ご婦人。
とても可愛らしく、人を疑う事を知らないのだろうご婦人に出会ったお話をいたしとうございます。
その日、私は地方銀行の窓口を求め、その頃住まいしおりました都市のオフィス街へと出向いておりました。生活するに当たり普段はあまり必要ない手続きというものが多々ありまして、かといって放っておきますと、溜まってしまう雑務なのでございます。その、雑務を溜めに溜めた結果、流石にやらねばなりませぬ!これ以上溜めては一大事!と銀行に行くことにした次第でございました。都会の方には何の馴染みもない地方銀行故、すぐに私の諸々の、要望に応えてくださり、その上、金融商品の、勧誘なども受けまして、老後の心配をそろそろしなくてはいけないのかしらん?と未来の自分を妄想しつつ窓口を後にしたのでございました。
久しぶりに来た中心地でしたので、ふらりと散策しながら、二駅ほど歩きましょうと決めて大通りに向かっておりました。ふと、見ると呉服屋さんの軒先で『はぎれ』が売られておりました。1畳ほどのスペースに、色とりどりの『はぎれ』が陳列されており、思わず足を止めました。素敵な布との出会いに心ときめかしながら、気になる布を手に取り、広げ、畳んでは戻ししておりました。呉服屋さんの『はぎれ』ですから、和柄が中心で、金糸や絹の豪華なものも含まれておりました。
「あら、綺麗ねぇ。いいのある??」
「あるにはあるんですけれども、お値段がちょっと…」
「これとか良いと思わない?」
「素敵ですね」
「あら、お高いわ…」
「そうですよね。はぎれでこのお値段はお高いですよね。良い品なんでしょうけれども」
気づくと違和感なく話しておりました。これこそ、このご婦人の魅力なのでございましょう。
そろそろ、お暇いたしましょう!と隣のご婦人にお別れの挨拶をいたしますと、
「あら私も、もういいわ」
と、微笑むのでございました。
一応、念のため、もう一度
「では、ごきげんよう」
大通りに向かい歩き始めた私の隣に、なぜだかご婦人が隣に並んで、歩いてくるのです。
「私、この近くに住んでるんだけれど、子供達も巣立ったし、主人には先立たれたし今の家は大きすぎるから引っ越そうと思ってるの」
「そうでございますか。けれども、この辺りとても便利そうですし、良いではございませんか」
「便利なんだけれども、お家賃がもったいなくて。年金生活だからね」
「賃貸なんですか?」
「そうなの。この前、市営住宅を申し込んだんだけど、抽選外れちゃってねぇ」
「やはり、倍率高いのですか?」
「そうなの。なかなか難しいわぁ」
あれ?この方どちらに行かれるのかしらん?と不思議に思いつつ、信号で待ちで足を止めますと、まだまだお話が尽きないようで、
「あなた、どちらか良いところご存知ない?」
そう尋ねられて、私の三味線の師匠が府営住宅に引っ越して、お安いお家賃でなかなか広い部屋だと仰ってた事をふと思い出しました。
かくかくしかじか、三味線の師匠のお話を致しますと、
「どこで申し込みされたのかしら?聞いてくださらない??」
と、私の手を取り懇願されるのです。
「私も、詳しく存じあげませんので、師匠に電話してみますね」
ご婦人のあまりの熱量に圧倒され、師匠に電話をかけ、事の次第をお話してからご婦人に携帯電話をお渡しいたしました。
ご婦人はあれこれ質問しては頷きしておりました。私は、この時間をどうしたものかと空を仰いでおりました。そこそこの長電話が終わり、携帯電話が帰ってまいりましたが、まだ繋がっておりましたので、師匠にお礼を述べますと、
「お前の知り合いか??」
「いいえ、先ほどたまたま話しかけられました」
「お前、暇なんか?稽古せい!!」
とお叱りを受けてしまいました。いえ、決して暇なわけではございません!!などと言う暇もなく、電話は切れたのでした。口は悪いのですけれども、こよなく三味線を愛する優しい師匠でございます。
「ありがとう。凄く良いお話を伺いました。本当にありがとう。あなたに会えて良かったわー」
「いえ。とんでもございません。では、失礼………」
今度こそお暇しようとする私の言葉を遮り
「本当、年金生活は大変なのよ。あ、貯金は150万あるのよ!ですけれど………」
私、耳を疑いました、つい先ほど会った赤の他人にご自分の貯金額まで暴露なさるとは!!なんたる事!ご婦人!これ以上の個人情報は言ってはなりませぬ!私が、極悪人だったらいかがなさるおつもりです??
先ほど銀行で説明されました金融商品情報を悪用して、投資話など持ちかけたら、はいどうぞ!と差し出しそうな勢いでございますよ!もしくは、師匠と共謀して、府営住宅斡旋費用を用意したら確実に入れますよ!と囁けば、はいどうぞ!と仰いますよね???
なりませぬ!!ご婦人!!
「あの……、あまりその様な事は口になさらない方が良いかと…」
ご婦人は不思議そうな顔をしてから
「本当にありがとうねぇ。あなた、お時間ある?お茶でもしましょうよ。お礼にご馳走させてちょうだい」
と仰るではないですか。私、お時間はありますけれども、この様に無防備な年金生活のご婦人にご馳走になる訳には参りません。私がお支払い致します!と、思いましたが、このご婦人の勢いと強引さに勝てる気がせず、最終的にはご馳走になる絵が浮かびました。故に
「ありがとうございます。お気持ちだけいただきます。この後、次の予定がありますので。ここで失礼いたします」
「あら?そうなの?残念だわ。少しくらいいいじゃない」
と引き下がらないご婦人に
「本当に、時間がありませんので。失礼いたします」
と申し上げ、何度もお礼の言葉をいただきながら横断歩道を渡ったのでございました。
それにいたしましても、あの様に無防備な方でもご無事に過ごせる日本国というのは本当に平和でございます。どうかあのご婦人が抽選に見事当選し、この先も素敵な人生が送れますように。
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