第26話 月下の真実
自分は一体何をしていたのだろうか。両手をぼんやり眺めながら、レクトはそう思った。
あんなダンスは踊ったことがなかった。リードをしているのは自分のはずなのに、まるで誰かの意思に従っているかのような不思議な感覚。
それでいて、全く不快に感じない……それどころか、心地よくすらあった。
奇妙な一体感が、連帯感が生まれた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
ふと周囲に目が行く。誰もが肩で息をしていた。女性でさえ、額から汗を流している。
だが誰もそれを咎めたりはしない。むしろ、それを自慢するかのように誰もが胸を張っていた。
彼らもまた、自分と同じように先程のダンスに満足しているようだ。
「不思議なダンスでしたね」
「そうですね……」
マクスウェルもやはりレクトと同じ意見のようだ。彼の肩も少なからず揺れていた。気が付くと二人の視線が重なり、マクスウェルが眉尻を下げながら微笑む。
「さて、この余韻を楽しみたいところですが、お互いのパートナーと合流しましょうか」
マクスウェルに賛同し、天使と妖精を探すが……いない?
「見当たりませんね」
「ええ。一度、休憩エリアに戻りましょうか。そこにいなかったら探しに行きましょう」
とは言ったが、レクトはそれほど心配していなかった。
ルシアナはメロディの主だ。メロディをダンスに誘う時、ルシアナはレクトに牽制の視線を送ってきた。正しくは睨まれたのだが。ルシアナは相当メロディにご執心らしい。おそらく今はどこかで事情説明でもしているのだろう。
二人は休憩エリアに足を運んだ。レクトの予想通り、そこに二人の姿はなかった。
「心配ですね。手分けして探したほうがよさそうだ」
「私は一度伯爵閣下にその旨を伝えてきますので、先に行ってください」
「見つかろうとそうでなかろうと、三十分経ったら一度ここで落ち合いましょう」
マクスウェルはそれだけ言うと、再びダンスホールの人混みに姿を消した。レクトは伯爵のもとへ向かう。伯爵は手に持つ何かをじっと見つめていた。小さなため息が耳に届く。
「伯爵閣下」
「おお、レクトか。……セシリア嬢は一緒ではないのかな?」
「ダンスが終わってから目を離してしまいまして。今から探しに行こうかと」
「それは心配だな、早く行ってくるといい。……私も行こうか?」
これにはレクトも少しばかり目を見張った。まさか伯爵がそんな申し出をするとは。
「いえ、そこまでしていただく必要はないかと。できれば、彼女達がこちらに戻ってきましたら伯爵の方で保護していただけると助かります」
「もちろんだとも。セシリア嬢に言い寄る輩がいたら、私が成敗してやろう」
伯爵は普段通りの口調だったが、彼の瞳からは本気の色が窺えた。
メロディへの恋を自覚してしまったレクトとしては、あまり嬉しくない申し出である。
レギンバース伯爵はやると言ったらやる人間なのだ。レクトの口元が若干引きつった。
「そ、それは頼もしいことです……ところで、先程から何を見ていらっしゃるのですか?」
「ああ、これだ」
差し出されたのは小さな額縁。中に描かれているのは十七、八歳くらいの少女だった。長いブラウンの髪をなびかせ、大変麗しい笑顔を浮かべている。
「これは……セレナ様の姿絵」
「普段からずっと持ち歩いているせいか色あせてしまった。そろそろ絵師に新しく描き直してもらわなければならないな」
セレナと別れて以来、伯爵は手のひらサイズのセレナの姿絵をずっと持ち歩いていた。父親に内緒で絵師に描かせたセレナの肖像画の模写である。十五年以上常に持ち歩いているそれは、もう何代目だろうか。これだけが、彼にとって唯一の心の慰めであった。
だが、彼が姿絵を見つめるのは決まって一人になった時のことで、レクトがその現場に居合わせたことも数えるほどしかない。ましてこんな舞踏会の場でなど、今までなかったことだ。
「……閣下にしては珍しいですね」
レギンバース伯爵はそっと視線を上げ、遠くを見つめた。
それはとても懐かしそうで、幸せそうで……そして、とても寂しそうな表情だった。
「不思議なことなんだが……セシリア嬢を見た時、私のセレナが帰ってきてくれたのかと思ってしまったのだ」
「……セシリア嬢が、セレナ様に、ですか?」
「本当に不思議だ。髪の色も目の色も、セレナとは似ても似つかないというのに……」
髪の色や目の色が変わろうとも、顔の造形までは変わらない。だが、見た者に与える印象はガラリと変わる。黒髪姿を愛らしく、金髪姿を神々しいと感じたレクトのように。
