第17話 メイドを連れて向かう先は……

 レクトが帰宅する少し前、メロディは今知り合ったばかりのメイド、ポーラに連れられてレクトの屋敷を訪れていた。


「お風呂の準備ができたから入っちゃって!」


「あの、私、大丈夫で……」


「はいはい。それじゃ早速服を脱いでちょうだい。すぐに洗っちゃうから!」


「きゃっ!? あの、だから私は大丈夫で! い、いやっ! 自分で、自分で脱ぎます!」


 ……可愛いメイドが愛らしいメイドに服を脱がされている映像は残念ながらお見せできません。



◆◆◆



 この日、メロディは暇だった……いや、暇になってしまったのだ。

 久しぶりに勢揃いしたルトルバーグ一家が、なんと外食に出掛けてしまったのである。王都での任官にあたり支度金を支給されていた伯爵が、ルシアナの入学祝いを兼ねて奮発したのだ。


 大切なメイドの仕事が減る! ――とメロディは猛反発……するわけにもいかず、笑顔で見送った。

 急に暇になったメロディは、仕方なく次の買い出しの下見も兼ねてとある商店を訪れたのだが、


「きゃあっ!?」


「わあああああああああ!? ごめんなさい!」


 平民区画と貴族区画の境界に立つその店で、新しい調味料を物色していたメロディの顔面に突然、甘酸っぱい果実酢がぶちまけられたのである。


 とっさに閉じた目を開けると、隣で果実酢を見ていたメイドの少女が青褪めた表情でこちらを見つめていた。先程「おばさーん! この果実酢、香りを確認してもいいー?」という大声が聞こえていたことから察するに、瓶の蓋を開ける際に勢い余って中身が飛び出してしまったのだろう。


 まあ、全身お酢塗れだが、事故では仕方がない。本人も真剣に謝罪していることだし、ここは穏便にすませよう。

 そう思ったメロディは「大丈夫ですよ」と答え、この場を去ろうとしたのだが、すれ違いざまにポーラに腕を掴まれ帰らせてもらえなかった。


「いやいやいや! この状況でそのまま帰らせるとか私どんだけ鬼畜なのよ! うちの屋敷に来てちょうだい! お風呂も準備するし、その服もすぐに洗濯するわ!」


「え? あの、私、大丈夫ですよ?」


 実際、メロディは大した実害を感じていなかった。髪や顔など洗えば済む。衣類についたお酢もすぐに落とせるだろう。何より、メロディのメイド服は魔法による防汚効果のおかげで放っておいても自然と綺麗になるので別段問題はないのだが……ポーラはその事実を知らない。


「おばちゃん、ごめん! 私やらかしちゃったからこの子を屋敷につれてくね! 悪いんだけどこれのお代は明日払いに来るから!」


 ポーラはメロディの言葉を聞くことなく、店のおばさんに果実酢の空瓶を渡すとメロディをレクトの屋敷へと連れて行ってしまった。あまりの強引さに断る間もなかった……。


「んじゃ、すぐに洗って乾かすからお風呂でゆっくりしててね!」


 メイド服を無理やり脱がされたメロディは、風呂場の前でしばらく立ち尽くしてしまう。

 一方、メロディに果実酢をぶちまけてしまったポーラは内心慌てていた。


(うわあ、仕立ての良いメイド服……絶対高位貴族の客間女中パーラーメイドだよね。とりあえずお風呂に入ってもらって、服を洗濯して、もう一回謝って……絶対に許してもらわないと!)


 客間女中とは主に接客――主人が招いた客の世話を仕事とするメイドだ。そのため要領が良く、見目麗しい女性がこの職に就くことが多い。


 メロディの容姿はまさに客間女中にふさわしく、女のポーラから見ても大変可愛らしかった。そのうえ彼女から預かったメイド服……間違いなく高級品だ。


 メロディは気付いていないようだが、彼女が魔法で仕立てたメイド服は見る人が見れば明らかにその素材の良さ、技術の高さが伺える代物であった。

 使われている生地は明らかにポーラが身につけているメイド服より上質だ。

 手縫いが基本のこの世界では到底真似出来ない、均一で乱れのない縫い目。シンプルながらも近くで見れば既製品でないことが明白なデザイン。エプロンには生地と同色の刺繍が施されているが、とても優雅で精巧な出来栄えだ。


