第3章

プロローグ?

 王立パルテシア高等教育学園――通称『王立学園』は、一学期の全ての授業、期末試験を終え、明後日から夏季休暇を迎える。明日から数日間は、学園を出て帰省する生徒の姿を数多く目にすることとなるだろう。実家が王都から遠いためにそのまま学生寮に居残る者も少なくはないが。


 誰もが寝静まる真夜中。王立学園の敷地内を優しく照らすのは、空に浮かぶ月ばかり。

 そんな中、学生寮から王立学園へ向かう大路地に、小さな足音が響いた。静謐な深夜によく似合うゆっくりとした足取り。しかし、それに気付く者は誰もいない。


 黒いローブを身に纏い、ともすればその姿は暗闇に溶けてしまいそうだが、たおやかに揺れる金の髪が、闇夜にあっても彼女の存在を強く主張していた。


「……はぁ、わたくしったら何をしているのかしら」


 オリヴィア・ランクドール公爵令嬢は、憂鬱そうにため息を零す。普段は髪を後ろでまとめ、かっちりとした髪型の彼女だが、今は就寝前だからかゆったりと髪を下ろしており、いつもよりフェミニンな印象を与える。


 真夜中の道の真ん中で、彼女は一人だった。誰もが寝静まってしまった今、使用人に黙って寮を抜け出していたのだ。

 物憂げな表情で路地を歩くオリヴィア。特に目的地などない。何となく、そう、何となく、夜中に目が覚めてしまった彼女は、衝動的に自室を飛び出してしまったのだ。


 王都の屋敷であれば不寝番の使用人もいて難しいだろうが、この学園寮における使用人は限られていたためにそこまで徹底できず、うっかり可能となってしまった事故のようなものだった。


「……静かね。ここがいつもの王立学園だなんて嘘みたい」


 足を止め、まだ遠くともはっきりと目に映る学園校舎の姿を見つめるオリヴィア。月明かりに照らされた学園の威容は、神秘的であると同時にどこか恐ろしくもあり、彼女はこれ以上歩を進める気にはなれなかった。


 再び小さくため息が漏れる。ふと視界の端に、大路地に等間隔に設置されているベンチが目に映った。オリヴィアはそろそろ歩き疲れてきたのか、吸い込まれるようにベンチへと腰掛ける。


(……本当にわたくし、何をしているのかしら)


 三度目のため息。夏季休暇を前にして、オリヴィアの気分はどうにも優れない。だが、自分でもなぜそんなにアンニュイになっているのかよく分からなかった。


 考えられるとしたら――。


(やっぱり、期末試験のせいかしら……?)


 七月の終わりに実施された一学期末試験の結果は……四位。一位から四位の結果は中間試験と同じく、一位がクリストファー、二位がアンネマリー、そして三位がルシアナ。

 決して悪い順位ではない。両親にも好成績を褒められており、それ自体はとても誇らしい。


 でも……。


(結局、ルシアナ・ルトルバーグには勝てなかった……)


 春の舞踏会に颯爽と現れた『妖精姫』ルシアナ・ルトルバーグ伯爵令嬢。もう一つ『英雄姫』などという通り名も一時期流行ったが、やはり彼女を表すならば前者がしっくりくる。

 公爵令嬢である自分を差し置いて舞踏会に燦然と輝く姿は彼女の嫉妬心を掻き立てた。そのうえ密かに憧れ、慕っている王太子クリストファーとも親しげで、可憐な容姿も相まって当時は大変憎々しかったことを覚えている。


 とはいえ、嫌がらせをしようなどとは公爵令嬢の誇りに懸けて思いもしない。王立学園では、その実力でもって彼女より優位に立って見せると内心で意気込んでいたにもかかわらず……。


(……この体たらく。本当に情けない)


 そのうえ、自分の気持ちが余程はっきり漏れていたのか、使用人の間でも微妙な隔意が生まれていたらしく、一学期の間、ルトルバーグ家の使用人は周囲から遠巻きにされていたらしい。

 その事実を知ったオリヴィアは驚いた。使用人が忖度したくなるほど、そんなにあからさまに感情が表に出ていたのだろうか、と。情報を耳にしたのは全ての授業を終えた後。オリヴィアは使用人達に状況の改善を命じた。公爵令嬢としての矜持がそれを許せなかったがために。


(まあ、そちらに関しては二学期から改善していくでしょう。わたくしの使用人は優秀ですもの。問題は……わたくしなのよね)


 またしてもため息。使用人の件をきっかけに、客観的に一学期の自分を振り返った彼女は愕然とした。ルシアナ・ルトルバーグに対し、随分と感情的な対応を続けていた自分のありように。


(確かに舞踏会で注目を奪われたことは、正直悔しかったけど……彼女にはクリストファー様を守ってもらった恩? も、あるわけだし……あの時、私も殿下とご一緒していたら私だって……いえいえ、さすがにあれは無理っ)


 ぶんぶんと首を左右に振るオリヴィア。ルシアナはなぜか助かったものの、舞踏会の襲撃事件では危うく命を落とすところだったのだ。

 果たして自分にそこまでの勇気が出せるだろうか……。


 咄嗟の行動だからこそ滲み出るその者の人間性。ルシアナはあの時、それを示したのだ。

 だからこそ、ため息が止まらない。称賛こそすれ、嫉妬心をぶつけるのはお門違い。オリヴィアも頭では理解しているのだが、なぜか感情が上手く制御できない。


(学園生活では彼女とは距離を取っていたし、取り立てて揉め事もなかったのに……あれ?)


 オリヴィアは小首を傾げた。


(揉め事……なかったわよね?)


