呼称の違え

 自分が髪を切ったことに気づいた時と同じリアクションだったことが、柚恵には新鮮だった。

 視界すべてを覆うような無数のさとうきびの高さは、頭を悠に越えている。某有名世界的アニメにある、腐った海を連想させる。それか古い遊園地とかにあるっていう、巨大迷路。聳え立つ、壁の連鎖。

 果たして彼の目には、これはどのように映っているのだろうか?

 と――

「あ。酒田おじいさぁん、こんにちわぁ」

 柚恵は見知った顔に気づき、声を掛けた。30メートルくらい先にクワを振るう、頭がずいぶん後退した一人のご老体。

「やぁあ、ゆぅえちゃん、かぁい?」

 間六彦は、ビクッと痙攣する。柚恵は生暖かい視線でそれを見つめた。うん、この口調でびっくりしなかったのは弥生だけだ。

「んんん、そちらのぉ、男の子はぁ?」

 ご老体が、間六彦のほうを向いた。

 緊張の面持ちで、間六彦は背筋を伸ばした。

「あ、ど、どうもっ。石垣崎柚恵さんにはいつもお世話になっております、間六彦と申します!」

「あぁん、どうもぉ、よろしゅうなぁ」

「押忍ッ、こちらこそよろしくお願い申し上げます!!」

 えらく気合いが入っていた。しれっと押忍とか返事してるし、なんも体育会系なノリだった。

 そこに舞奈が、てくてく歩いてくる。

「こんちゃあ、酒田じぃちゃん」

「おんやぁ、ほっほっ、まいにゃあ、ちゃんかぁい?」

「うん、っていうかまいにゃあじゃなくって舞奈だってば。柚恵の変な呼び方、マネしないでよー」

「ほっほっ、すまんのう、まいにゃあ、ちゃぁん」

「……まぁ、もういいけど」

 なんとも不毛な会話。こうして見ると、なんだか一番の常識人にして苦労人は舞奈な気がしてくるから不思議だった。みんな自由で、気ままに生きている。柚恵は沖縄の、こういう気風が大好きだった。

 そこでふと、気づいた。

「あれぇ……そういえば、やよよんはぁ?」

 舞奈も、そして男性陣ふたりも続いて気づく。

「え……ってそういえば、確かにいないわね?」「む、確かに」「おぉ、やよよんちゃんもぉ、一緒だったかのぉ?」

 みんなで辺りを見渡したが、そこには聳えるさとうきびの森ばかりで、どこにも弥生の姿は見て取れない。

 ――なにか厭な予感が、胸元を駆けた。

「……弥生ちゃん」

 思わず駈け出しかけた背に、間六彦の声が追いすがった。

「どうした?」

「あ、うん……いやちょっとぉ、弥生ちゃんいないなぁ、っておもってぇ」

「あぁ、そうだな。しかし神ノ島も、子どもではない。それにこの場所を指定したのは、神ノ島本人だ。迷い、戸惑い、路頭に惑っているということもあるまい?」

「そ、それはそうだけどぉ……」

「この事態は、普段の呼称を違(たが)えるほど、切迫しているということなのか?」

「い、いやぁそんな……え?」

 ふと、気づいた。

 やよよんではなく、とっさに弥生ちゃんと呼んでしまった事実に。

 それに柚恵は誤魔化すことを諦め、出しかけた足を留めた。間六彦も、手を離す。空気はすっかり、シリアスなものとなっていた。

「ん? どうしたの、ふたりとも難しそうな顔しちゃって?」

 舞奈だけ、さとうきび一本とってちゅーちゅー吸っていた。こいついると話進まねーなーと間六彦は知れないようため息をついた。

「弥生ちゃ――やよよんは……」

 慣れている柚恵はそれを気にする様子も無く、話し始めた。



 ざわわ、と風でサトウキビが、ざわめいた。

 それに視線を移すが、そこに映るのは周りとまったく同じ風景だった。サトウキビの森はいつまでも、どこまでも果てがないように続いている。それは一斉に風で凪ぎ、まるで海のようですらあった。ここにずっといると、自分という存在が消えてしまうように錯覚する時がある。

「――――」

 弥生は、その只中で佇んでいた。なにをするでもなく、ただ立っていた。そしてサトウキビの中に、埋もれていた。ただ風を、感じていた。

 両の掌を空に掲げて、ただ佇んでいた。

 ざわわ、ざわわ。

「ざわわ、ざわわ、ざわわ、」

 気づけば口元から、歌が零れていた。

「広い、さとう、きび畑は、」

 それはどこか、物悲しく。

「ざわわ、ざわわ、ざわわ、風が通りぬけるだけ」

 どこか、懐かしく。 

「むかし、海の向こうから、いくさがやってきた。あの日、鉄の雨にうたれ、」

 それはなぜか――


「父は、死んでいった」

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