 こんなメイド服、そんじょそこらの貴族が一介のメイドに与えるはずがない。


 客間女中は人前に出ることが多いため、身につけさせるメイド服も機能性より美しさが重視される。つまり客間女中はある種の、雇用主のステータスを示す側面を持ったメイドなのだ。


 その客間女中にお酢をぶちまける行為は――彼女の雇用主である高位貴族の顔に泥を塗ることと同義であった。将来は有望だが、現時点では一代貴族の騎士爵にすぎないポーラの主では到底太刀打ちできないだろう。ポーラが慌てるのも仕方のないことだった。


 仕方なく湯船に浸かっていたメロディは、気がつくと風呂の中で寛いでいた。

 肩まで浸かり、足を伸ばし、頬を赤くしてホッと息を吐く。

 実はこんなに伸び伸びとお風呂に入るのは転生して以来、初めてのことだった。


 この世界で風呂はなかなかの贅沢品だ。メロディの実家にも湯船はあったがとても小さく体育座りをしなければならない。大きな湯船を作ればその分多くの水と薪が必要になるため、一般庶民の湯船は小さくて当然だったのである。


 ルトルバーグ邸にある使用人の風呂も節約のためか小さい湯船だ。

 ルシアナ達は自分達と同じ風呂場を使ってくれて構わないと言ってくれたが、メイドの矜持がそれを許しはしなかった。

 だがここはメロディとは全く関係のない屋敷の風呂だ。少しくらい風呂で寛いでもいいではないか――気がつくとそんな風に考えていた。


 それに、ポーラによれば屋敷の主人が帰るのはここ最近日没以降らしい。まだ日暮れ前だ。少しくらいゆったりと風呂を楽しんでも問題ないだろう――と、メロディは気を緩めてしまう。


「『黒染アンネリーレ』解除。たまには本当の自分に戻ってもいいよね?」


 うっかり髪と目を黒く見せる魔法を解いてしまうほどに……風呂のリラックス効果とは恐ろしい。

 湯船に浸かりながら父譲りの銀の髪を弄る。水面に映る瑠璃色の瞳を眺め、亡き母の面影を感じながら、メロディは優しく微笑んだ。


 自分の瞳だというのに、なぜだか母親と再会したような気持ちになるのはなぜだろう?


(久しぶり、お母さん。私、メイドになったよ……)


 メイドの仕事は間違いなく楽しいが、こういう何も考えない、ゆったりとした時間も悪くない。そう感じながら、ついつい長湯になってしまった。

 全身が火照り、けだるげな吐息を漏らしたメロディはゆっくり湯船から出る。扉の脇には小さな棚が設置されており、その上に体を拭くための布が用意されていた。


 布を取り大きく広げ、まずは髪からふこうかと思ったその時――。

 ガラリと音を立て、風呂場の扉が開いた。


「――は?」


「――え?」


 振り向くと、そこには背の高い男が立っていた……全裸で。

 思考が停止する……この人は、誰? なぜ風呂に?

 羞恥心より先にそんな疑問が浮かび上がる。

 だが、それもほんの数秒のこと。目の前に立つ男の一言で、メロディは悲鳴を上げた。


「――美しい、天使だ……」


 ハッと我に返る。男はゴクリと喉を鳴らし、その視線はメロディの首筋から胸元、更に下へ――。


『い、いやああああああ! 全てを忘却の彼方へ!『記憶消去ディメンティカーテ』!』


 咄嗟に差し出した右手から一瞬、バチリと音を立てて白い閃光が照射された。顔面からそれを受けた男は一瞬にして意識を刈り取られ、一切の抵抗なく仰向けに転倒する。

 忘却の魔法『記憶消去』――それは一撃で脳をショートさせ、魔法行使前後の記憶を不確かなものにしてしまう電気ショック魔法であった。


 地球では電気ショックによる記憶消去の研究をしている大学もあるらしいが、その効果や持続時間は未知数である。この魔法も、特定の記憶を消去するというよりは前後不覚を起こして記憶を曖昧にさせる程度の意味合いしかない。どちらかというと強力なスタンガンの役割が大きかった。


