エピローグ 前編

 命芽吹く新緑の季節、春。四月一日。王立学園の入学式、そして社交界デビューを控えた貴族の令息、令嬢が初めて参加する春の舞踏会が開催されたその日の深夜。

 貴族区画に立つルトルバーグ伯爵家の邸宅から微かな歌声が響き始める。月明かりが差す調理場の椅子に腰掛けるメイドの少女が、その膝に抱く子犬のためだけに紡ぐ子守唄。


 ――歌声に安らぎを添えて。『よき夢をファインベルソーゴ』。


 メイドの少女、メロディはなかなか寝付けぬ様子の子犬のために魔法を使った。その子犬が魔王と呼ばれる強大な力を秘めた存在であることも知らずに。

 自身が『銀の聖女と五つの誓い』という乙女ゲームのヒロイン――聖女であることさえ知らず。


 魔王を眠らせ、夢の世界へ誘うために聖女の魔力が解放されていく。子守唄に集中するメロディは気付かない。自身から放たれる膨大にして強大な銀の魔力に。

 その力はまるで大樹のように迸り、枝葉を伸ばすように王都の全域を包み込んでいく。それは魔王を眠らせるに留まらず、王都に住まう全ての者に眠りを与えていくのだった。


 ……そして、それほどの力ある魔法の影響が、王都だけで済むはずがなかったのである。


 やがてメロディの魔法は解かれ、大樹のような銀の迸りは大気へ溶けるように散っていった。しかし、それほど強大な魔力が完全に消えてなくなることは難しく、一部が残滓となって世界に留まることとなる。

 本来物理的な影響を受けないはずの魔力は、まるで風に流されるかのように北へ西へと運ばれていった。ゆらゆらと漂うようでいて、しかし急速に……導かれるように。



◆◆◆



 テオラス王国、ヒメナティス王国、ロードピア帝国。この三国は『Yの字』になって広がる大山脈によって国境が隔てられている。

 その山脈の中の一つ、ヒメナティス王国側のとある山は王国屈指の宝石鉱山となっており、鉱山の町が形成されていた。

 その町の中を一人の孤児、といってももう十四歳になるのだが、一人の少女が町の中を走り回っていた。盗んだパンを手に持って。


「待ちやがれ、この泥棒がああああああああ!」


「はんっ! そんなこと言われて誰が止まるってんだい!」


 勝気な少女はその軽い体重を活かしてタタンと飛び跳ねる。パルクールのように建物に飛び乗った彼女を追いかけるパン屋の店主はもう追いつけない。


「あ、待ちやがれ! くそ!」


「あはは! あたしのためにパン作りご苦労様! 褒めて遣わすわよー!」


「くそおおおおおおお! てめえ、いつか絶対に痛い目に遭わせてやるからな!」


 少女はニヤリと笑うと、大きな声を張り上げた。


「きゃあああああああああ! パン屋のゴーウィンに襲われちゃうううううう!」


「だああああああああああ! なんつーこと言ってんだアホオオオオオオオ!?」


 ハッとしたゴーウィンが周囲に目をやると妙齢の女性達から向けられる猜疑の視線が。


「あんのくそガキイイイイイイイイイイ!」


 建物を見上げた時、既に少女の姿はどこにもなかった。




 それから数分後、町の外れの物陰に少女――レアはいた。元々彼女に名前はなかった。物心ついた頃には一人だった。誰かが多少なりとも世話をしてくれなければそれまで生きていられるはずもないのだが、誰かに名前を呼ばれた記憶はない。


 仕方なく彼女は自分を『レア』と名付けた。何となく自分の名前はそんな感じな気がするという、酷く漠然とした感覚だったが今のところ彼女の名前を呼ぶ者はいない。あってもなくても大した意味のない名前であった。


 先程まで追走劇を楽しそうにしていたレアだが、今の彼女は感情が抜け落ちたような顔でパンを食べている。盗むことでしか得られぬ糧を美味しいと思える感性をレアは持ち合わせていなかった。

 この町に孤児を雇ってくれる奇特な人物などおらず、孤児を助けてくれる組織もない。孤児院さえない。本当に、夢も希望も金のあるやつにしか齎してくれない腐った町だ。


 こんな身なりじゃ他の町へ行ったって生きていけるはずもなく、結局人様の糧を拝借する以外に生きる道がなかった。だからって卑屈で腐った人間にはなりたくない。まるで何かのショーのように、人生を楽しんでいるかのような態度で盗みを働くのはレアにとってせめてもの虚勢であった。

