書籍第1巻発売記念 幕間

アンネマリーのドキドキ休日デート(仮)①

 舞踏会襲撃事件から一ヶ月以上の月日が経ったある日の朝。その事件は起こった。


 貴族区画の中心部に居を構えるお屋敷に務める侍女のクラリスは、ティーセットを運ぶハウスメイドとともに目的地へ向かっていた。


 とある部屋の前に辿り着くと、二人はさっと身だしなみを整えて静かに入室する。そしてベッドに近づくと、布団の膨らみに向けて優しく声を掛けた。


「おはようございます、お嬢様。お目覚めの時間でございますよ」


 ……だが、膨らみは微動だにしない。


「お嬢様。ベッドの中が心地よいのは分かりますが、そろそろ起きてくださいま――え?」


 昨日は夜更かしでもしていたのかしらと、苦笑交じりに布団を剥ぎ取ったクラリスだが、そこにいたのは……いや、そこにあったのは、重ねて丸められた数枚のドレスで……。

 ベッドで眠っていたはずの少女、アンネマリー・ヴィクティリウムの姿はどこにもなかった。


「あちゃー、久しぶりにやられましたね」


 ハウスメイドが仕方なさそうにポツリと呟く。ポカンとベッドを見つめていたクラリスはハッと我に返り、その相貌を赤く染めて大声を張り上げた。


「……あんの、じゃじゃ馬娘があああああああああああああああああああああ!」


 侍女にあるまじき叫声が屋敷中に木霊する。そして、それを咎める者は誰もいない。

 なぜなら――ああ、またか――と、屋敷の住人達は思うだけだったからだ。


「最近は大人しくしていたけど、とうとう我慢の限界が来ちゃったのかしらねぇ」


「いいじゃないの。ここ最近のお嬢様ときたら、ずっと思い詰めたような顔ばかりで心配だったもの。ようやく普段通りに戻ったってことでしょう? いいことじゃない」


 と、朗らかに語るのは、朝食を準備中のキッチンメイド達だ。


「あらあら。あなた、今日はお嬢様のお部屋近くの掃除担当でしょう? 気付かなかったの?」


「全然よぉ。毎度毎度、どこから抜け出しているのかしらね? 本当に不思議だわ」


「うちのお嬢様には困ったものね。クラリス様も大変だこと」


「そんな楽しげな顔で言われても説得力に欠けるわよ」


「あらやだ、ふふふ……」


 などと、微笑みながら言い合うのは、ベッドメイクに勤しむハウスメイド達である。



 アンネマリー・ヴィクティリウム侯爵令嬢。


 王太子クリストファーの婚約者候補にして、高い知性と妖艶な美貌を兼ね備える彼女は、社交界では畏怖を込めて『傾国の美姫』とまで称され、未来の王妃と目されている。


 勉学、礼儀作法、人脈。どれを取っても同世代で彼女の右に出る者はいないだろうとさえ言われており、まさに『完璧な淑女』の名をほしいままにしていた。


 それが世間から認識されているアンネマリーのイメージなのだが……まあ、そんな都合のいい完璧超人が実在しているはずもなく、侯爵邸の者達は全く別の印象を抱いていた。



「「「本当に、うちのお嬢様はお転婆ねぇ」」」



 社交界とは真逆の評価である――が、それはある意味では正しい認識であった。

 侯爵邸の執務室に大きな、そして深いため息が吐き出される。


「どうやら、お嬢様のいつもの癖が戻ったようですね」


 執事のハーゲンが、嬉しいような呆れたような、名状しがたい表情を浮かべて告げた。そして再び、大きなため息が執務机に座る人物から零れ落ちる。


「そのようだな……護衛は?」


「先ほど連絡が。いつものごとく見失ったそうです。目下捜索中でございます」


「そうか。うちの娘は本当に優秀だよ……本当に、ね」


 アンネマリーの父、ガルド・ヴィクティリウム侯爵は、本日三度目の大きなため息をついた。苦々しそうにこめかみを押さえながら、ハーゲンに指示を出す。


「護衛は捜索を継続。アンネマリーを発見次第、後方から監視させろ」


「いつも通りの対応ということでございますね」


「連れ帰ろうとしたところでまた逃げられるだけだからな。本人の気が済むまで好きにさせてやるしかあるまい。どうせ今日一日自由にしたところで、問題などないのだろう?」


「そのようですね。本日、お嬢様がこなすべき喫緊の用事はございません。正確には、あったはずですがいつの間にか片付いております」


「本当にうちの娘は優秀だよ……優秀過ぎて涙も出ないね」


 ガルドは疲れた笑みを浮かべながら窓を見上げた。ハーゲンもつられて窓の方を向く。


「……護衛はお嬢様を見つけられるでしょうか」


「……無理だろう。今まで見つけられた試しがないからな」


 侯爵家の中枢を担う二人の男は、タイミングを計ったように同時にため息をつく。


(これで世間では『傾国の美姫』だの『完璧な淑女』などと呼ばれているのだから、本当に質が悪い。我が家に利する外面だけに、私の方でバレないように手を回さざるを得ないのだからな)


 娘が優秀過ぎるのも考え物だと思いながら、侯爵は執務を再開させるのであった。







「んんっ! 久々に羽を伸ばせるわね!」


 平民区画の路地裏で、大きく背伸びをする少女が一人。屋敷を抜け出したアンネマリーだ。


 その足取りは貴族の子女とは思えぬほどに軽やかで、まるで現代日本の女子高生のよう……というか、まさにその通りであった。何せ前世は現役女子高生だったのだからして。

 今の彼女の振る舞いから、侯爵令嬢アンネマリーを想像することは難しいだろう。また、その風貌も普段の彼女から大きくかけ離れていた。


 アンネマリー・ヴィクティリウムといえば、燃えるような真紅の髪と切れ長の翡翠の瞳、そして男を惑わすボンキュッボンなグラマー体形が記憶に残りやすい。


 だが、今の彼女はどうだろう? ポニーテールにされた髪は、真紅というよりは少し暗めの赤銅色に近く、眼鏡をかけているおかげか、目元の印象も随分と和らいで見える。胸にはさらしを巻いているようで、あの魅惑的な体形は見事に隠されていた。


 化粧に関しても、社交界用の美女メイクから平民風のナチュラルメイクに変えたことで、ややボーイッシュな年相応の少女らしい雰囲気が醸し出されている。そのうえ服装はせいぜい裕福な商家の娘風である。

 未来の王妃と目される女性が平民の恰好をするなどと、誰が想像できようか。まあ、できないからこそ誰も彼女を見つけられないのだが。


事前情報でもなければ、今の彼女と侯爵令嬢を結びつけることはかなり難しいだろう。


「まあ、この世界に髪の色を染める発想がないことも、見つからない理由なんだけど。そういう不自然なところがいかにも非現実的で、乙女ゲームっぽいのよねぇ……現実なんだけど」


 小さく呟きながらアンネマリー、いや、平民の娘アンナは大通りへと歩き出した。


 ちなみに、彼女の髪は自作した植物由来の染料で黒味を帯びさせているだけで、洗い流せば簡単に元の色を取り戻すことができる。……どこぞのメイドのように魔法でババっと一発変身! というわけにはいかないが、本人はかなり便利だと思っており、実際かなり便利な代物である。

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