 あまりに唐突な出来事だったため、メロディにも魔法を選択する余裕はなかったのである。

 男から目を逸らし、メロディは胸元に布を押し付けてへたり込んでしまう。

 メイドに邁進していたメロディは、前世でも今世でも男性経験は皆無であった。まして、自分の裸を見られた経験も、成人男性の裸を見たこともない。

 突然風呂場に現れた男性が誰なのか確認する勇気は、今のメロディにはなかった。


 何より……。


(どうせ倒れるならうつ伏せに倒れてよ!)


 堂々と仰向けに寝転がる男性をジロジロ見るなどできるはずもなかった。


 ほどなくしてドタドタと慌てたような足音が聞こえメロディは気が付く。

 髪が銀色だ――と。


「わ、我が身を黒く染めよ『黒染アンネリーレ』!」


「どうしたの!? メロディ、だいじょう――って、旦那様!?」


「う、うん。私は大丈夫……旦那様?」


 ポーラが駆けつける直前にギリギリ髪と目を黒く染め終えたメロディは、目の前に横たわる男性こそがこの屋敷の主、レクティアス・フロードであることをこの時ようやく知った。



◆◆◆



 ぼんやりと意識が戻り、瞼を上げたレクトは目の前の光景に内心で目を見開く。


「……お嬢様?」


 銀の髪、瑠璃色の瞳を持つ美しい少女が、寝転がるレクトの顔を覗き込んでいたのだ。銀の髪、瑠璃色の瞳はレクトが仕える主、レギンバース伯爵の娘、セレスティ嬢の特徴だ。

 どちらも珍しい色であるため、早々他に該当する人間が現れるとは思えない。


「……ようやく見つけました、お嬢様」


 安堵の表情を浮かべながら、レクトは少女の頬に手を添えようとして――。


「……お嬢様?」


 不思議がる愛らしい声にハッと我に返った。添えようとした手がピタリと止まる。視界がクリアになり、改めて目の前の少女を見ると、そこにいたのは黒髪黒目の愛らしい少女だった。

 どうやら、見つからない令嬢を求めるあまり夢でも見ていたらしい。

 だが、この少女には見覚えが……?

 眼前の少女は心配そうにレクトを見ていた。


「あの、自分の名前、言えますか?」


「……それくらい言えるが?」


「言ってみてください」


「なぜだ? 別にそんなこと――」


「お願いします」


「……レクティアス・フロードだ」


 言われるまま名を告げると、少女は安心したように息をつき「後遺症はなさそう。よかった」と優しい微笑みをレクトに向けた。

 そしてレクトは気付いた。ああ、この少女は――。


 笑顔を向けていた少女は、ハッと何かに気づき顔を赤くする。

 その様子にレクトは首を傾げた。


「それじゃあ、その……私のことは、覚えて……」


「……ああ、覚えているぞ」


「――っ!?」


 覚えていると告げた途端、少女は先程以上に顔を赤くして固まってしまった。


「確か、トレンディバレスで王都行きの馬車乗り場を探していた娘だろう?」


「――え?」


「違ったか? すまない。てっきりそうだと――」


「え? いや、違わないけど……え? どうしてあなたがそれを知って……あ! 乗り場を教えてくれたお兄さん!?」


 なぜかあわあわと驚き困惑する少女を眺めながらレクトは起き上がる。どうやら屋敷の応接室で眠っていたらしい。そのうえ、いつの間にか部屋着に着替えているようだ……覚えがない。


「……ところでなぜ君が俺の屋敷に? あと、なぜ俺はこんなところにいるんだ?」


「えっ!? それは……その……」


 レクトがトレンディバレスで出会った少女――メロディは再び顔を赤くして俯いてしまう。どうしたのかと首を傾げるレクトに答えをくれたのは、勢いよく扉を開けたポーラだった。