 ルシアナがクリストファーと同じ生徒会に勧められた時はさすがにイラっときたが、それだってあくまで自分の内心に留めていたし、ルシアナと直接揉めた覚えはない。ないのだが……。


(何かしら? この違和感……)


 一学期の学園生活は恙なく終えたはず。具体的に何も思い浮かばないのだが、何か変な感じがする。オリヴィアは眉をひそめた。すると、額に溜まっていた小さな汗の雫がツルリと頬を伝った。


「……夜とはいえ、さすがに暑いわね」


 深夜に目を覚まし、使用人に黙って部屋を出た彼女の格好は寝間着のままだった。さすがにそのまま外に出ることは憚られたので上からローブを着込んでいるが、もう八月が目の前の夏真っ盛りにはなかなかつらいものがある。


 オリヴィアはローブの内ポケットからハンカチを取り出すと頬の汗を拭い、そしてまた物思いにふける。だが、こうやって色々考えてはみたものの、特に結論などでやしない。何せ、自分でも具体的に何に悩んでいるかすらよく分かっていないのだから。


 ルシアナに対して湧き上がる感情――おそらくこれは、嫉妬心。今まで培ってきた公爵令嬢としての矜持と礼節をもって十分に制御できる程度の感情のはずなのに、それができていない。


 なぜなのだろうか……?


(……彼女には、こんな気持ちなんて全然湧かなかったのに)


 アンネマリー・ヴィクティリウム侯爵令嬢。王太子クリストファーの婚約者候補筆頭。

 オリヴィアにとってはルシアナよりも余程ライバルといってよい存在。だがしかし、オリヴィアの中にアンネマリーに対する嫉妬心だとか対抗心だとかはあまりない。


 正確には――もう、残っていない。


 その美貌も、能力も、人間性も、自分では敵わない。その実力を幼少の頃から見せつけられ続けた結果、オリヴィアはアンネマリーと張り合う心が完全に削がれてしまっていた。

 天才・クリストファーの隣に立てるのは、同じく天才であるアンネマリーだけ。そう思わざるを得ないほどの実力差が、出会った当時のオリヴィアとアンネマリーの間には存在していたのだ。


 クリストファー、アンネマリー、オリヴィア。三人の出会いは六歳の頃。残念ながら、本物の六歳の少女が十七歳の心を持つ転生者に勝利することは、無謀な挑戦だったとしかいえない。

 社交界デビューを果たした今となっては、おそらく二人の間にはそこまで大きな差はないだろう。しかし、幼少期に染みついた『彼女には勝てない』という先入観はなかなか拭えるものではなかった。オリヴィアの自尊心は、実のところ幼少の頃にポッキリ折られていたのである。


 転生したアンネマリーが『完璧な淑女』を演じたがゆえの弊害。ある種のバタフライ効果の影響が、オリヴィア・ランクドールの人格にも波及した結果が現在の彼女だった。


 そしてまた、アンネマリーとはタイプの違う美しくも優秀な少女――ルシアナの登場によってポッキリ折られた自尊心が小さな悲鳴を上げている状態が、今なのである。


 自尊心をポキポキ折られては溜まらない! と、ある種の生存本能からオリヴィアの深層心理がルシアナへの対抗心を生んでいるのだが、彼女にそれを自覚するのはまだ難しいようだ。

 ダメ押しのため息を吐きながら、オリヴィアは立ち上がった。


「いつまでもここにいたって何にもならない……か。そろそろ帰――きゃっ! あっ!」


 立ち上がった瞬間、強い風が起こった。思わぬ風に驚いたせいか、オリヴィアのハンカチが指をすり抜けて風に攫われてしまう。

 慌ててハンカチを追いかけるオリヴィア。ハンカチは座っていたベンチとは反対側、大路地を挟む低木の茂みの奥へと落ちて行った。


「もう、お気に入りのハンカチなのに。どこに……あ、あったわ。あら?」


 オリヴィアは茂みに分け入った。幸いなことにハンカチは特に苦も無く見つけることができた。しかし、彼女は地面に落ちていたハンカチの隣に転がる別の物も見つけてしまった。


「これは、剣? でも……」


 彼女が見つけたのは剣だった。それも、真ん中で剣身がポッキリ折れた剣。


「これ、素材は銀かしら。刃も柄も全部が銀……儀礼剣かしら?」


 両手で剣を持ち、顔の前まで掲げながら不思議そうに剣を見つめるオリヴィア。月明かりに照らされた銀剣は、剣身の半分を失っていてもどこか神秘的で美しい。


 いや、むしろ――。


「不完全だからこそ、こんなにも心魅かれるのかもしれないわね」


 ポッキリ折れた銀剣を眺めながら、オリヴィアはそう呟いた。


「それに何だか不思議と親近感が湧くわ。……なぜかしら?」


 オリヴィアは小首を傾げながら、ポッキリ折れた銀剣を不思議そうに見つめた。


「えーと、持ち主は……」


 キョロキョロと周囲を見回すオリヴィア。当然ながら、今この場には彼女以外誰もいない。しばらくその場で悩んでいた彼女だが、やがて銀剣を見つめながら決意するように大きく頷く。


「これは私が一時預かりましょう……持ち主が見つかったら返せばいいわよね。見つかったら」


 少しばかり嬉しそうな表情でオリヴィアは呟く。どうやらこのポッキリ折れた銀剣が気に入ったらしい。持って帰る気満々だ……持ち主を探す気が本当にあるのかどうか甚だ疑問である。

 そしてオリヴィアはその場を去り、若干楽しそうな足取りで学生寮へと帰っていった。


 彼女の右手で揺れる銀剣。その断面が時折――わずかに銀粉のような光を零しているように見えるのはきっと、夜空に浮かぶ月の光のせいだろう……たぶん。

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