ハロウィンSS~誰が為に夢を見る~
「Trick or Treat!」
アバレントン辺境伯領にある小さな町、アナバレスのとある民家にてそんな声が響いた。
キッチンで夕食の仕込みをしていたセレナ・マクマーデンは、背後からの声に思わず振り返る。
それは数ヶ月前に五歳になった娘、セレスティのものだったからだ。
「と、とりっか……? セレスティ、今なんて――え?」
聞き覚えのないフレーズに、セレナの唇は上手く言葉を反芻できない。そのうえ、まだ微妙に舌足らずな口調であるはずの娘が発した言葉が、やけに流暢だったことも一因である。
外国人のネイティブな発音を聞き取れない日本人みたいな状況といえば理解できるだろうか。
それはともかく、振り返ったセレナは質問の途中で言葉に詰まった。
なんと彼女の目の前には、ゆらゆらと空中をたゆたう真っ白なゴーストが!
……なんてことはなく、ベッドのシーツを上から被った状態で佇むセレスティがいたのだった。
「何をしているの、セレスティ?」
頭からシーツを被って理解不能な言葉を発する娘の奇行に、セレナの困惑は増すばかり。普段は物静かで大人しく、聞き分けの良い子だったために、どう反応してよいか分からなかった。
「Trick or Treat!」
「えっと、とりっこぁ……?」
「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ! って意味だよっ!」
「……お菓子をあげないといたずらしちゃうの?」
「うん! だって今日十月三十一日は『ハロウィン』だもん!」
「はろうぃん……?」
確かに今日は十月三十一日だが、セレナはその『ハロウィン』というものには、とんと聞き覚えがなかった。
「セレスティ、その、シーツを被っているのも『はろうぃん』だからなの?」
「そうだよ。『ハロウィン』はお化けの恰好に仮装するんだよ」
「おばけ……そうなの」
セレスティの恰好は本当に頭からシーツを被っているだけというシンプルなものだった。目が見えるように覗き穴さえ開けておらず、仮装というにはあまりにも稚拙。
(まあ、シーツに穴なんて開けたものならさすがに叱らなくちゃいけなかったからそれはいいんだけど……本当に何なのかしら『はろうぃん』って)
「とりあえず、セレスティ。シーツを脱ぎましょうか」
「ダメだよ。そんなことしたらお化けに連れて行かれちゃうもん」
「連れて行かれる? まあ、随分と物騒なのね、『はろうぃん』って……セレスティ、『はろうぃん』って何なのかしら? お母さん、よく分からないわ」
そう尋ねた瞬間だった。
シーツ越しからでも分かるほど明確に、セレスティの雰囲気が変わった。
「セレスティ?」
「――ハロウィン。それは古代ケルト人を起源とする秋の祝祭である。当時のケルト人たちにとって十月三十一日は一年の終わりを意味し、その際、死者の霊が家族のもとへ帰ってくると信じられていた。同時に、生者に災厄をもたらす魔女や精霊も現世へ降り立つと信仰されており、魔除けとして仮面を被るなどをして彼らから身を護る風習が根付いた。これにちなみ、十月三十一日には、カボチャをくりぬいた中に蝋燭を立てて作る灯り『ジャック・オ・ランタン』を飾り、魔女やお化けに仮装した子供たちが『Trick or Treat!(お菓子をくれないといたずらするぞ!)』と唱えながら近所の家々を訪ね歩く風習が生まれた。その際、お菓子をもらえなかった場合には報復としていたずらをしてもよい、とされている。場合によっては子供たちからのいたずらを楽しみにしてあえてお菓子をあげない者もおり、そういった家とはいたずらの攻防戦が繰り広げられている」
「急にどうしたの、セレスティッ!?」
シーツの奥から無機質な口調の説明が始まり、セレナはギョッと目を見開いた。
子供らしさの欠片もないその抑揚のない声は、娘のものであるはずなのにまるで別人のようだ。
長々と説明しているが一切言葉に詰まることはなく、正直なところセレナには内容を理解できないものの、その内容が本に記すようにきちんと文章として組み上げられているものだと分かる。
暗記したにしても、たった五歳の少女にできることとは到底思えない。
「……ケルト人は中央アジアからヨーロッパへ渡来した民族であり、その宗教は自然崇拝の多神教である。現代において、ハロウィンはヨーロッパやアメリカで民間行事として定着しているが、多神教を信奉するケルト人を起源とするハロウィンは、当然ながら欧米で信仰されている一神教のキリスト教とは一切関係がなく、ハロウィンの是非について論ずる信者が散見される。本来、ハロウィンとはケルト人による宗教的意味合いを持つ祝祭であったが、現代においてはあくまで民間行事として認識されており、既にその宗教的意味合いはほとんど失われているといってよいだろう」
