第40話 『嫉妬の魔女』ルシアナ・ルトルバーグ

 乙女ゲーム『銀の聖女と五つの誓い』設定資料集より――。



 堅実な領地経営が目に留まったヒューズ・ルトルバーグ伯爵は王都の宰相府への任官が決まり、妻マリアンナとともに王都へ向かうことが決定した。

 娘のルシアナも十五歳になったことで今年から王立学園への入学が決まっており、家族三人で王都へ向かうはずだった。


 だが、領内でトラブルが発生したため伯爵夫妻の出発が遅れることに。

 学園への入学手続きの関係もあり、ルシアナだけは予定通り一人で王都の別邸へと向かった。



 それが彼女を不幸へ導く第一歩となるとは露知らず……。



 トラブルが解消され伯爵夫妻が王都邸に到着したのはルシアナを見送ってから二ヶ月も経ってからだった。

 屋敷に辿り着いた夫妻は驚きを隠せない。

 娘を向かわせた屋敷が、とても人の住めるようなところではなかったからだ。


 伯爵夫妻は青ざめた表情で門をくぐり屋敷へと駆け出した。

 錆びついてなかなか動かない門に、ひび割れだらけの石畳、鬱蒼と茂る木々が屋敷を覆い隠している。いくら常駐のメイドがいるとはいえ、こんなところに一人娘を二ヶ月も住まわせていたなんて!


 後悔と自責の念を抱えながら扉を開けた伯爵は、玄関ホールの様子を見て驚愕の声を上げる。


「な、なんだ……これは……」


 クモの巣だらけ、埃だらけで手入れなど全くされた様子のない屋敷。外の木々のせいで昼間だというのに薄暗い玄関ホール。あまりに生活感のない……ここは――まるで幽霊屋敷だ。


 呆然とする夫妻の耳に、聞き覚えのある少女の悲鳴と大きな音が聞こえた。

 我に返った二人は音の聞こえた使用人食堂へ走り出した。


「ルシアナ!」


「……お父様、お母様?」


 伯爵夫妻はその光景に目を見開いた。


 床は水浸しで、その上にへたりこむルシアナは当然のようにズブ濡れ。床に転がる木桶から察するに、井戸から汲んだ水を零してしまったのだろう。


 夫妻を見つめるルシアナの表情には感情の色が窺えない。

 目の下にはくっきりとクマが浮かび、明らかに領地にいた時よりも痩せ細っていた。その顔からは疲れしか見受けられず、久しぶりの再会だというのに、愛する娘は無感動だった。


 ルシアナの話によると辿り着いた屋敷は既にこの有様で、老齢のメイドが一人いただけだったらしい。そのメイドも自分のせいで早々に辞職してしまったと疲れた表情で淡々と説明していた。


 メイドが辞めてすぐに求人を出したが、屋敷を訪ねた者は未だに一人もいない。『貧乏貴族』として有名なルトルバーグ家に仕えたいと思う者など、紹介状を持たない者達の中にもいはしなかった。


