プロローグ 後編

「あれは誰がしゃべっていたんだろう? 可愛い女の子の声だったけど」


 シュレーディンが思い出した記憶。それは見知らぬ女性が語る彼自身の末路であった。

 王国へ留学した彼に訪れるであろう、まだ起きていないはずの未来の可能性の数々。


 計略が露見し、王国で捕まってしまう未来。

 帝国よりも一人の少女を想うあまり故国を裏切り、最終的に少女を守って死ぬ未来。

 計略は成功するが愛した少女を失うことになり、自暴自棄になって自殺してしまう未来。


『シュレーディン・ヴァン・ロードピアのバッドエンドは、多くの場合彼自身の死にも繋がってしまうんです』


『彼には何種類もエンディングが用意されているんですが、計略が成功するのはたった一つのバッドエンドだけで、それさえも彼は死んでしまうんです』


『だから、実質的にシュレーディンの計略が成功するエンディングは存在しないんです』


「はっ、はっ、はっ……!」


 脳内に響く見知らぬ女性の声。シュレーディンの胸の鼓動は乱れ、呼吸も整わない。彼は酷く動揺していた。なぜか女性の言葉が本当であるという不思議な確信があったからだ。

 なぜ? と問われても理論めいた答えなどない。本能的にそう感じてしまったのだからどうしようもなかった。彼女の言葉に嘘はないのだと、なぜか信じてしまったのだ。


 鏡に映る、白磁の肌と金髪のイケメン顔を見た瞬間、悟ってしまったのだから。

 このままでは自分は、シュレーディン・ヴァン・ロードピアは死んでしまう――と。


 ベランダで彼が触れた白い光の粒。それはもちろん、メロディが使った魔法『よき夢をファインベルソーゴ』の残滓であった。テオラス王国の王都にて発動した魔法の欠片が、たった数時間で北方にあるロードピア帝国の帝都の、無自覚な元日本人の転生者・弘前周一の元へ風に乗って運ばれてきたのである。


 ……それは何の冗談だろうか。偶然というにはあまりにも作為を感じざるを得ない状況であった。しかし、それを確かめる術はなく、確かめようとする者さえどこにもいない。


 とにかく、偶然にも魔法の残滓に触れたシュレーディンは、ほんの少しだけ前世の夢を見た。悲劇的な飛行機事故が起きる少し前、機内で知り合った女性から乙女ゲーム『銀の聖女と五つの誓い』に関する話を聞かされていただけの、短い夢。


 残念ながらその夢だけで、シュレーディンは弘前周一が自身の前世であると自覚することはできなかった。ましてや夢は儚いもの。目を覚ました彼は夢の内容などほとんど忘れてしまい、偶然にも直後にゲームパッケージと同じ自分の顔を目にしたことで白瀬怜愛が語るシュレーディンの行く末を断片的に思い出しただけだったのである。


「お、俺、死ぬ。このままじゃ、死んじゃうっすうううううううう!」


 ……何の因果か、記憶以外の別のものが復活してしまっているようではあるが。


「まずい、まずいっすよ。このまま王国に留学したらほとんど死んじゃう未来っす。どうにかしないと、どうにか……」


 シュレーディン・ヴァン・ロードピア。彼は前世の記憶を思い出さなかったにもかかわらず、なぜかその人格はほとんど周一化してしまっていた……なんでやねん。

 困惑しながら室内を歩き回るシュレーディン、というかほとんど周一。


「そもそもなんで俺、わざわざ身の危険を冒してまで王国相手に計略かけようとしてるんすか、バカなんすか俺……ああ、皇帝になりたかったんだった……アホっす!」


 権力のために命を危険に晒す自分のアホさ加減よ。周一化したシュレーディンは過去の自分を全否定するのであった。


「えーと、父上を説得は……うわぁ、絶対無理。今更やっぱりやめますなんて通用しないっす、頑固親父め! シャルマイン兄上に相談は……うえーん、これも絶対無理。兄弟仲悪すぎだろ俺のバカ! 母上は政治に無関心で役には立たないし、あとは……あ、シエスティーナ! あいつなら真面目で優秀だから頼りに……できない! うぉぉぉ、あいつ、俺のこと嫌ってたわ。俺もあいつのこと嫌ってというか見下してたし。お願いなんてしたところで聞いてもらえる気がしない。そもそもあんなに健気で美人な妹を嫌っていた俺、マジで頭がおかしいんじゃないの!?」


