第51話 世界はメイドを中心に回っている

「……私ったら何てこと。ごめんなさい、ルシアナさん。私ときたらお見舞いに来たはずなのに、全然違う話をしてしまって。お体の方はもう大丈夫かしら?」


 アンネマリーはお見舞いに来たと言いながら、ルシアナの体調を気遣っていなかったのだ。


「はい、お医者様からは健康過ぎて診る甲斐もないと言われちゃいました」


「まあ、そうなの? ふふふ」


 他愛ない冗談に思わず笑みが零れる。ルシアナの疑いは晴れたようなものなので、気兼ねなく笑うことができた……どうしてルシアナのもとにメロディが現れたのかが謎のままだが。



 だが、その疑問はこの先の会話であっさりと判明することとなる。



「そういえば、今日訪ねたのが私だけでごめんなさいね。本当は王太子殿下も一緒に伺うべきなのだけど、昨日の今日でしょう? あの方も何かと忙しくて……」


「そんな! 襲撃事件の翌日ですもの。お忙しくて当然です。お気になさらないでください」


 現在、クリストファーは昨夜捕縛した第四攻略対象者ビューク・キッシェルの尋問をすべく、王城の離れに向かっていた……青痣だらけの腹部を押さえて。


 ちなみに、クリストファーに暴行を加えた後、アンネマリーは早々に秘密の通路を使って王城の自室に戻ったので、『侯爵令嬢朝帰り事件』なるスキャンダルは発生していない。


 それもこれも、全ての使用人が一晩中熟睡していたという怪事件があったからこそなのだが、それどころではなかったアンネマリーは、何事もなくてよかったと安堵するだけだった。


「そう言ってくれると助かるわ。いずれ殿下も機会を作るでしょうけど、私からも言わせてちょうだい。クリストファー殿下の命を守ってくれて本当にありがとう、ルシアナさん」


 ルシアナは照れくさそうに頬を赤く染め、お礼を言いたいのは私の方です、と答えた。


「舞踏会の時は上手く機会を作れなかったのですが、私、王太子殿下には以前からお礼を申し上げたいと思っていたんです」


 アンネマリーは首を傾げた。二人の出会いは昨夜が初めてのはず。お礼とは一体……?



 だが、ルシアナが告げた内容はアンネマリーに大きな衝撃を与えた。


「だって、今の私がここにいられるのは、全て王太子殿下のおかげですもの。王太子殿下が国内全土に広めてくださった『定期馬車便』があったからこそ、私はメロディと出会えたんですから」



 …………カシャン。パシャッ。アンネマリーの指からティーカップが擦り抜けた。



「アンネマリー様、ドレスに紅茶が!」


 アンネマリーは硬直したまま動かない。彼女の頭の中では無数の稲光が轟いていた。


 『定期馬車便』とは、クリストファーとアンネマリーが若干七歳の時に提案し、現在も鋭意進行中の大規模国家事業で、言わば異世界の公共交通機関である……当然、ゲームには存在しない。


 国家主導の事業ゆえに街道は整備され、決められた時間と経路、価格で運行される定期馬車便は利便性が高かった。国家事業だと分かっているので盗賊なども手が出しづらく、街道の安全性も向上していった。となれば、人と物の流通は促進され、経済が発展していく。


 それは、総合的な国力増強へと繋がっていった。お金がある国というのは、大概強いものだ。

 この世界にゲームのシナリオと同じような選択肢があるなら、最悪の場合バッドエンドに進む可能性は否定できない。バッドエンドの中には、魔王に使役されたヴァナルガンド大森林の魔物達による王都蹂躙や、同じく魔王に操られたロードピア帝国の皇帝による大侵攻といった、かなりハードな結末も用意されていた。


 ここはゲームによく似た世界だが、現実だ。ハッピーエンドが必ず来る保証がない以上、バッドエンド対策を用意しておくことは当然の行動といえる。


 経済力が高まれば軍備増強の予算を増やせるだろう。街道が整備されれば非常時に援軍を呼びやすくなり、支援物資の運搬も容易になる。定期馬車便があれば個人での移動手段が確立され、王都に優秀な人材が集まりやすくなるし、国内外の情報も集めやすい。


 当然リスクもある。軍の強化は軍国主義に陥る危険性が高まる。整備された街道は逆に他国の進軍の助けになるかもしれない。人間の出入りが増えれば、その分間諜も増えるだろう。

 だがそれも、事前に危険性を知っていれば対策は不可能ではない。ヒロイン以外では対処不可能な魔王を相手にするよりは、余程簡単な問題だった。


 定期馬車便は王国の経済によい影響を与えた。彼らが取った政策は、劣りはするが鉄道事業のようなものなので、当然といえば当然である。比較できないのでおそらくとしかいえないが、現在のテオラス王国はゲームのテオラス王国よりも豊かな国になっているだろう。


 ……国の経済力を向上させるほどの国家事業が、ゲームのシナリオに影響を与えないなどと、誰が言えようか? アンネマリーはルシアナの言葉を聞いて、初めてその事実に気が付いた。


(ルシアナがシナリオ通りに不幸にならなかったのは、メロディがメイドとしてやってきたからで……そのメロディがどうやって王都に来たかというと、定期馬車便を使ったからで……根本的にルシアナのシナリオに影響を与えたのは……メロディじゃなくて……定期馬車便?)


