引け目

 視界が、反転した。床が頭にぶつかった。椅子が落ちてきた。痛みに目が眩みながら、紗姫に椅子を足払いされたのだと正信は理解した。

「っ――――!」

「フンっ、死んじゃえ」

 捨て台詞を残し、紗姫は身を翻して去っていった。あとには六人の取り巻きたちが続く。紗姫の人気は学校内外を問わずだ。みんな正信の方を嘲るように見ていた。

「っ……何が気に入らないんだ、あのワガママ娘は……!」

 確かにとびぬけて可愛いことは認めるけど、あの性格はいただけない。いきなり前触れなく暴力を振るってくるし、言葉もキツい。……あの兄きの弟がこんなんで、しかも向上心もないから焦れるという気持ちもわからないでもないが、あまりにも直接的過ぎる。まぁ彼女のファンの中には、あのハッキリしたのがいいという人も結構いるんだろうが。

 膝をついて立ち上がり、制服についた埃を落として、頭を抑えた。じんじんと芯まで痛んだ。

「…………くそっ」

 自分だってわかっていた。情けない。カッコ悪い。あの尾木戸芳武の弟ならば、もっと修行して、強くあるべきだと。

 だけどその気には、なれなかった。

「…………罵りたければ、罵ればいい」

「っかわらずだな、あの姫さまは」

 すると頭上から、声が降ってきた。それに正信はハッ、と顔を上げる。

 そこに、額にバンダナを巻いた男が立っていた。

「土井か……てて、カッコ悪いとこ見られたな」

 それに土井は、笑みを作る。そのシャツはすべてボタンが外されており、そこからは土井お気に入りのアニメ化されたラノベのキャラクターがプリントされたTシャツが覗いていた。

「そんなのは、いつもの事だろ? そんなことより、これ。読み終わったから貸すよ。お前読みたがってただろ?」

 そしてその手には、新作のライトノベルが掲げられていた。それを目にして、正信は表情を緩ませる。

「サンキュ。これだけが、楽しみだぜ……」

 いつのまにか傍には、池田と島本くんも来ていた。

「まぁ、気にするなよ正信。あの紗姫ひめさまの横暴は、今に始まったことじゃないし」

「そうそう。とりあえず黙っていればそれ以上被害広がらないし、無視していればそのうち飽きるかも」

 それら友達の言葉が、ありがたかった。こいつらだけは、自分のことを『究武』の弟として見ない。ありのままの、本当の自分、尾木戸正信として見てくれる。それが、嬉しかった。

 学校では憂鬱が七割で、その他が三割で構成されていた。その他の中には片想いや友情や退屈などが含まれていた。


 道場では、憂鬱二割増しといったところだった。

 片想いや友情分がすっぽりと抜け落ちているのだから仕方ない。それに皆が皆、一緒だとはいわないが紗姫に近いやり方で正信を見ていた。息苦しかった。体が針金で縛り付けられているような心地だった。

 だけど、辞めることも出来ない。そんなことをしたら、それこそ自分は本当に、終わってしまうような気がして。存在価値が、なくなってしまうような気がして。

「正信、最近学校はどうだ?」

 考え事をしながら更衣室で空手衣に着替えていると、兄きから声をかけられた。目線は空手衣に送り続けながら、正信は答える。

「……うん、悪くないよ」

 そのまま五秒沈黙。兄きが言葉を発する。

「そか……」

 会話が途切れる。当然だ。それを狙って、そっけなく一言だけの返事をしたのだから。兄きの気配が去っていく。それを待ってから、帯を締めた。兄きと最近、目を見て話した記憶がない。

 引け目が、拭えなかった



 理由は、その拳に挑戦したいからだった。

 電気店の街頭テレビの前に、ソレは立っていた。テレビでは、格闘技の試合の模様が中継されていた。深夜。月明かりのみが照らす暗い街で、ブラウン管の光だけがその姿を照らしていた。歓声が、辺りに響き渡る。それに立ち止まる者はいない。みな次の目的地へ、もしくは自分の巣へと足を進めていた。

「……尾木戸」

 そしていつものように、ソレは歩き出す。人の群れの、反対へと。

 舞台は変わり、そこは暗い道だった。先は見えない。道幅は狭く、ひと一人がやっと通れる程度しかない。その隣からは幅広の水面が広がっており、さらに向こうに同じような通路が見て取れた。湿った空気が肌に纏わりつく。異臭が鼻をつき、時おりネズミが足元を駆け抜けた。

 そこは、下水道だった。じめじめとした空気と、不衛生な環境。先を照らすものといえば、時折り降ってくるマンホールの隙間から漏れる、僅かな月明かりのみ。まともな人間が訪れるような場所ではない。

 都会の、アンダーグラウンド部。

「尾木戸、芳武……」

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