ポーラのメイクも相まって、如何にセレナを愛するレギンバース伯爵といえども、メロディとセレナの関係に気づくことはできなかった。むしろあの状態のメロディから一瞬でもセレナを幻視しているだけでも、十分及第点といえるだろう。
だから、メロディを近くで見ていて気付かないレクトの勘が特別悪いというわけではないのだ。
だが伯爵の言葉は、レクトの心に小さな針を刺すような奇妙な痛みを与えた。ほんの少し、ちくりと感じた痛み……レクトにはその理由を察することはできなかった。
伯爵と別れるとレクトはテラスを越え、庭園へ向かった。先程のダンスのおかげか、ダンスホールには人がごった返している。人気がない場所の最有力候補が庭園だった。
今夜は満月だが、ところどころに雲があり、今はあまり月が見えない。そのため庭園はやや暗く、背後から届く舞踏会会場の光のおかげでほんのり周りを見ることができた。
歩きながらレクトは考える――メロディのことだ。
(初めて会ったのは俺の屋敷で……いや、違うな。確か、セレナ様を探してアバレントン辺境伯領に行った時だ。まさかあの時道に迷っていた少女にこ……恋をしてしまうとは……)
悪いことをしたわけでもないのに、小さなため息が零れる。
年齢は十五。自分とは六歳違う。貴族の婚姻で考えれば大した年の差ではないが、平民の場合はどうなのだろうかと、心配になる。
……そもそも自分は彼女と結婚したいのだろうか?
恋など初めてのレクトには、メロディとの将来の展望など全く思い浮かばなかった。
(というか、俺が告白して彼女は受け入れてくれるだろうか? どうしよう、全く想像できない)
短い付き合いだが、メロディの第一は『メイド』であり、自分と結婚するということはメイドを退職するということで……彼女がそれを受け入れる姿が、やはり全く思い浮かばない。
(いや、それ以前の問題か。彼女は俺をせいぜい友人程度にしか思っていない。告白するよりも先に俺のことを好きになってもらわなければ。好いて……もらえるだろうか?)
そう考えて、レクトは首を左右に振った。今はそんなことを考えている場合ではない。何か別のことを考えよう。レクトは自身が仕える主、レギンバース伯爵のことを思った。
(伯爵閣下も難儀なことだ。メロディがセレナ様に見えたとは。まさか、年頃の娘は皆セレナ様に見えるというのではないだろうな。閣下は十七、八の頃のセレナ様しか知らない。彼女を連想するなら、そのくらいの年代の娘からとなるのだろうが……まさか、メロディに婚姻を申し込んだりなんてことは!? そんなことをされては……)
大問題である……社会的に。だが、ここに真実を知る者は誰もいない。
舞踏会会場に隣接される庭園は、参加者が軽い散策をすることを前提に作られているためあまり入り組んだ造りにはなっていない。周囲には視線を遮らない程度の低木や花壇が配置され、中央には大きな噴水がある。
庭園のところどころに、魔法で灯された明かりの柱が設置されており、会場から離れても視界が暗闇に塞がれることはなかった。
そして、レクトは噴水の前に佇む天使と妖精の影を捉えた。やや暗いためはっきりとは見えないが、二人の雰囲気は明るい。
ほっと息を吐く。どうやらルシアナはメロディを許したようだ。半ば騙した形で彼女を連れてきたレクトとしては、自分のせいでこの主従が不仲にならなくて本当によかったと思う。
声を掛けようかと思った瞬間、ルシアナがレクトの方を見た。彼女はメロディに少し何やら話すと、レクトに向けて駆け出した。
過ぎ去る寸前、ルシアナは一旦レクトの前で止まり――。
「今回は許してあげるけど、今度メロディを騙すような真似をしたら許さないから。でも、彼女をここに連れてきたこと自体は評価してあげる。……また一緒に舞踏会に行きたいなら、素直にお願いすることね。私、メロディとここで踊れたこと自体は嬉しかったんだから」
絶対よ、と言うだけ言い切ると、ルシアナはメロディに手を振って走り去ってしまった。
「淑女が走るものではないんだが……」
天真爛漫な妖精の後ろ姿にしか見えず、先程の言動もあってレクトは苦笑するしかなかった。
(さて、うちの天使様はと……)
改めて天使様ことメロディに目を向けた。
レクトの瞳の色と同じ金の髪。レクトの髪の色を模した赤い瞳。純白のドレスの後ろで揺れるレースのケープは幻想的な白き双翼を連想させる――まさに、天使だ。
(ルシアナ嬢の観察眼には驚かされたが、ルトルバーグ夫妻はメロディに気が付いていない様子だった。……まさか目の前の少女が本当は黒髪黒目のメイドだなんて気づくはずもないか)
――本当にそうか? 彼女は本当に黒髪黒目なのか?