 アンネマリーの考えはあながち間違いではない。そもそも、あの日、あの時、メロディがルシアナと出会うことができたのは、定期馬車便で容易に王都へ向かうことができたからだ。


 それがなかったら、彼女の出立はもう少しあとになっていただろう。そして、故郷を出る前にレクトに出会っていた可能性が高い。となれば、いくらメロディでも実の父親を無下にすることはできず、シナリオ通りにセシリア・レギンバースを名乗ることになった……かもしれない。


 アンネマリーの額を、ツーッと汗が垂れる。それは冷や汗だった。


 脳内を、バッドエンド対策と称して行った大小様々な対策が駆け巡る。そして、自分自身の行動も……正直、ゲームのアンネマリーと今の彼女では、人格がかけ離れていた。


 バカで横暴で我儘な典型的当て馬悪役令嬢。それがゲームのアンネマリーだが、さすがにそんな人間を演じて生きることは、現実のアンネマリーには耐えられなかった。実際に彼女が演じたのは『清く正しく美しく』を体現したかのような、才色兼備な淑女である。


 ゲームのシナリオのことを考えれば、せめて少しくらいはゲームの彼女を演じるべきだったはずだ。それに、ゲームでは王太子と婚約者設定であったにもかかわらず、現実のアンネマリーは自分の都合で婚約者候補に留めている。


 これはシナリオを重視するアンネマリーの発言からは随分と反した行動だ。


 心の片隅で『ゲームが始まればシナリオ通りに事が進む』という根拠のない認識があったのだろう。自分が何かしたところで、わざわざしなくても、ゲームはシナリオに沿って動き出す、と。そうでなければ、ゲーム開始直前になってヒロインが現れないなどと慌てるわけがない。


 前世の記憶を取り戻してから九年もあったのだ。本気で探していれば、珍しい銀髪の少女など見つかっていて当然だ。ヒロインは王立学園へ入学するものと、高をくくっていたとしか思えない。

 だから、自分達が取る行動がシナリオに与える影響について、深く考えてこなかった。


 アンネマリーは確かに前世で乙女ゲーム『銀の聖女と五つの誓い』をやり込んだ乙女ゲージャンキーであるが、厳しい言い方をすれば……ただ、それだけだ。

 ゲームをどれだけ熟知していようが、彼らの前世はどこにでもいる少年少女にすぎない。


 通算三十二歳? バカをいってはいけない。十七歳まで生き、再びゼロ歳から十五歳をやり直しただけの、ただの子供である。年を重ねれば大人になるのではない。大人としての経験を積み重ねながら、人は大人に成長していくのだ。子供の経験しか知らない彼らは、やはり子供なのである。



 結論を言えば、彼らはゲームと現実の区別がついていなかったとしか、言いようがない。



 アンネマリーは勢いよく立ち上がった。


「アンネマリー様!?」


「……ごめんなさい。ドレスが汚れてしまったので、今日のところは失礼させていただくわ」


「え、ええ。それは構いませんけど……大丈夫ですか? お顔が真っ青ですよ」


「……ええ、自分の犯した失態に慄いてしまって」


「そんな、お茶を零したくらいで大げさすぎます。あまりお気になさることないですよ」


「え、ええ……ありがとう。では、失礼するわ」


「はい。今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」


「私も楽しかったわ。では、今度は学園で」


「はい!」


 顔を青くしたまま、アンネマリーはルシアナの客間を後にし――。


「お嬢様、すぐにお部屋に戻ってお召し替えを……お嬢様!?」


 ――アンネマリーは走った。侯爵令嬢の気品とか、作法とか全てをかなぐり捨てて走った。


(なんてこと、なんてこと、なんてことなの!? もしもに備えてと対策を用意した行動自体が既にシナリオから外れた行動ということに、なぜ今まで気が付かなかったの、私!?)


