レギンバース伯爵の憂鬱 中編

 クラウドは執務机の引き出しから小さな額縁を取り出した。愛するセレナの肖像画を見つめながら、彼の胸がトクントクンと心地よいリズムを刻む。クラウドはホッと安堵した。

 この心臓の響きこそ恋の旋律。セシリアへ向ける感情は恋ではないと確認する。


(では一体、何だと言うのか……?)


 春の舞踏会で出会って以来、気が付くと少女の相貌が脳裏に浮かぶのだ。仕事に支障をきたすようなことはないが、それでもふと思い浮かぶたびにペンが止まってしまう。

 たった一度、挨拶のために言葉を交わしただけなのに数ヶ月経った今でもセシリアの姿が忘れられない。自分へ向けられた優しい微笑みを忘れることなどできなかった。


(恋ではない、ないのだが……では、この胸を締め付けるようなこの気持ちは何なのだ)


 鍛え上げられた理性が、クラウドの鋭敏な直感を見事に抑え込んでいた。心は既に気付いているのに、これまで培ってきた論理的な思考力が直感を阻む壁となる。

 目の前に現れた少女こそが自身の探していた愛するセレナとの娘であることに、クラウドはまだ気付いていない。ちなみにメロディの直感は完全に機能停止している模様……。


(できることならもう一度……)


 ――会いたい。


 そんな感情が浮かびそうになって、しかし言葉になる前に頭を振ってかき消すクラウドであった。






◆◆◆



 屋敷での午前の仕事を終えたクラウドは王城へ出仕した。テキパキと部下へ指示を出して夏の舞踏会、夏季休暇明けの王立学園に関する準備を進めていく。

 実際に準備をするのは担当部署であったり学園の運営機関だったりするのだが、前例のない帝国第二皇女の留学となれば宰相府による取りまとめは必要不可欠であり、さすがにこの時ばかりは忙しさのあまり脳裏にセシリアが浮かぶことはなかった。


 仕事を終えた同日の夕方。貴族区画を馬車が走る。屋敷へ帰る途中のクラウドだ。忙しくはあったものの幸いなことに日が暮れる前に仕事を終えることができたらしい。

 馬車に揺られながら、窓に映る貴族区画の街並みをクラウドはボーっと眺めていた。

 結局のところ、クラウドがセシリアに心揺さぶられた原因は分かっていた。彼女にセレナの面影があったからだ。


 そう、クラウドはただ――。


(セレナ……そういえばこの道、君と二人で歩いたことがあったっけ)


 ――愛する女性が恋しかっただけなのである。


 買い出しに出かけたセレナを、偶然を装って初めて一緒に並んで歩いた日のことが思い出される。お互いに緊張して、結局会話らしい会話もできずに終わった初めての日。

 当時十八歳だったクラウドと十七歳だったセレナ。ともに初恋で、二人が愛し合えた時間は本当に短くて、ようやく探し当てた頃には時すでに遅く。


 たった一人、十五年間思い続けた愛するセレナ。もう会えない君。

 二人の関係が前当主、クラウドの父に知られたことであっさりと破局を迎えた。探したくても父親の妨害にあい、思うようにはいかなかった。


 しばらくは王都の実家に帰っていたようだが数ヶ月後には飛び出してしまったらしい。彼女があのまま実家に残ってくれていれば。そう思う時もあるが、きっと何か理由があったのだろう。


 その理由が判明したのはつい最近のことだった。そう、セレナの死を知った時、同じく告げられた娘の存在。きっと妊娠が発覚したからこそ、彼女は実家を飛び出したのだ。

 二人の関係を知られただけで解雇されてしまったセレナの妊娠が判明したらどうなっていただろうか。悪い想像が浮かんだに違いない。引き離されて伯爵家に引き取られるだけならまだしも、もし伯爵が平民との子供を認めないといって二人の子を――。


 クラウドは思わず拳をギュッと強く握りしめた。父親がそこまでする人間だったとは思いたくはないが、当時のセレナの心境を考えれば可能性の一つとして危機感を抱いていても仕方がなかっただろう。


 父親に邪魔されてクラウドにはそれ以降の足取りを掴むことができなくなってしまう。爵位を譲り受けようやく自由にセレナの捜索が可能になった頃には、最早取り返しのつかない事態となっていた。


 流行り病による死。その報告を受けた時のクラウドの感情はどんなものだったか。二人の間に残された娘がいるという報告がなかったら、今の彼はきっといなかったに違いない。

 娘の存在という希望によって繋ぎ止められたクラウドの心は、しかし、セレナの喪失を埋め切ることはできない。


 もう、セレナはいない。この世界から旅立ってしまった。


(セレナ、君は俺を、恨んでいただろうか……?)


