アンネマリーのドキドキ休日デート(仮)②
「あら、アンナちゃん、久しぶりねぇ」
「おばさん、こんにちは。儲かってる?」
「ぼちぼちよぉ。というわけで、すり潰しアップルジュースはいかが?」
「もう、この商売上手め! 一杯くださいな」
「はいよ。まいどあり」
どの辺が商売上手なんだ、などと言ってはいけない。ある種の常套句に過ぎないのだから。定番のやり取りというやつである。
貴族区画に程近い、平民区画の大通りをジュース片手にプラプラ歩き回る少女、アンネマリーことアンナ。彼女は時折屋敷を抜け出して、自由な平民ライフを楽しんでいた。
理由は言うまでもなく『息抜き』である。現役女子高生の精神で完璧な淑女を演じるのは、あえて説明する必要もないくらいに大きなストレスなのだ。六歳の頃に覚醒し、十五歳に至るまでの九年間である程度慣れたとはいえ、この息抜きがなければとてもではないが令嬢生活を続けられないと、本人は思っている。
朝から大通りに響く喧騒を聞きながら、アンナはストローに口を寄せた。すり潰しというだけあって、甘い果実水と一緒にシャリシャリとした果肉が吸い出される。それをもぐもぐと咀嚼しながら、アンナは大通りの人達を見つめる。
(貴族には貴族のよさがあるけど、元一般庶民としてはやっぱりこっちの方が落ち着くわね。ヒロインちゃんもこんな気持ちで屋敷を飛び出したのかしら?)
実は、本日アンナがここに訪れたのにはもう一つ理由があった。今日は、乙女ゲーム『銀の聖女と五つの誓い』のイベントが発生する日なのだ。
イベント名『ドキドキ! 初めてのお忍び休日デート』。
四月から突然伯爵令嬢として王立学園に通うことになったヒロイン・セシリアは、五月も半ばを過ぎた頃、慣れない生活にとうとう耐えられなくなり伯爵家を脱走してしまう。
父親からどうにか隠し残しておいた平民時代の服に着替えて、セシリアは平民区画へと飛び出した。だが、そこは慣れない王都。どこかの大通りまで辿り着いたものの、さまようことしかできなかった彼女は、気が付けば見知らぬ男達に言いがかりをつけられ、囲まれてしまう。
「酷えことしてくれるじゃねえか。お前さんがぶつかってきたせいで、俺の一張羅が台無しだ」
「ご、ごめんなさい」
男の服は、腹の部分に果実水がベトリとかかっていた。セシリアとぶつかった際にこぼしてしまったと主張しているが、真偽のほどは定かでない。
「ごめんで済むなら騎士も兵士もいらねえんだよ。親御さんに言って弁償してもらわねえとな」
「そ、それは……」
男達にやいのやいのと迫られ、セシリアは動揺を隠せない。何より、黙って屋敷を出た身としては、親に知らされることが一番困るのだ。
男達はニヤリと笑った。ここが攻めどころだと気付いたようだ。
「まあ、俺だって別にあんたを責めたいわけじゃない。要するにこの一張羅がどうにかなればいいのさ。例えば……俺んちに来て、あんたがこれを洗ってくれるとかな」
「その服を洗えば、許してもらえるんですか?」
セシリアに安堵の表情が浮かぶ。洗濯程度、元平民の彼女にとっては造作もないことだ。それで許してもらえるなら、彼らの提案に従ってもいいかもしれないと、セシリアは思った。
これで父親に知られずに済む――そんな思いばかりが先走ってしまい、内心でほくそ笑む男達の真意に気が付くことはできなかった。だが――。
「それじゃあ、行こうかぶへあっ!?」
男がセシリアの手を掴もうとした瞬間、その顔面に何かが投げつけられた。それは果実水が入った木製のカップだったようで、男の上半身は汁まみれになってしまう。最早、セシリアがつけたとされる汚れがどれだったのか判別することすら難しい。
目の前の光景に絶句する男達。それはセシリアも同様で、汁まみれの男を呆然と見つめるだったのだが、ふいに体が後ろに引かれた。何者かがセシリアの腕を掴んで引っ張ったのだ。
「え?」
「何を呆けているんだ、君は。早くこの場を立ち去るぞ」
フードを被った男に手を引かれ、セシリアは無理やり走らされた。人ごみに紛れてしまった頃、後方から男の怒声が聞こえ、ビクリと震えてしまう。
「全く。あんな見え透いた誘いに乗ってしまいそうになるとは」
セシリアの手を引く男性は、呆れたような言い草でため息をついた。その発言で、彼女はようやく自分が巻き込まれた状況を客観的に理解した。そして当然のように恐怖で青褪めてしまう。
男達を上手く振り切った頃、二人は大通りから少しはずれた路地裏に辿り着いた。フードの男は周囲を見回し、小さく息をつく。周りには、誰もいない。
「ここまで来ればもう大丈夫か」
「あ、あの、あなたは……」
路地裏に二人きり。助けてくれたのだとは思うが、先程の件もあり、セシリアは緊張していた。
「……護衛もつけず、そんな恰好で街を出歩かせるなんて、伯爵は何を考えているんだ?」
その言葉に、セシリアの体がピシリと固まる。この人は……父を知っている?