 現在進行形で頭がおかしいことになっているシュレーディンは、過去の自分に悪態をついた。悩みに悩みぬいて室内を歩き回った彼は、結論が出たのかピタリと足を止めた。


「……もう無理。王国に行けば死のリスク。王国に行かずとも今更計画を撤回した俺は役立たずの烙印を押されることになる……邪魔者は排除パターンでやっぱり死のリスク」


 ガクリと項垂れたシュレーディンは「……オワタ」と呟いた。


 たとえ王都行きを無理にでも取り止められたとしても、味方だったはずの貴族達からは不信の目を向けられ、悪くすれば裏切者のレッテルを貼られてしまう可能性も否定できない。次代の帝位争いが始まりだした今、それはたとえ第二皇子であっても死に直結しかねない失態といって差し支えないだろう。


 周一化していてもシュレーディンの頭はそれくらいのことは容易に想像できた。

 政争で役に立たない皇子など、状況次第では邪魔でしかない。場合によっては敵からも味方からも暗殺者を差し向けられる可能性は十分にあった。


 だから、シュレーディンに取れる選択肢は――。


「よし、帝国を出よう」


 ――逃げの一択しかなかったのである。


 正直、皇子としては大変に無責任な選択なのだが、今や人格が周一化しているシュレーディンの感覚は庶民に近く、大局よりも個人の身の安全の方が優先順位が高くなっていた。

 そこから彼の行動は早かった。


 人格が周一化しているとはいえ、彼がこれまで培ってきた技能が失われるわけではない。素早く身支度を整えると、彼は器用な身のこなしでバルコニーから自室を脱出した。

 ちなみにカーテンをロープ替わりにして降りるなどという、証拠が残りそうな手段はとっていない。いわゆるパルクールと呼ばれる、道具を使わずに建物や壁を乗り越えたりする技術を用いて、高いバルコニーから地上へ降り立ったのだ。


 帝城内の兵士の巡回ルートや見張りの配置も全て記憶しており、その能力を遺憾なく発揮することで時折生じる少しの隙を狙ってあっさりと帝城脱出に成功する。

 皇帝相手に王国へ計略をかけることを堂々と提案できるだけの、裏打ちされた実力を彼は有していたことがこれで証明された。


 自室には一言『探す必要はない』とだけ書き置きを残したシュレーディン。朝になって侍従がそれに気付き慌てて皇帝へ報告するが、彼はとっくに帝都を脱出した後だった。

 皇帝も第一皇子も、もちろん第二皇子派閥の者達も全員が混乱したことだろう。留学の案が通り、帝位に向けて第二皇子が一歩リードしたという翌日に、彼が失踪したのだから。


 シュレーディンの意図が読めず、帝城の対応は遅れてしまう。その間にシュレーディンは南へ下りテオラス王国に入った。といっても、国境の橋を渡ったわけではない。

 帝国と王国を隔てる西の山脈が途切れるあたりに森が広がっている。そこにも国境扱いになる大河が流れているのだが、ほんの一部だけ流れが緩やかになって少数であれば国境を通り抜けられる場所があった。


 シュレーディンはそこを通ってテオラス王国に入ったのである。それは奇しくも第四攻略対象者ビューク・キッシェルが幼少期に過ごした村の森へ通じる抜け道であった。

 ビューク達を襲った帝国軍はこの抜け道を利用して奴隷狩りを行ったのである。しかし、幸いと言ってよいのか、現在これの存在を知る者は帝国には存在しない。


 当時の指揮官は偶然にもこの経路を発見したものの、自らの利益と保身のためにこの抜け道を帝国に秘匿したのである。当時の部下にも口止めしており、そして現在、帝国軍に残っている者はいない。ある者は任務中に命を失い、ある者は例の指揮官と一緒に軍を追われ傭兵となるがやはり仕事中に命を失い、そうして最終的に指揮官も含めて秘密を知る者は誰もいなくなってしまったのである。


