第7話 私の名前はセレディア
メロディがレギンバース伯爵邸を訪れた日より少し時間を遡る。
それは夏の舞踏会を終えた翌日、九月一日の朝のこと。
レギンバース伯爵邸の一室にて、一人の少女が床に就いていた。
「お嬢様、お加減は如何ですか」
「大丈夫です、セブレ様。少し熱があるだけですから」
ほんのり頬を赤らめてベッドに入る少女の名はセレディア・レギンバース。
最近、レギンバース伯爵クラウドの一人娘として引き取られた元平民の少女だ。前日に参加した舞踏会で体調を崩し、今朝になって熱が出てきたらしい。
伯爵から護衛騎士を任じられた青年、セブレ・パプフィントスはベッド脇に腰掛けながら心配そうにセレディアの様子を窺っている。
「それで、先程のお話の続きなのですが……王都に魔物が現れたとか」
「はい」
「まぁ、恐ろしい……」
か細い声を震わせるセレディアの様子に、セブレはキュッと眉根を寄せた。
「……体調の悪いお嬢様にお伝えすべきか悩んだのですが、命に関わることですのでお耳には入れておくべきかと思いまして。申し訳ありません」
「いいえ、セブレ様のお気遣いに感謝します。それで、どれほどの被害が出たのですか」
「ご安心ください。幸い、襲われた者達が見事に討伐し事なきを得たそうです」
「……そうなの、ですか?」
呆気にとられたように瞳をパチクリさせるセレディア。
セブレは少し自慢げに微笑んだ。
「はい。魔物に遭遇したのは舞踏会でも挨拶した同僚のレクト達だったのですが、誰一人怪我することなく倒しきったそうです。レクトは強いですからね。さすがとしか言いようがありません」
「誰一人怪我なく……それを聞いて安心しました」
セレディアは優しくも切なげに微笑んだ。大人とも子供とも形容しがたい成人したての少女の笑みにセブレは思わずドキリとしてしまう。そして気持ちを誤魔化すようにコホンと咳払いをした。
「そういった理由から、王都の安全が確認されるまで王立学園の二学期開始はしばらく延期となる知らせが先程届いたので、お知らせに参った次第です」
「ありがとうございます、セブレ様」
連絡事項を伝え終えたセブレへ少し雑談を交わすと退室していった。セレディアは部屋の隅に控えていた侍女に「しばらく一人でゆっくり休みたい」とお願いして部屋から出てもらう。
完全に人の気配がなくなるとセレディアはベッドから起き上がった。先程までの優しげな姿などなかったかのように、忌々しげな表情で大きく舌打ちをした。
セレディア・レギンバース。
その正体は孤児の少女レアに憑依した謎の存在――本人曰く『第八聖杯実験器ティンダロス』である。
隣国のヒメナティス王国にて邂逅を果たしたティンダロスとレアは、ティンダロスからの一方的な願いの成就という契約を交わされたことで、肉体の主導権を奪われてしまったのだ。
レア本人の精神は心の奥底で深い眠りについている。
「まさか何の被害もなく我が猟犬が退けられるとは。我の魔力を前にどうやって……おっと、『私』はセレディア・レギンバースなのだから『我』なんて言葉は使わないのよ」
そっと口元を押さえると、セレディアは切なくも儚げな表情を取り戻した。
「レアの願いは『セシリア・レギンバースになりたい』。であるならば契約を交わした以上、私自身もきちんとその役割を演じなくてはね」
微笑を浮かべるセレディアだったが、脱力するように再びベッドに体を預けた。
「……昨夜の影響ね。やはり人間の体で力を使うのは負担が大きいみたい」
(本来の我、じゃなかった、私なら全く問題ないのに、人間の肉体って脆いわ。本当なら猟犬と五感を共有して戦況を把握できるのに、レアの体ではそれも難しいみたい)
ティンダロス改めセレディア。彼女は心の中の言葉遣いにも気を付けているようだ。
(だけど、封印が解けたあの場にレアがいたことは間違いなく幸運だった。まさか人間二人分の自我を納められるほど大きな器を持っていながら、一人分の空きがある人間に遭遇するなんて僥倖以外の何物でもないもの。この程度の制限、不利でも何でもないわ。待っていなさい、レア。あなたの願いはこの私がきっと叶えてあげる)
セレディアはベッドに寝転がりながら、いつしか微睡みに包まれていった。
『ははははは! とうとう完成したぞ。見ろ、私の研究チームだって聖杯を作れるんだ! 私をメインチームから外したことを後悔させてやる!』
『聖女の研究? そんなもの必要ないわ。聖杯を量産し、負の魔力を回収すればいいだけだろう。限界が来て聖杯が自壊したところでまた作ればいいだけだ。それよりも、聖杯を使った軍事利用の話が来ていてな』
『さあ、私と契約しようじゃないか……可愛い可愛い、私のティンダロス』
「――はっ!」
セレディアは目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだ。
ゆっくりと起き上がり窓を眺めると、空が茜色に染まっていた。もう夕方らしい。
本日は九月三日。熱を出して寝込んでから既に三日が経過していた。
無意識に顎のあたりを手で拭った。全身汗だくで額や頬からも汗が滴り落ちている。
「……嫌な夢」
ただ、たくさん汗をかいたおかげか体の熱はもう完全に引いたようだ。火照りが収まっている。
悪夢で荒れた呼吸を整えると、セレディアはベッドから立ち上がり窓の方へ歩いた。
「……最早どうだっていい事よ。それよりも今後のことを考えないと」
まるで現実から目を背けるようにセレディアはレアとの契約について思考を始めた。
「契約履行の目標は例の五人のうち誰かと恋愛関係になること……いいえ、私が恋に落ちるなんてありえない。だから目標は五人のうち誰かを恋に落とすこと。ふふふ、そうだわ、彼らのことは今後『攻略対象者』とでも呼びましょうか」
そう、私は彼らと愛し合うのではない、彼らを攻略するのだ。魔王ティンダロスの名の下に攻略対象者達を堕としてみせよう。セレディアは邪な笑みを浮かべる。
同時に「だけど……」とも考える。
(周囲の状況がレアの未来の記憶とかなり乖離がある。これは何を意味するのかしら……?)