 一人になったルシアナは、両親に手紙を書く暇もないほどに屋敷の管理と入学準備に忙殺された。本来ならどちらも貴族令嬢が一人でできることではない。


 寝る間も惜しんで努力したルシアナだったが、それでも両親を迎えられるほどに屋敷を整えることなどできるはずがなく、結果は御覧の通りである。


 だが、忙しいだけならルシアナはいくらだって頑張れた。

 領地にいた頃だって力仕事をすることはあったのだ。使用人が少ないルトルバーグ家では令嬢であるルシアナといえど、働かないわけにはいかなかったのだから。

 そしてそれを苦に思う彼女ではなかった。



 ルシアナをここまで疲弊させたのは――周囲の蔑みと彼女に芽生えたささやかな劣等感。



 ずっと領地で暮らしてきたルシアナは、誰かに見下された経験など全くなかった。

 誠意を尽くして領地を治める伯爵家を悪く言う領民はおらず、貧乏貴族であるルトルバーグ家の交友といえば、仲の良いリリルトクルス子爵家とファランカルト男爵家くらい。


 彼らがルシアナを侮辱するはずもなく……彼女は王都へ来て初めて蔑みの目に晒された。



『貧乏貴族で有名なルトルバーグの令嬢が入学手続きに来ていたぞ。噂通りのみすぼらしいドレスだった。あれと同学年で入学なんて、恥ずかしくて仕方がないよ』



『さっき列の後ろに並ばれてしまったわ。ドレスだけじゃなく、髪も肌もボロボロだったわよ。とても同じ貴族とは思えないわね。彼女とは同じクラスにはなりたくないわ』



『あれで本当に伯爵家の令嬢なのか? あんなドレス、商家の娘の方がよほどまともなものを持っているぞ? まさかあれが外出着なのか? 正気を疑うぜ』



 身分の上下に関係なく、ルシアナを目にした者達が陰口をこぼす。

 隠すつもりがないのか、ヒソヒソと話しているように見えて、彼らの声ははっきりと彼女の耳に届いた。

 噂は広まり、王都のどこを歩いても常に侮蔑の視線がルシアナに突き刺さる。

 貴族達の態度は、当然のように平民達にも広がっていった。


 それは、ルシアナの想像以上に彼女の心を傷つけるものだった。


 ルシアナは明るく優しい少女だった。それは彼女が明るく優しい者達に囲まれていたからだ。

 誠実で優しい両親、気立ての良い使用人達、朗らかに挨拶をしてくれる領民達、気の置けない友人達……ルシアナの心は周囲の者達の心を映す鏡だった。


 肉体的な負担などいくらでも我慢できるルシアナだったが、精神的な苦痛には耐えられなかった。


 彼女の心の鏡に――大きな亀裂が走る。


 両親がいくら慰めても、一度入った鏡のひびが直ることはなく、彼女の心の鏡に降り注ぐ優しさという光を正しく反射することができなくなっていく。


 蔑みによってルシアナに生まれた劣等感が、彼女に届けられた優しさを蔑みの言葉に変換する。

 学園に入学したあと、友人達とも疎遠になりルシアナの黒い感情が徐々に増していった。

 王立学園の入学式の後、本来であれば貴族の子女は春の舞踏会に出席する。


 だが、彼女はそれに参加することはできなかった。

 綺麗なドレスもなければ、エスコートしてくれるパートナーもいない。

 そんな状況で舞踏会に出席したところでバカにされるだけだ。


 両親の説得も甲斐なく、ルシアナは自分の意思で舞踏会を欠席した。


 ……本当は出てみたかったに決まっている。自分だって舞踏会を楽しんでみたかった。


 ルシアナは両親が用意してくれた、高級ではないがよく手入れされたドレスを喜べなかった。


 父親がパートナー役を務めようと提案してくれたが、それも断った。


 何をしたところで、周りからバカにされる。

 そんな思いを打ち消すことができなかったのだ。


 娘の変貌に動揺を隠せなかった伯爵は王都での仕事に集中できず何度も失敗を重ね続けた。そしてルシアナが学園に入学して三ヶ月が経った頃、とうとう取り返しのつかない失態を犯してしまう。


 宰相からも宰相補佐からも信頼を失った伯爵は無情にも免職され、悪事に手を染めざるを得ない状況に陥った。だが、誠実が売りの彼にまともな悪事が働けるはずもなく、彼の行いはあっという間に世間に知られることとなる。


 貧乏貴族だけでなく悪徳貴族の汚名まで受けることとなったルシアナの心に、新たな亀裂が走る。鏡は黒く染められ、彼女の心は光を映すことすらできなくなってしまった。


「どうして、どうしてこんなことばかり……王都に来るまでは、こんなではなかったのに……」


 学園の隅でボソボソと呟き続けるルシアナ。


 こんなところに来たばかりに――そんな想いが膨らむばかり。

 父親が捕まった以上、ルシアナが学園に在籍していられるかどうかすら分からない。


 なぜ自分ばかりこんな目に……行き場のない負の感情が溢れ出し、自身の中に眠るわずかな魔力が黒く染まる。


 そして、ルシアナの耳に朗らかな笑い声が届いた。思わずそちらへ視線が向いた。



 風に揺れる銀の髪はまるで絹糸のように美しく滑らかだ。


 ――くすんでボロボロになった私の金髪とは大違い。



 銀の髪の少女が道に躓き、隣を歩いていた美しい殿方に支えられた。

 白い頬が薄桃色に染まる。


 ――なんて綺麗。青白くなってすっかりこけてしまった私の頬とは全然違う。


 ――何より、私の隣には誰もいない。私を助けてくれる人は誰も……いない……。




(何よあの子……何も今、私に見せつけるように幸せそうに笑わなくたって、いいじゃない……)


 ずるい、ずるい、ずるい……気が付けば、ルシアナは拳を握りしめ、歯を食いしばりながら銀の髪の少女、セシリア・レギンバース伯爵令嬢を見つめていた。


(私だってあの子と同じ伯爵令嬢なのに、どうして私だけが不幸なの? なぜ私ばかりバカにされなくちゃいけないの……悔しい、妬ましい……ずるい、ずるい、ずるいずるいずるいずるい!)


 ルシアナは――泣いた。



『ああ、なんと美しい『嫉妬』の涙。恨むこと、妬むことは全くの八つ当たりであることを理解しているのに憤らずにはいられない、歪な心よ! それでこそ、私の手駒にふさわしい!』



 耳ではなく、脳裏に響く不思議な声が聞こえた。思わず振り抱えるルシアナ。

 彼女の背後に、醜悪な笑みを浮かべる紫色の髪の少年が立っていた。そして少年はその手にあった剣でルシアナの胸を一突きにした。

 黒い刀身の剣が纏っていた靄が、ルシアナの全身を包み込んでいく。



 この日、少女は魔王に魅入られ、聖女に仇なす『嫉妬の魔女』という存在へと生まれ変わった。

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