 再会が叶うなら罵声を浴びせられたってよかった。これまでの苦労を叫んでくれたって構わなかった。嫌いだと告げられたってめげたりしない。


 だから――。


(生きてさえいてくれれば、それだけでよかったのに……)


 握る拳の力がどんどん強くなっていく。黄昏時の虚ろな空気のせいだろうか、悔恨ばかりが心を占める。もう少し、あとほんの少し早ければ、あともう少し、あとほんのちょっとだけでも父親に抗えていたら……そんな感情ばかりが脳裏を渦巻いていく。


 だがしかし、有能な男クラウドはここで大きく息を吐いた。それと同時に拳の力が緩んでいく。やがてクラウドは気落ちしていた感情を理性によって復活させた。


(セレナ、愛するセレナ。君に会えなくて寂しい、恋しい。でも、だからこそ、私は君を愛するがゆえに君が残してくれた私達の娘のためにもこんな気持ちのままではいけないんだ)


 セレナが残した忘れ形見がいるというのに、絶望に囚われてばかりもいられない。そんな感情を優先させて、また取り返しのつかないことになったら今度こそもう生きていけない。

 母の死をきっかけに傷心旅行と言って隣国へ渡ったという娘。


(名前は確か……セレスティ。セレスティ・マクマーデン)


 騎士セブレを筆頭に数名の人員を派遣して、現在も捜索中だがなかなかどうしていまだ発見には至っていない。離れ離れになって十五年も経ってからようやく存在を知ったクラウドの娘。


 運命は彼を嘲笑うかのように、彼女との邂逅を易々とは許してくれないらしい。

 クラウドは自嘲気味に笑った。これは、愛する者を守れなかった、何もかも遅すぎた男に与えられた罰なのかもしれない。


(それでも、次こそはきっと探し出して見せる。セレナ、君が残してくれた私達の宝を)


 後悔も、自責の念もある。それでも娘のために前に進まなければならない。

 そう決意して窓から視線を外した時だった。




 彼の視界の端、走る馬車の窓にそれは映った――愛するセレナの姿が。




「と、止めてくれ!」


 思わず大声で叫んでいた。怒鳴るようなクラウドの声に慌てて御者が馬車を止める。力いっぱいに扉を開けて馬車から飛び降りると、クラウドはギョッと目を見開いて馬車の後ろの歩道へ振り返った。


「セレ……ナ……?」


 馬車の後ろは交差点になっていて人の姿はなかった。太陽が沈み、屋敷の影が道路を暗く染めていく。訝しむ御者の視線を背中に受けながら、クラウドは呆然と道路を眺めた。


(見間違い、だったんだろうか。だが、確かに……)


 目にしたのは一瞬だったが、あれは確かにセレナであった。メイド服姿の、最後に別れた頃の十七歳当時のセレナにそっくりだった。自分がよく知る彼女そのものであった。

 まさかと思い交差点まで走り左右を見やるが、やはりそこに人の姿はない。


 彼女を恋焦がれるあまりに見てしまった幻覚だったのだろうか。幻でもいい。会えるものなら会いたかった。だが現実は非情だ。全ては単なる気のせいであり、ただただクラウドの恋心を燻ぶらせる結果にしかならないのであった。


「あ、あの、旦那様」


「……ああ、すまなかった。出してくれ」


 不安そうな御者に呼ばれたクラウドは、意気消沈の面持ちで馬車へと乗り込んだ。






◆◆◆



 セレナを見間違えてから二日後の八月十二日。王都パルテシアにあるレギンバース伯爵邸にて、二人の人物が向かい合っていた。執務室の机に腰掛けているのは銀髪の偉丈夫、クラウド・レギンバース伯爵。言わずと知れた(?)メロディ・ウェーブことセレスティ・マクマーデンの実父である。

 クラウドの前に立ち、キリリとした眼差しを向けているのは伯爵家の騎士、レクティアス・フロード騎士爵である。


「閣下、お呼びとのことですがどういったご用件でしょうか」


「う、うむ……」


 今日も朝から屋敷で執務に従事していたクラウドは、執事に命じてレクトを呼び出していた。別室で文官業務に勤しんでいたレクトは疑問に思いながらも執務室へやって来たのだが、呼び出しておいてどうにもクラウドの様子がおかしい。


「閣下、どうかされましたか?」


「いや、その、だな……」


 やはり歯切れが悪い。訝しむレクトの視線に執務途中の書類が目に入る。白紙だ。見る限り、作業が終わっている書類が見当たらない。午前の業務が始まってしばらく経つが、まさかあれはまだ一枚目の書類なのだろうか。


(伯爵閣下の業務に何か差し障りが? 問題が発生しているのだろうか)


 そのために自分が呼ばれたのかと推測し、改めて背筋を伸ばすレクト。だがしかし、次に発したクラウドの言葉は全く想像していない内容であった。


「……レクトはその……夏の舞踏会には参加するのだろうか」




☆☆☆あとがき☆☆☆

小説第3巻は7月10日(月)より予約開始です。

よろしくお願いいたします。

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