ティンダロスはレアの願いを叶える際に彼女の記憶を読み取っていた。そして不思議なことに、彼女は断片的ながらこの世界の『未来の記憶』を所持していたのだ。
本来のセシリア・レギンバースに訪れるだろう多種多様な結末や出会う人々。そして何より、セシリア・レギンバースが『聖女』であるという事実。
レアには未来予知の力があったのか今となってはもう分からないが、彼女が伯爵家の一員となるのにこの記憶が役に立ったのは確かだった。
しかし、レアの『未来の記憶』は完璧ではなかった。
自分の名前の事もそうだが、そもそも本物のセシリアがこの場にいないのはなぜなのか。傷心旅行とのことだが、レアの記憶ではそんな出来事は起きていない。
それだけではない。前日の舞踏会でもレアの記憶と異なる人物が多数存在していた。
アンネマリー・ヴィクティリウム。
レアの記憶では癇癪持ちのおバカな令嬢という印象だったが出会ってみれば周囲から『完璧な淑女』などと称賛される優秀な令嬢であった。レアの記憶によれば、彼女がセシリアに突っかかってくることで事件が起き、攻略対象者との仲を進展させるきっかけになる場合もあるのだが、そんな素振りは見られなかった。
シエスティーナ・ヴァン・ロードピア。
留学生として王国にやってくるはずの攻略対象者シュレーディン・ヴァン・ロードピアに代わって王国に留学してきた帝国の第二皇女。
その容姿はシュレーディンそっくりであるが、根本的に性別が女性である。彼女を恋に落としたとして、果たしてヒロインの座を手に入れたことになるのだろうか。レアの記憶ではシュレーディンが一番のお気に入りだったようだが……。
そしてルシアナ・ルトルバーグ。
ヴァナルガンドの捨て駒として利用され、既に死んでいるはずの少女。その容姿もレアの記憶とは異なり、可憐な妖精の輝きを放っていた。そんな人物が、攻略対象のマクスウェルをパートナーとして舞踏会に現れたのである。レアの記憶では、夏の舞踏会のセシリアのパートナーは彼だったはずなのに。
極めつけはセシリアと名乗る少女の存在だ。
金髪赤眼で容姿こそ異なるがヒロインと同名の少女である。彼女は攻略対象者レクティアスのパートナーとして現れた。噂によれば春の舞踏会でもレクティアスのパートナーとして参加したらしい……まさにレアの記憶通りに。
(平民の少女セシリア、一体何者なのかしら? まさか彼女こそが本物の聖女? いえ、それにしては魔力を全く感じなかった。聖女であるなら多少はそれらしい気配がするはず)
レアの肉体に宿ることでティンダロスは能力を大きく制限された。魔力の感知能力も同様で、レアの肉体を通した魔力感知では、完全に制御されているメロディの魔力を察知することはほぼ不可能ななことであった。
だからだろうか、自身がレアの髪色を魔力で染めたにもかかわらずセシリアの髪色が染められたものである可能性にセレディアは気付いていない。
(まあ、いいでしょう。所詮平民の少女。本人も王立学園生ではないと言っていたじゃない。昨夜は思わず『猟犬』をけしかけたけど、学園に通わないのなら私の邪魔にはならないはず……)
「それに、邪魔だと判断したら今度こそきっちり処分すればいい話よね」
セレディアはクスリと微笑んだ。それは昨夜、ヴァナルガンド大森林でハイダーウルフを『猟犬』に変えた時のような邪悪で蠱惑的な微笑みであった――のだが。
「え?」
ポタリと、セレディアの手の甲に雫が零れ落ちた。それは一滴に留まらずポタリポタリと、いくつもの雫がセレディアの瞳から溢れ、流れ出ていく。
「何、これは? どうして私、こんな…………レア?」
涙を流しているのは自分ではない。であれば誰が、などと考える必要もない。レア以外に誰がいるというのか。この涙はレアのものであった。
「……レア、どうして泣いているの?」
心の奥深くで眠りについているはずのレアが、肉体に影響を与えるほど大きく感情を揺らしている。だが、ティンダロスにはなぜレアが涙を流しているのか、その理由が分からなかった。
そして――。
「え? ちょっと? レア? これはいつまで続くのかしら?」
レアの涙が止まる気配はなかった。それはもうポタポタからボタボタへと擬音が変わり、セレディアの意思に反し滂沱の涙を流し続けた。最終的に直前の自身の言動に原因があると考え、殺生の意思を撤回するまでこの現象が止まることはなかったという。
ようやく涙が止まった頃にはセレディアは泣きつかれた赤子のようにぐったりとベッドに寝転がっていた。涙を流すというのは意外と体力を消耗するのだ。
「これは……安易に殺すわけにはいかなくなったわね。レアときたら余計なことを」
ベッドの中で脱力したままセレディアはポツリと呟く。
昨夜の襲撃が成功していたらどうなっていたのか、考えるだけで恐ろしい。折角手に入れたレアという容れ物が涙一つで失われかねない。
「王立学園では、よくよく気を付けて行動しなくては……待っていなさい、攻略対象者達。この世界のヒロインが誰か教え……てあ……げる……わ……」
室内に少女の小さな寝息が穏やかに響くのであった。
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