「あなたは、誰なんですか……?」
「……」
向けられたのは怯えるようなか細い声。しばらく無言を貫いていた男だが、仕方がないとでもいうように肩をすくめると、そっとフードを外した。
セシリアの瞳が驚愕の色に染まる。思わず口元を手で押さえ、飛び出しそうだった声を止めた。
「どのみちこのまま君を放置していくわけにもいかないからね」
眉尻を下げてそう告げる男性を、セシリアは知っていた。いや、多くの貴族が知っている。
「……お、王太子、殿下」
王城にいるはずの、王国で二番目に尊い男性が今、セシリアの目の前に立っていた――。
(……なんて出だしで始まるイベントだったのよね。王太子は王太子で臣下も連れずにこっそり王都を視察中で、二人とも身内に見つかりたくないからって理由でカップルの振りをすることになるのよ……まあ、今日このイベントは発生しないだろうけど)
イベントをしようにも、現在ヒロインは絶賛行方不明中である。ヒロインなしのイベントほど無意味なものはない。そのうえ、お相手の王太子すらいないのだから、シナリオは既に破綻しているといっても間違いないだろう。
王太子クリストファーは本日、平民区画には来ていない。というか、来ていられない。
舞踏会襲撃事件を機に突如決まった学園の全寮制制度。それは王太子も対象で、学園が再開されるまでに公務などのスケジュールを調整しなければならなかった。とてもではないが、お忍びで王都の視察をしに行く時間的・物理的余裕など今のクリストファーには存在しない。
(これも私達が転生したことによって生じた波及効果ってやつなんでしょうね。理解したつもりだったけど、こうして目の当たりにすると結構ショックだわ)
ジュースをひとくち飲んだ後、息継ぎと一緒にため息が吐き出された。
本日のアンネマリーの『息抜き』は、自身のリフレッシュと同時に、イベントに対するフォローも含まれているのだ。何せ王太子の助けが入らなかったら、ヒロインちゃんが男達に少女向けゲームとは思えない目に遭わされるかもしれないのである。さすがに無視できない。
確かにヒロイン『セシリア・レギンバース』は王立学園に現れなかった。だが、シナリオに齟齬が発生している今、学園にいないなら王都にもいないとは明言できない。
幸い、このイベントはとある理由から発生日が確定していたため、もしもに備えてアンネマリーが出張ることにしたのである。本来ならクリストファーを行かせたいところだが、状況がそれを許さなかったため、彼女が代役を務めることとなったのだ。
……クリストファーは本気で悔しがっていたが、アンネマリーにはどうでもいいことである。
「まあ、確率的には低そうだけど。ないならないで散策を楽しめばいいだけだしね」
そう呟いたのは、何かのフラグだったのだろうか。それとも転生者補正でもあるのだろうか。
「どうしてくれんだよ、お嬢ちゃんよう!」
アンナの背後から、いかにもガラの悪そうな男の声が聞こえてきた。
いや、まさかとアンナが振り返ると、数人の男達に囲まれる少女の後ろ姿が目に入った。
「え、えっと……」
「酷えことしてくれるじゃねえか。お前さんがぶつかってきたせいで、俺の一張羅が台無しだ」
男の服は、腹の部分に果実水がベトリとかかっていた。少女とぶつかった際にこぼしてしまったと主張しているが、真偽のほどは不明である。
「ご、ごめんなさい」
「ごめんで済むなら騎士も兵士もいらねえんだよ。親御さんに言って弁償してもらわねえとな」
「そ、それは……」
思わず少女が口籠ると、男達は攻めどころを見つけたようにニヤリと笑った。
(凄い! ゲームのセリフと一字一句同じだわ! ……て、ちがーう! なんでイベントが発生してるのよ!? あの子、ヒロインちゃんじゃないじゃない!)
――だって黒髪だもの!
そう思いつつも、アンナはすり潰しアップルジュースを大きく振りかぶるのだった。
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