 バタフライ効果――気にも留めないようなわずかな変化が起きる時と起きない時では、その後の状態が大きく異なってしまうというカオス理論。


 変化のない状態がゲームのシナリオだとすれば、アンネマリー達が前世の記憶を取り戻した時点で、それ自体が変化であり、本当は九年前から既にシナリオは狂い始めていたのかもしれない。


 そこまで考えていたらさすがにやっていられない。そう思ったアンネマリーはとりあえず、卵か先か鶏が先かのような不毛な思考は捨て去り、今後のことを思案する。


(とりあえず、定期馬車便がシナリオに影響を与えてしまったことは、ルシアナとメロディの状況が既にはっきりと物語っているわ。となると……現れないヒロイン、舞踏会にだけ姿を見せた謎のセシリア、魔王の剣から無傷で生還したルシアナ、シナリオにない魔王封印の剣の損壊……数え出したらキリがないわね。これも、私達が取った行動の影響ってわけ!?)


 ちなみに、どれもこれもシナリオをガン無視したメイドの所業が原因なのだが、そんな事実を知る由もないアンネマリーは、言いようのない自責の念に駆られるのだった。


 自分達の行動が与える影響についてようやく考え始めたアンネマリーには、自分達以外の人間が世界に与える影響について考える余裕はまだなかった……あっても思いつくかどうか。

 転生したヒロインがゲームのことを知らず、聖女の力をメイドに活用しているなんて、どうやって予測しろと言うのか。彼女が正解に辿り着くの日は来るのだろうか……?


 結局、アンネマリーはメロディのことをヒロイン『セシリア・レギンバース』だと、最後まで気が付くことはなかった……せっかくのチャンスだったのにね♪ ざんねん!


 その原因はおもに三つ。一つはアンネマリーの先入観だ。

 彼女はゲームの知識とともに悪役令嬢として転生した。クリストファーもほぼ同条件だ。だから彼女は『転生者はゲーム経験がり、主要キャラに転生する』と、無意識に思い込んでいた。


 もう一つはやはりメロディの今の風貌だ。黒髪黒目にメイド服。

 よく考えてみてほしい。髪と目の色が違い、ましてや服装まで違う……あなたはそれで、その人物が何のキャラクターのコスプレをしているか初見で判断できるだろうか?

 ゲームは二次元だが、現実は三次元なのだ。その差は大きい。


 そして最後の三つ目。何よりもこれが大きかった。舞踏会では天使と称されるほどの美少女であるメロディがなぜ、メイド姿になった程度でアンネマリーの目を誤魔化すことができたのか。

 ……『メイドオーラ』である。形から入る子メロディは、演技派だった。


 醸し出される圧倒的裏方感。美少女であるにもかかわららず排除される、ヒロイン的雰囲気。

 ひとつひとつの所作は洗練されていながらも、メロディはメイド以外の何者にも見えなかった。

 ――この子、もしかしてヒロインじゃね? などという疑念など、全く浮かんでこないほどだ。


 なんというメイド根性。ヒロインとメロディがアンネマリーの記憶の中で結びつかないはずだ。


 ……舞踏会で出会えていれば。そう思わずにはいられないほど、アンネマリーは間が悪かった。


 アンネマリーはビュークに会うために通路を走っていた。シナリオが既に破綻している可能性がある以上、今後のためにも少しでも情報がほしかったのだ。


 本来、シナリオ通りならビューク・キッシェルはこの場にいない。聖女の力に目覚め始めたヒロインによって、魔王の剣とともに撃退されているからだ。彼の情報を得られるメリットは大きい。

 そう思って離れに向かっていると、ビュークを尋問中のクリストファーと、なぜかマクスウェルの姿が見えた。彼らはアンネマリーの方へに走っていた。


「アンネマリー!」


「クリストファー!? それに、マクスウェル様まで」


「私も奴のことは気になっていたので同行していたのですよ。ルシアナ嬢の様子はどうでした?」


「ええ、元気だったわ。それより二人とも何を急いでいるの? 尋問は?」


 アンネマリーが質問すると、クリストファーは眉根を寄せ、マクスウェルは眉尻を下げた。


「……いなかった」


「――はい?」


「だから、私達が来た時には既に離れはもぬけの殻だったのだ! 例の剣までなくなっていてどこに行ってしまったのかさっぱり分からない! 逃げられてしまった!」


 クリストファーは怒鳴るように答えた。おそらく、誰かさんのせいで警備が手薄になっていた早朝のうちに逃走したのだろう。折れてしまった魔王の剣を持って……。


「アンネマリー嬢……?」


 マクスウェルは気遣わしげにアンネマリーを見た。彼女は下を向き、プルプルと震えていた。

 襲撃犯が逃走するなど、やはり婦女子には恐ろしいことだろうと心配していると――。



「もう! もうもうもう! そんなところばっかりシナリオ通りにならないでよおおおおお!」

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