(……初めて会ったのはアバレントン辺境伯領のトレンディバレス。あの時も黒髪黒目だった)
――本当にそうか? 俺は、黒髪黒目の彼女しか知らないのか?
(……知らない。王都で再会した時、俺は応接室で眠っていて……そこに彼女が現れて……)
――本当に、そうか?
(……本当だ――て、俺はさっきから何を自問自答しているんだ?)
その時だった。
雲に隠れていた満月が姿を見せ、柔らかい月影がメロディを優しく包み込んだ。
メロディの使う魔法『
だが、だが一瞬……月光に包まれたメロディの金の髪が、光を反射して白んだように見えた。
それは白というよりも……白銀の髪、で……。
レクトの足が止まる。目は見開かれ、彼の視線がメロディに釘付けになる。
……幸か不幸か、この世界でレクトだけが、真実に気が付く全ての条件を手にしていた。
レクティアス・フロードは知っている。
レギンバース伯爵にはかつてセレナという恋人がいて、二人の間にはセレスティという娘が生まれていたことを。
レクティアス・フロードは知っている。
セレスティが父レギンバース伯爵と同じ銀の髪を、母セレナと同じ瑠璃色の瞳を持つことを。
レクティアス・フロードは知っている。
レギンバース伯爵から借りた姿絵で、セレナがどんな容姿の女性であったかを。
レクティアス・フロードは知っている。
メロディ・ウェーブは、セレナが住んでいた地、アバレントン辺境伯領から来たことを。それが、セレスティが失踪したのと同時期であったことを。
レクティアス・フロードは知っている。
メロディ・ウェーブには、髪や目の色を変える魔法があることを。
レクティアス・フロードは知っている。
メロディ・ウェーブの髪が、本当は金色ではないことを。本当は黒髪の……。
――違う。本当は……。
レクトが見たものは、単なる見間違いだったのかもしれない。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
銀の髪を揺らすメロディの姿は……失った彼の記憶を刺激するには十分なものだった。
メロディと王都で再会したのは、彼の屋敷の応接室ではなかった。レクトの脳裏に、扉を開けた瞬間に晒された、無垢な少女の扇情的な裸体が浮かび上が――。
(――て、違う! そうじゃないだろう! そうだ! 王都で彼女と再会したのは応接室ではなく、屋敷の風呂場で……あの時、彼女は間違いなく……銀の、髪を、瑠璃色の、瞳を……)
それは、セレナが暮らしていたアナバレスの街で村長から聞いた、セレスティの特徴。
どんなに髪や目の色を変えたところで、顔の造形は変わらない。どんなに印象が変わっても、メイクをしても、元々持っているメロディの容貌は根本的には変わらない。
だから、そうだと思って彼女を見れば……メロディは、セレナとよく似ていた。
セレナの死と同じ時期に、同じ領内からやって来た、銀の髪と瑠璃色の瞳を持つ、セレナによく似た少女……一体、どれくらいの確率で別人なのだろうか。
「すみません、レクトさん。こんなところまで迎えに来てもらっちゃって」
「いや……気にしなくていい」
(とうとう見つけて、しまった……セレスティお嬢様。メロディが、セレスティお嬢様……)
恋した少女は、ずっと探し続けていたレギンバース伯爵のご令嬢だった。
無垢な笑顔を浮かべるメロディことセレスティとは対称的に、レクトは内心で渦巻く様々な感情を表に出さないように、必死で抑え込む。
(俺の恋は……いや、そうじゃない。お嬢様の望みは、メイド……閣下に報告すれば、おそらくそれは叶わない……だが、あんなにつらそうな閣下に伝えないなんて、不義理なことは……)
答えなど、出るはずがなかった。
誰もが幸せになる未来がレクトには想像できなかったから。
気づかなければよかった――レクトは、そう思わずにはいられなかった。
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