないんだヨ。だからお前ヨ、友達のオレに、ちょっと金かしてくれないかヨ?」

 ラップ調に言葉をまくしたてながら、トサカ男はソレの頬にぺちぺちとナイフの腹を当てた。ふひふひ、とキメ男は笑い、もう一人はうひゃははと笑った。その刃が三日月の光を不気味に反射した。

「な、わかるヨな? だからヨ」

「死ねヨ」

 トサカ男の顔が、真後ろにのけぞった。

『!?』

 キメ男とうひゃ男の目が、驚愕に見開かれた。そのままトサカ男の後頭部は物凄い勢いで後方に弾け飛び、コンクリートの地面に激突した。がつ、と危険な音と共にバウンドし、再び着地、沈黙。トサカ男は二度とライムを刻むことはなかった。そして元々トサカ男の頭があった場所には、少年の腕と握り固めた拳があった。

 キメ男が反応した。

「てめ、ふひ、こら、おひ……な、なにしやがったコラ!」

 手にあるナイフをソレに向けて、突き出す。だがソレは獣じみた俊敏かつ粘っこい動きで後方に回避し、上体を屈めた低姿勢で男二人を睨む。

 その姿が、月光に照らし出される。

 ニヤリ、と笑う顔が、そこにはあった。ボサボサの黒髪に、柔らかい輪郭の顔、細い瞳。そして着込まれて伸びた白いTシャツと、褪せた色のジーンズ。

 ソレは、齢を僅か十六を数える少年だった。

「が、ガキ……てへ、コラ、ただで済むと思うなよ、ふひ……」

「うひゃはは!」

 今度はうひゃ男が雄たけびと共に襲い掛かる。両手をばたつかせながら、その手のナイフを突き出す。

 それを少年は、状態を屈めて躱す。もはやその姿勢は地面ギリギリ、四つん這いの――それこそ猫科の肉食獣を、思わせた。

 そのまま、突進した。

「うひゃ?」

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