 ……それを当たり前のように把握しているシュレーディンの恐ろしさよ。


 シュレーディンはテオラス王国を抜けて西のヒメナティス王国へ向かうつもりであった。だが、如何に幼少から鍛えていたとはいえ皇子として生きてきた彼にとって、徒歩の旅は想像以上に過酷なものだった。そしてとうとう力尽きて倒れてしまう。


「はぁ、はぁ、み、水……魔法で……って、魔法ってどうやるんだっけ?」


 本来のシュレーディンは皇子として魔法の教育もしっかりと受けていた。筆頭魔法使いに比肩するなどとは言わないものの十分に優秀な部類のはずだったが、人格が周一化したシュレーディンはなぜか魔法の使い方をすっかり忘れてしまっていた。


 地面に寝転がって空を見上げるシュレーディン。白磁の肌は健康的に日焼けしており、パット見ただけでは彼がシュレーディンだとは気付かないだろう。小麦色の肌はいい変装になると踏んで、旅の道中上半身裸で歩いてしっかり体を焼いていたのだ。

 おそらくそれが良くなかったのだろう。水も食料も不足するなか、直射日光を浴びながらの旅路は彼の体力を一気に削いでしまったのである。


「ああ、結局バッドエンドなんすね……せっかく教えてくれたのにごめんね」


 自分自身、誰に謝っているのかよく分からなかった。だが、自然とその言葉が浮かんだのだ。だからだろうか、ふっと、意識が朦朧とするなかシュレーディンはうわ言のように誰かの名前を口にしようとして――。


「……ごめんね、れ――」


「おーい。君、大丈夫かい?」


 自分に覆いかぶさる影に気付いて、微かな思考は霧散してしまう。

 それがシュレーディンとヒューバート・ルトルバーグの出会いであった。助け起こされ、水を貰ったおかげで少し回復したシュレーディンは、身分を隠したうえで事情を話した。


「ふーん、実家を出奔して行き倒れたねぇ。……じゃあ、しばらくうちで働くかい?」


「え? いいんすか?」


「我が家もようやく借金がなくなってそろそろ力仕事ができる男性使用人を雇おうか考えていたところなんだ。大した給金は払えないけど、どうだい?」


「お、お願いしやっす!」


「ははは、即答か。こちらこそよろしく頼むよ。俺の名前はヒューバート・ルトルバーグ。ルトルバーグ伯爵領の代官をしている」


「よろしくお願いします! 俺の名前はシュ――シュウっす」


 一瞬、シュレーディンの声が止まった。さすがに本名を名乗るわけにはいかない。何か偽名をと考えた時、なぜか『シュウ』という名前が浮かんだのである。


「そうか、シュウか。それじゃあ、我が家へ案内しよう。ところでシュウは仕事の希望とかはあるのかな? 得意なこととかでもいいけど、希望があれば一応考えるよ?」


「やりたい仕事……俺、その……土を弄る仕事がやりたいっす」


 自分でもなぜそう思ったのか分からない。だが、シュウは土を触ってみたかった。


「土を……そうかそうか! 任せなさい。俺と一緒に畑仕事に精を出そうじゃないか」


「何となく若干方向性が違う気がするっすけど、よろしくお願いします!」


「あはは! やっと一緒に畑仕事を楽しめる人材が手に入ったぞ。よーし、シュウ! 急いで屋敷に帰って、今日は二人で畑の雑草取りだ。行くぞー!」


「分かりやし、って、ヒューバート様、速っ! ちょ、待ってくださいっすー!」


 慌ててヒューバートを追いかけるシュレーディン改めシュウ。全力で走っても追いつけない大きな背中を追いながら、なぜかニヘラッと笑ってしまうシュウなのであった。


 そうして、ロードピア帝国第二皇子シュレーディン・ヴァン・ロードピアは、テオラス王国ルトルバーグ伯爵領の使用人見習いシュウへと生まれ変わった。


 第五攻略対象者を失ったゲームの世界はどうなってしまうのか……。


 その答えを知る者は誰もいない。もちろん、こんな事態を引き起こしたメイドの少女にだって分かるはずもないのであった。




☆☆☆あとがき☆☆☆

最新小説第3巻は9月20日(水)発売予定で予約受付中です。

並ばない書店もあるかもなのでネット予約が確実です(哀)

以降、1日おき更新となります。

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