「セレスティッ!」
いつまでたっても終わらない説明に業を煮やしたセレナは、バッとセレスティのシーツを奪い取った。姿を現したセレスティは、まるで人形のように目の光も表情も失った状態で説明を続ける。
「また、日本におけるハロウィンの扱いは欧米以上に宗教的意味合いが失われ、単なる仮装行列に成り果てている。そのせいもあってか、ハロウィンを名目に警察沙汰になるほど羽目を外してしまう若者が問題視されており、近年の日本ではハロウィンに対する批判や非難は増加傾向――」
「セレスティイイイイイイ! 目を覚ましてちょうだい!」
「――にあるるるられれられららららわわわわわわっ」
セレスティの前に膝をついたセレナは娘の肩を両手で掴むと、勢いよく前後に揺さぶった。抵抗する力がないのか、セレスティはされるがままに首をゆすらし、説明が途切れてしまう。
「あわわわわわ、お母さん目が回るからやめてええぇぇぇぇ」
「セレスティ! 気が付いたのね!」
動きをとめてセレスティを確認する。頭をぐわんぐわんと回しながら気分が悪そうにしているが、さっきのような無機質な雰囲気は霧散していた。セレナは安堵の息をつく。
「急にあんな風になるからお母さん、びっくりしたわ。どうしちゃったの?」
「うーん、気持ち悪い。……急にあんな風って何のこと?」
「だから、『はろうぃん』がどうのって……」
「はろうぃん? ――そうだ! 『Trick or Treat!』だよ、お母さん! お菓子をくれないといたずらしちゃうよ!」
思い出したかのように詰め寄るセレスティ。セレナは再び不安になった。
「……それはともかく、『はろうぃん』なんて話どこで聞いてきたの? お母さん、初耳でよく分からないわ」
「だから、『はろうぃん』っていうのは…………あれ?」
「どうしたの?」
説明をしようとしたところでセレスティは首を傾げ始めた。鏡映しのようにセレナも首を傾げてしまう。
「えーと……『はろうぃん』って、何だっけ?」
「えぇ、分からないの? あれだけ、とりっこぁ何とかって言ってたのに」
「とりっこ……? あれれ? わたし、なんて言ってたっけ?」
セレスティは本当に分からないようで、ついさっきまで自分が言っていた内容を思い出せなくなっていた。
(どういうことかしら? まさか、本当に悪い魔女や精霊が降りて来て、セレスティに憑りついていたとでもいうの……?)
セレナはジッとセレスティを観察した。彼女は腕を組みながら首を傾げるばかりで、先程のような奇行に走る気配はない。いつものセレスティだ。
(とりあえずは様子を見るしかないわね……)
セレスティに気取られないように小さくため息を吐くと、セレナは優しく微笑んでセレスティに告げた。
「確か、お菓子をくれないといたずらしちゃうって言ってたわね」
「――はっ! そうだよ、お母さん! お菓子、お菓子をくれないといたずらしちゃうんだよ!」
「『はろうぃん』だから?」
「え? あ、うん! そう、『へろいん』だから!」
まるで『ハロウィン』という言葉を初めて聞いたかのような反応をするセレスティ。本当にさっきまでの行動は何だったのだろうか。
「……そう、お菓子をあげないといたずらされちゃうのね?」
「うん! だからお菓子をちょうだい」
瞳をキラキラさせながら告げるセレスティの何と可愛らしいことか。普段は何事にもあまり興味を示さない娘であったが、今日は随分と積極的である。
だからなのか、セレナの心についついいたずら心が宿ってしまった。
「そう。でも困ったわ」
「えっ?」
立ち上がったセレナはそっと頬に手を添えると、悩ましげに告げる。
「今日はお菓子の買い置きがないのよね」
「え? お菓子ないの?」
「ええ、そうなの。本当に困ったわ。これではいたずらされてしまうわね」
「いたずら?」
セレスティは不思議そうに首を傾げた。セレナは意外そうに軽く目を見開く。
「あら? お菓子をあげないとセレスティにいたずらされてしまうのでしょう?」
「え? ……あ、うん! そうだよ!」
「でも、お菓子はないからいたずらを甘んじて受けるしかないわね。一体どんないたずらをされてしまうのかしら?」
「えっと……」
慌てたように周囲をきょろきょろと見回すセレスティ。
これはもう間違いなく――。
(お菓子がもらえると思って、いたずらの内容はこれっぽっちも考えていなかったみたいね)
あたふたする愛娘を見下ろしながら、セレナは愛しそうにセレスティを見守った。
そして、結論に至ったのか何かにハッと気が付いたセレスティはセレナを見上げると――。
「お、お菓子をくれないと……くすぐっていたずらしちゃうんだからね!」
両腕をバッと伸ばしたセレスティは、セレナの腰をコチョコチョとくすぐり始めた。当然ながら五歳児の短い手指で行われるくすぐり攻撃など、セレナには大したダメージになりはしない。