 少しくらい楽しんでいる振りでもしていかなきゃ、生きる希望も見えやしないから……。


「あのおっさん、パン作りだけは上手いのよね……誰か結婚してあげればいいのに」


 冷静にパンの味を批評するレア。自分が孤児でなければ結婚してあげてもよか……いや、やっぱりなしで。さすがに年齢が倍近く離れているうえにお腹がポヨンと出ているおっちゃんは、いくら孤児で汚らしいとはいえうら若き乙女の純潔を捧げる相手には相応しくない。


(私はもっと色黒で、笑顔が可愛い人がいいのよ……見たことないけど)


 これもまた、気が付けばいつの間にか持ち合わせていた男性の好みであった。だがしかし、それがどんな人物であるのか全く想像もつかない。


(どんな人なのかな。夢の中にくらい出てくれればいいのに……)


 誰にも見つからない物陰に隠れたまま、レアは浅い眠りにつく。眠れる時に眠っておかないと、いつ誰に襲われるか分からないから。孤児のレアに安住の地はないのだ。



◆◆◆



「はぁ、はぁ、まずいな。あのおっさん達、本気じゃん」


「まて、この小娘があああああああああああ!」


 ある日、レアは盗みに失敗してしまった。今日町に入ったばかりの三人の旅人の荷物を盗もうとして見つかってしまったのだ。


 だが、何が最も失敗だったかと言うと――。


「いつまでそんな細っこい足で逃げ切れるかな!」


「くっ!」


 軽業のように建物の屋根を飛び跳ね逃げるレアの後ろで、三人の男は力強い脚力でドンッ! と屋根を蹴った。たったそれだけでレアが稼いだ距離があっという間に縮んでしまう。

 彼らは魔力使いだった。どこかの魔障の地に入っては魔物を狩って素材を売る、一種の傭兵の類。魔力を纏った人間は通常よりも高い身体能力を得る。

 いくらパルクール張りの移動技術を持つレアであっても形成は圧倒的に不利であった。


「ひゃはは、とっ捕まえて俺らがお仕置きしてやるからよう」


「何お前、こんなガリガリのガキがいいのかよぉ」


「臭そうだけど洗えば多少はマシになるんじゃねえか。ぎゃははは!」


(本当に色んな意味で人選を間違えたね! ぐう、仕方がない!)


 レアは逃走方針を変更することにした。軽やかに方向転換をして走り出す。


 鉱山の方へ。


「ああん、待ちやがれやああああああああ!」


 この鉱山の町では宝石が多く取れる。しかし、一部の坑道は既に掘り尽くされており、落盤の危険性から坑口を閉鎖している場所があった。木板をはめて入り口を塞いでいるが、レアほど小柄な体ならばギリギリ入ることも可能だ。

 レアはその危険な坑道に一時身を隠そうと考えていた。


「あそこに逃げ込む気だぞ! 追いつけ!」


「ぜってえ逃がさねえぞ!」


 レアの目的に気が付いたのか三人の男は慌てだした。塞がれている入り口も問題だが、小さなレア一人ならともかく、大柄な男が三人も入ったら落盤の危険性が跳ね上がる。それまでに追いつかなければ捕らえるのは困難だろう。


 だがしかし、勝利の女神はギリギリレアに微笑んでくれたようだ。


(よし、間に合っ――)


 ――よき夢を。


 木板の隙間から坑道に入ろうと飛び跳ねた瞬間……何かが頭の後ろで弾けた。

 一瞬だけ坑道の先が白い光に照らされたような気がしたが、その時には既にレアの意識は刈り取られた後であった。

 そのまま坑道に飛び込むレア。思いのほか勢いが強かったのか暗い坑道の奥に転がる音が坑口から響いた。そして、入り口付近で地響きが鳴り出す。


「止まれ!」


 三人は慌てて坑口の前で急停止した。入り口の瓦礫が崩れ、レアが入った坑道が塞がってしまう。三人はゴクリと喉を鳴らした。


「……あいつ、どうなったんだ」


「無理だろ。あれは死んだな」


「……ど、どうすんだ、これ」


「ど、どうもこうもないだろ……別に孤児一人いなくなったくらいで誰も騒ぎやしねえよ。いや、そもそも俺達は孤児の盗人なんざ知らねえ、そうだよな、皆」


「「……そうだな」」


 三人は口裏を合わせ、被害などなかった、そう言い合った。だが、坑道からの去り際、一人の男が疑問を口にした。


「なあ、あいつが坑道に入る直前、雪みたいなのがパッと光った気がしたが、ありゃあ何だったんだ?」


「「俺らが知るかよ!」」


 それ以降、鉱山の町に楽しそうな笑い声を上げて泥棒をする孤児の姿を見る者はいなかった。



◆◆◆



 白瀬怜愛。二十歳。大学生。彼女は英国行きの飛行機に乗っていた。特に大きな夢があるわけでもない平凡な彼女は、とあるゲームのプレゼント企画で英国旅行に赴いている。

 そんな機会でもなければわざわざ外国へなど旅立たない。得意なこともなく、他人に自慢できるようなものもなく、ただ漫然と平凡に生きてきた彼女にとってこの旅行はほんの少しだけ自分に勇気を与えてくれる、特別な自分になるための小さな一歩だったのかもしれない。


