泡まみれ。

 あの夏も、

 この夏も、

 暑い思い出ばかり。


 庶民の夏は何処までも暑いのでございます。



ある年の夏休み、犬と共に涼しい場所を探して家でゴロゴロしていても退屈ですし、(そんな風に過ごすのは得意なのですけれども)その頃よく行っておりました市民プールの方にお声を掛けていただいて、監視員のアルバイトをさせていただた事がございます。

このお仕事も相当、退屈だったのですけれども。家にいるよりは些かマシでございました。


田舎の市民プールですので、夏休みだからといって多くの人が来る訳でもなく、一般に解放されている4レーンには数名の方が悠々と泳いる程度です。黙々と泳ぐ方々を目で追い


『皆さんよく泳ぎますねぇ』


『ターンも美しい』


 と、監視台の上から夏の日差しにきらめく水面を見つめる日々でございました。

 ウォーキングコースのご婦人方の楽しげな声、お子様用プールから聞こえる笑い声。

眠くてたまらない私。

 本日も各方面異常なしでございます!


その日も水質検査などを滞りなくこなし、終業時間を迎えました。事務所の方々にご挨拶をすませ、帰宅しようかと思ったのですが、、外はまだ、陽も高くアスファルトも溶けそうなほどゆらゆら熱を持っているのが見えましたので、ひと泳ぎしてから帰りましょう!と、いそいそ更衣室に行き、水着に着替えました。監視員の特典で、いつでも泳ぎ放題だったのでございます。


 大抵のプールがそうでありますように、更衣室の横には、シャワー室があり、その先からがプールへと続く男女共有の場所となっております。


水泳帽を被り、シャワー室を抜け、プールへ向かう途中にあります、トイレの前に差し掛かかろうとした時でございました。


 男子トイレから、おじさまが出てまいりました。トイレから人が出て来るなど、いたって普通の有り触れた場面でございますから、さして気にも留めず、視界の片隅に認知する程度でございました。


 頭のゴーグルの位置がどうもしっくりせずに立ち止まった私の横を先ほどトイレから出て来たおじさまが追い越したのでございます。

 そして、そろそろと方向を変えやたらとゆっくりと殿方の更衣室に向かって行くそのお姿を二度見せずにはおれませんでした、、、


 見間違いでございましょうか??

 お、お、お尻が見えした… ?

 瞬きを数回してみましたが、やはり、お世辞にも美しいとは言えない、お世辞にも美しいとは言えないという事が既にお世辞に値する、見知らぬおじさまの、お、お、お尻が


『諸君!!ご機嫌いかがかな?私はすこぶる上機嫌である!』


 と、たっぷりと脂肪が乗った大臀筋を上下しつつ、大股で歩いているのです。


 しかも、でございます、そのお尻はボディソープのCMのようにきめ細かい泡にまみれているのです。


 泡のおパンツをご着用なさっているのです。


 簡潔に申し上げますと、『全裸のおじさま』のおパンツで隠すべき部分だけが泡まみれなのです。


 歳の頃で言えば50代前半でございましょうか。薄っすらと地肌が見える頭にくるりと一巻きした濡れ髪が乗っております。身体は、中年そのもので、でっぷりとしたお腹を有し、もじゃもじゃと濡れた体毛を全身に貼り付けておりました。


 嗚呼、

 見なくて良いものを見てしまった…。

 知らなくて良い事を知ってしまった…。

 せめてもの救いは、前面からではなかった事でございます。私は運が良いのです。


 私が思いますに、シャワー室で体を洗っている最中に、猛烈な尿意に襲われ、


『まずい!もう一度水泳用のピチピチおパンツを着用していては、事に間に合わぬ!!しかも、あの締め付けは己の膀胱に最後の一撃を食らわすかもしれぬ!ええい!厠は目の前じゃ!どうせ人も大しておらぬはず。このまま、泡でかくして堂々と行けば、誰もこれが泡だとは気づかぬだろう!』


 と、慌ててトイレに駆け込んだ為に。この様なお姿で歩いてらっしゃるのでしょう。


 いや、もしかすると、子供の様に、泡で遊んでいたところ、大変上手に泡おパンツが作れた為に、どなたかな賛辞を頂くべく、公然猥褻罪になりかねない事をご承知の上で、


『諸君!見たまえ!この滑らかで、きめ細やかな泡を!まるで何も着けていないかのような、夢の着心地、泡おパンツ!私は齢50を越え、漸くこの完璧なまでの泡おパンツの開発に成功したのだ!思い返せば、物心ついた頃より、試行錯誤を重ね、ある時は、食器用洗剤で、ある時はシャンプーで、またある時は牛乳石鹸と洗濯石鹸を混ぜ、幾度となく挑戦してきたのだ。妻や子供たちに虐げられようとも、諦めずに取り組んで来たのだ!そして今日ここに、新製品のボディソープに出会ったのだ!もっちりとして、きめ細やかな泡、何よりこの泡持ちのよさ!完璧だ!これこそ長年追い求めていた泡だ!さぁ、見るがよい!この素晴らしい機能性!どの素材よりも優れたフィット感!良く日に焼けた肌を一層引き立てる純白!それとなく秘部を覆い隠す違和感のなさ!さぁ、さぁ、この美しい泡と、我が肉体が織りなす芸術的な造形を、見るがよい!』


 と、この共有スペースに出て来たものの、集団でやって来たご婦人方(ちょうど、先程更衣室に戻っておいでの方たちがおられました)の気配で


『この芸術を、亭主の愚痴とご近所の噂話ばかりしているあのご婦人たちが理解できるはずは無い!』


と、トイレに隠れてみたのですが、


『おや?静かになったぞ!今だ!』


 と出てみたら、私がいたのでしょうか?そして、この芸術的泡おパンツを見せるに値する乙女である。と確信したが故に、この様にかくも堂々と私の前を横切って行かれたのでしょうか??


『君は、幸運だ!何故なら君は、この芸術を目にする最初の乙女なのだ!!喜びたまえ!感動の涙を流したまえ!君は素晴らしきこの光景をその目に焼き付け、語り継ぐのだ!よく見える様に其方の前を横切ってやろう!この大臀筋を動かすたびに、フワフワと揺れる泡の中に、人生の儚さが垣間見えるであろう?人間の偉大さに気付くであろう?心行くまで眺めるがよい。このおパンツは私の人生そのものなのだ!!!熱い視線を送る乙女よ、これが、男の浪漫だ!!』


『そして、よろこべ人類よ!もはや、我々に衣類は必要なくなったのだ!!』


と、思ってらっしゃったのでしょうか…。



その泡だて技術を駆使し、至る所でストリートパフォーマンスをなさって新進気鋭の芸術家として名を馳せるには、些か肉体が…。

残念ながら、それは芸術ではありません。むしろ犯罪です。



全裸で泡まみれだったのでございますから。



 暑かったのかな?

 暑かったんだろうな。


 多分、そのせいなんだろうな。

 泡だらけのおじさん。



私は監視員として、取り押さえるべきだったのでしょうけれども、勤務外の出来事にございますし、滑りやすい濡れたタイルの上で泡まみれの全裸のおじさまと、追いかけっこをしたり、すってんころりんする勇気など、持ち合わせてはおりませんでした。


程よく傾いた陽の光を水底から眺め、さ、忘れましょう。見なかった事に致しましょう。と、随分長い間、泳いだのでございました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る