「あ、起きたんですか? 旦那様」


「ああ、ポーラか。……どうかしたのか?」


「……いえ、別に」


 レクトが振り返った先にはティーセットを運ぶポーラがいた……のだが、なぜか彼女は鋭い視線をレクトに向けていた。若干嫌悪と侮蔑を含んでいるような気がする……。


 だが、気がつくとポーラはいつものポーラに戻っていた。ティーセットをテーブルに置くとレクトとメロディの間に腰を下ろし、右手をそっとメロディに向ける。


「旦那様、こちらは最近知り合った私の友人、メロディです」


「あの、改めまして、メロディ・ウェーブです。よろしくお願いいたします」


 ポーラに紹介されたメロディは慌てて立ち上がると、短く深呼吸をしてカーテシーを見せる。

 スカートを摘む指先から膝を曲げた際に揺れる前髪まで、全てが美しい完璧な所作であった。


「俺の名前はレクティアス・フロードだ。……レクトで構わない」


「はい、レクト様」


「……様は不要だ」


「はぁ。では……レクト、さん?」


「それで構わない」


「分かりました、レクトさん」


 無垢な笑顔を向けられ、表情にこそ出さないがレクトは自分の心臓が大きく跳ねたのを感じた。


「……ところで、どうして俺達はここで自己紹介なんてやってるんだ?」


 屋敷に帰って気がついたらメロディがいて、なぜか応接室で互いに自己紹介をしている。これがどういう状況なのか、レクトには把握できていなかった。


「忘れちゃったんですか? さっき、私の友人を紹介するって言ったら、旦那様が応接室で話をしようと言ったんじゃないですか」


「……そんなこと、言ったか?」


「言いましたよ! だというのに、旦那様ときたら着替えて応接室に来た途端に寝息を立ててしまって。よっぽどお疲れだったんですね」


「そ、そうなのか……?」


「そうですよ! 一時間くらい眠っていましたよ?」


 そう言われるとそうだったのかも……と、レクトは納得するしかなかった。確かにここ最近は慣れない仕事の残業が続いていたし、伯爵の娘の件などストレスの溜まる案件を多く扱っていた。

 自分では気がついていなかったが、想像以上に心も体も疲れていたのかもしれない……。


(……だが、何か物凄く大事な……いや、良い物を見た気がするんだが……思い出せない)


「正直よく覚えていないんだが、それほど疲れていたということか。何やら待たせてしまったようですまなかったな」


「い、いいえ! と、とんでもないです……」


 メロディは顔を赤くして首を振るとレクトの様子を再度確認した。


(よかった。本当に何も覚えていないみたい……)


(ふん、覚えていたらお盆でぶっ叩いてやろうかと思ったけど、残念ながら不要みたいね)


 当然のことだが、ポーラの説明は真っ赤な嘘である。


 メロディから魔法の効果を聞いたポーラが事実の隠蔽を図ったのだ。本当にレクトが風呂場での出来事を忘れてしまうのなら、メロディのためにもその方が都合が良い。

 最初はメロディを先に帰らせるつもりだったが、魔法による後遺症がないか確認できるまでは帰れないと言われ『メロディを友人として紹介する予定だった』ということにしたのだ。