ただただ、その姿と仕草が大変可愛らしいだけである。
そして、母親からしてみればそれは、陥落するには十分な要素であった。
「あらあら? ふふふ、くすぐったいわ、セレスティ」
「お菓子をくれるまでくすぐっちゃうんだからね!」
「くすくす、それは困ってしまうわ」
セレナはこそばゆいというよりは楽しそうに微笑んで、キッチンの戸棚から小瓶を取り出した。
「まあ。全部食べてしまったと思っていたけど、こんなところにとっておきのクッキーが」
「クッキー!」
「さ、お菓子をあげるからいたずらはやめてちょうだい。お茶にしましょうか」
「うん!」
セレナは小瓶からクッキーを取り出すと、皿に盛りつけてセレスティに手渡した。
「セレスティ、これをテーブルに運んでちょうだい。私はお茶の用意をしますからね」
「お茶! 私も淹れたい!」
「火を使うからセレスティにはまだ早いわ」
「でも、でも! お茶はしゅうとくひっすなんだよ!?」
「習得必須? 何に?」
「よく分かんないけど! お茶は絶対なの!」
「……そうだとしてもまだダメよ。いずれ教えてあげるから今日は我慢なさい」
「で、でも……」
「……仕方ないわね。だったら今日はポットからカップへお茶を注ぐ練習をしましょう」
「――っ! うん、ありがとう、お母さん!」
セレスティは満面の笑みを浮かべてテーブルの方へ駆けて行った。その後ろ姿をセレナは見守る。
(突然『はろうぃん』と言ったり、急にお茶に興味を持ちだしたり……)
唐突な娘の変化に不安を覚えるセレナ。だが同時に、それを嬉しく思う自分もいた。
(これが、子供が成長していくってことなのかしらね?)
目が光を失った件はさすがにどうかと思うが、それでも少しずつ変化を見せてくれるセレスティの姿に喜びを禁じ得ない。
物心ついてからというもの、セレスティはあまり物事に関心を寄せることのない少女だった。感情表現が乏しいわけではなかったが、必要以上に何かに執着を見せる姿を見た事はなかった。
幼い子供ならば、何にでも興味を示して然るべきだというのに。だからこそ、不安を感じつつも新しいセレスティの一面を知ることができたことがセレナは嬉しかった。
そして、少しだけ寂寥感が生じる。
(セレスティの成長を、あの人と一緒に見守ることができたらどんなに――)
そして魔法の人形メイド・セレーナは目を覚ました。
ぼんやりとした気持ちで彼女はベッドを起き上がり、部屋を眺めた。そこはアナバレスの家ではなく、ルトルバーグ伯爵家に用意された使用人部屋。セレーナの部屋だ。
「……夢なんて初めて見ましたね。メロディお姉様ったら、私のこと、どれだけ精巧に作ったのかしら?」
メロディの魔法によって作られた人形メイドであるセレーナには、本来睡眠は必要ない。しかし、メロディはセレーナがメイドとして行動するためには人間らしい感性が必要だと考え、彼女に睡眠機能を用意したのだ。
しかし、メイドとして働き始めておよそ二ヶ月。睡眠中に夢を見たのは今回が初めてだった。
自身に夢を見る機能があることを今日初めて知ったくらいである。
(……でも、その初めての夢がどうしてお姉様の子供の頃の思い出なのかしら?)
魔法の人形メイド・セレーナの人格はメロディの魔法『分身』が基礎になっており、彼女の中にはメロディの知識と技術がインプットされている。ただし、これにメロディの思い出記憶は含まれない。メロディの本名がセレスティであることは知識として知っているが、彼女がアナバレスでどんな風に過ごしてきたかまではセレーナの知識には存在しないのだ。
(何かのミスでお姉様の記憶の一部が残留している? それでお姉様の夢を見た?)
可能性は否定できないのだが、何だか釈然としないセレーナ。
何が問題なのか? それは――。
(……あれ? でも、さっき見た夢、おかしくない? あれがお姉様の夢だというなら、私はどうして夢の中でお姉様を見つめていたの?)
そう、あの夢の主はメロディではなく、まるで――。
その時、セレーナの視界にサッと光が差した。窓のカーテンが少し開いていたらしい。
今日は八月一日。もはや暖かいではなく熱いといえる夏の日差しがセレーナに突き刺さる。
眩しくて思わず手を翳して光を遮るセレーナだったが、ハッと大切なことに気が付いた。
「いけない。今日はお姉様たちが王都を出立する日だったわ。早く起きて支度しないと」
セレーナはベッドから飛び起き、急いで身なりを整えると優雅な足取りで自室を後にした。
いつの間にか、先程浮かんでいた疑問も、見ていた夢の事も、セレーナは忘れてしまうのであった。
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