 そんな彼女は現在、飛行機の中で隣の席の男性と楽しくおしゃべりをしていた。

 彼の名前は弘前周一。二十三歳。造園家と呼ばれる外国版の庭師のような仕事を目指している青年だ。どうやってなるのかと尋ねたら『どうやったらなれるのかな?』なんて本気で聞いてくる、ちょっとオチャメな人である。

 話し上手な周一に促され、怜愛は自分の旅の目的を話した。


「何それ。それで十人も参加してるの? めっちゃ奮発してるじゃん、ゲーム会社」


「そうですよね。ペアチケットなので最大二十人なんですけど、私は一人なので実際何人なのか私もちょっとよく分からないです」


「そっか。でも怜愛ちゃんが一人でよかった。ペアで来てたらきっとこうやっておしゃべりできないもんね」


「そ、そうですか?」


 ニヘラッと笑う周一が何だか嬉しそうに見えて、怜愛は少しばかり顔を赤らめてしまう。

 たまたま隣同士になった二人。最初に声を掛けてくれたのは周一からだった。よく言えば恥ずかしがり屋、悪く言えば臆病な怜愛にはとてもできない行動だ。


 正直、誰とでもすぐに会話を始められる周一が羨ましかったし、同時に声を掛けてもらえてよかったと思う。ムスッとした男性と隣り合って沈黙を貫くのはやはりつらい。

 日焼けをした風貌が何となくナンパ好きの男性のように思えて最初こそ怖かったが、どちらかというとフェミニストに近いような気がする。周一はとても優しいから。

 怜愛は周一のことをかなり好意的に捉えていた。


 周一は怜愛に色々な質問をした。彼女の好きなことも尋ねられ、怜愛が話の流れから今回の英国旅行の理由となった乙女ゲームを話題に上げたのは当然のことだったのかもしれない。

 そこから出るわ出るわゲーム知識……。


 周一の口元が少し引き攣っているように見えるが、全然気にならない怜愛はゲームのパッケージを取り出すと、とあるキャラクターを指差した。

 乙女ゲーム『銀の聖女と五つの誓い』の第五攻略対象者、シュレーディン・ヴァン・ロードピアである。


「私、このキャラクターが一番好きなんです」


「へぇ、色白でスマートなイケメン。日焼けして真っ黒な俺とは大違いだなぁ」


「ふふふ、そうですね。でも私、弘前さんは日焼け姿がよく似合ってると思います」


「うへへ、褒められちゃった。で、そのキャラはどんな人なの?」


「明るくて楽しい弘前さんとは正反対で、見た目通り冷たくて俺様なうえに腹黒くて自分勝手な人です。でも、とっても魅力的なんです」


「……怜愛ちゃん、大丈夫? 暴力野郎と付き合ったりしないように気を付けてね。顔以外いいとこなしじゃん、このイケメン」


「ゲームだからいいんです」


「はぁ、やっぱり世の中顔なのね」


 ガクリと項垂れる周一の姿に、怜愛は思わずクスクスと笑ってしまった。

 実際にシュレーディンのような人間が実在したら、きっと怜愛は怖くてブルブル震えていたことだろう。俺様で冷淡な人間は二次元の世界、実際に怜愛を傷つけることができない存在だからこそ憧れと好奇心が刺激され、楽しむことができるのである。

 こんな人間と正面から向き合えるのは、ゲームのヒロイン『セシリア』だけだろう。


(現実なら断然周一さんみたいな優しい人がいいに決まってるもの……)


「怜愛ちゃん、黙っちゃってどうかした?」


「あ、いや、何でもないですよ。そうだ、このキャラクターについてですけど」


 直前に自分が考えていたことが恥ずかしくなり、それから怜愛は捲し立てるようにシュレーディンを中心としたゲームシナリオの説明を行った。




☆☆☆あとがき☆☆☆

最新小説第3巻は9月20日(水)発売予定。

発売まであと1日……って、明日だ!

予約をしていない方はぜひ書店にてよろしくお願いします。

書店によっては多少陳列が遅れる可能性がありますのでご注意ください。

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