 幸い、レクトは屋敷に帰ったところまでしか覚えておらず、ポーラの説明にも納得してくれた。

 とりあえず、風呂場での出来事はポーラとメロディの二人だけの秘密にすることができたようだ。


 ついでにこれに便乗して果実酢の件を隠蔽しているあたり、ポーラは抜け目のない娘である。



◆◆◆



 さて、時は戻って王城の舞踏会当日の夜――。


「これで完成よ!」


「ありがとう、ポーラ」


 レクトの屋敷についたメロディはすぐさまポーラに連れられドレスの着付けを始めた。といっても、今回メロディはドレスを着せてもらう側だが。


「うんうん、すっごく綺麗よ、メロディ! 旦那様も奮発したじゃない!」


「そ、そうかな? ありがとう」


「照れない照れない。旦那様もきっと驚くわよ!」


 サムズアップして自信満々のポーラ。元々女性向けの化粧品を中心に取り扱う商家の娘であったポーラはドレスの着付けや化粧、ヘアメイクなどを得意としていた。

 今回は素材がとてもよかったため、彼女も満足できる仕上がりとなったようだ。


「でも、とても綺麗なドレスね。たった五日で作り上げたものとは思えないわ」


「元々の既製品をメロディ用に誂え直したのよ」


「でも、パーティーに同席してほしいとは言われたけど、上司に挨拶をしたらすぐに帰るんでしょう? なら、ここまで畏まったドレスを用意しなくてもいいんじゃない?」


「……いいのよ、そんなこと気にしなくて。どんなパーティーだろうと可愛く着飾るべきだわ」


「そ、そうかなぁ?」


 今のメロディの発言を聞いたポーラは、顔にこそ出さなかったが内心で自身の主を罵倒していた。


(あのダメ御主人! さては未だにどこで開催されるパーティーに出席するか言ってないわね!?)


「さあ、とりあえずそろそろ行きましょう。パーティーに遅れるわ」


「うん、分かったわ」


 メロディはポーラに連れられてレクトの待つ玄関へ向かった。


 五日前、しばらく応接室で歓談をしていたレクトは話の流れでメロディに淑女の礼儀作法が備わっていることを知った。勤め先の令嬢に淑女教育を施しているらしく、実際、歓談中のメロディの所作は大変美しいと思っていたのだ。


 貴族の礼儀作法を知る平民の娘……ついでに言えばレクトの好みの容姿をしている女性。


 舞踏会の同伴者にぴったりの人材である。


 レクトがその場で同伴をお願いすると、勤め先の主人に許可を貰えたとのことで翌日には舞踏会への同伴を承諾してもらえた。メロディとしてはトレンディバレスでのお礼のつもりである。

 だが、レクトはある重大な事実をメロディに隠していた。


 それは、レクトとメロディが出席するパーティーが、王城の舞踏会であるということだ。

 彼女としばらく言葉を交わしたレクトは、彼女が何に重きを置いているかはっきりと理解した。

 メロディは『メイド』としての自分を最も重要視している――もう、一目瞭然である。


 聞けばメロディの勤め先の令嬢は今年社交界デビューらしい。自分が仕えるお嬢様が出席する舞踏会にメイドが出席するだろうか……答えは聞くまでもない、否である。

 だからレクトは王城の舞踏会とは告げず、『上司の命令でパーティーに出席しなければならない』とだけ伝えていた。そして、当日の今でさえまだ本当のことを伝えていなかったのである。


 とはいえ、どこで開催される何のパーティーなのか気にならないメロディもメロディだが……。


「お待たせしました」


「ああ、では行こ――」


 ポーラに支えられながら玄関へ向かうと、燕尾服に着替えたレクトがメロディ達を待っていた。メロディの声を聞き振り返ったレクトは、なぜか口を半開きにしたまましばし呆然としてしまった。


「あの、レクトさん?」


「――あっ、ああ。何でもない。では、行こうか」


 名を呼ばれようやく我に返ると、レクトはメロディに右手を差し出す。不思議そうに首を傾げるメロディだったが、あまり時間もないのでとりあえずレクトの差し出した手に自身の手を重ねた。


「じゃあ、行ってくるね、ポーラ」


「最低限の挨拶だけして、そっと帰ってくるつもりだからそれほど遅くはならない予定だ。しばらく屋敷を頼む」


「畏まりました、旦那様。……楽しんできてね、メロディ」


「うん、ありがとう。行ってきます」


「いってらっしゃいませ」


 玄関を出たポーラは、馬車に乗り込む二人に深々と頭を下げて走り去る馬車を見送った。

 馬の軽い嘶きが聞こえ、蹄の音が聞こえ始める。その音が耳から遠くなりやがて聞こえなくなると、彼女はなぜか呆れ顔を浮かべながら頭を上げた。



「……自分だって見惚れていたくせに、どうして気が付かないのかしら? 『そっと』ですって?」



 玄関の扉を開け中に入る直前、ポーラは馬が去っていった方向に顔を向けた。



「絶対に無理ですよ、旦那様。だって、あなたは王城の舞踏会に……天使を連れて行くのだから」


 なぜか自慢気な様子のポーラは屋敷の中へ戻っていった。

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