投げキッスヒッチハイカー



 秋晴れの清々しい空が広がるある日の午後のことでございました。


 私は自宅から車で1時間半ほどの場所にあります場所へと仕事に向かっておりました。時間に追われるのが嫌いなものですから、たっぷりと余裕を持って自宅を出まして、途中にありますカフェで大きめのカフェラテを購入し、お気に入りの音楽を聴きつつ、その日の仕事についてあれこれ考えを巡らせていたのでございます。

愛車の中といいますのは、実に安心感のある素敵な空間でございます。その上、素晴らしく良いお天気なものですから、鼻歌など歌いながら、大変良い気分でございました。


 平日の午後、車線は空いており、稲刈りを終えた田園地帯の良い香りを感じながら、スイスイと45分ほど車を走らせた頃でございました。

まばらに商業施設などがあります国道の沿いのガソリンスタンド前に何やら気になる人影を見つけたのでございます。


ここが私のいけないところなのですが、どうしても好奇心には逆らえず、その方がよく見えるように車線を変更いたしました。(それほど気になる佇まいだったのでございます)

ガソリンスタンドまではまだ300mほどあった様に記憶しております。まだその方の性別すらわからない距離でございました。


 さらに車を走らせますと、当然その方との距離も近づいてまいりました。どうやらその方は若い男性で、ヒッチハイクをなさっているようでございました。60センチ四方ほどの段ボールには行き先が書いてあるようでございます。そうして好奇心に駆られるままその方の立っていらっしゃるガソリンスタンド横に来たあたりで幸か不幸か信号機が赤くなったのでございます。


あら、こんな田舎でめずらしいこと。乗せてさしあげて、旅のお話でも伺おうかしらん。


そのくらいの心持ちでございました。


 その方との距離は5〜6mほどだったでしょうか。当然、私はその方の様子を観察することにいたしました。これでも乙女の端くれでありますから、見ず知らずの方を誰彼構わず、愛車にお乗せする訳にはまいりません。


 今にして思えば、止めておけば良かったのです。何故、私の父と母は、怪しい人と目を合わしてはいけません!と幼少の頃にきつく躾けてはくださらなかったのでしょうか。しかしながら、後悔先に立たずでございます。お子様がおられます方には忘れずに教えていただきたいと思います。


 その方は元々の色が何色であったのかもわからない、首もとはダルダルに延びきり、所々破けている茶か黒か、、、とにかく濃い色のTシャツに、同じ様に汚れた(失礼。本音を申してしまいました。)半ズボンをお召しになり、そして足下はサンダルという出で立ちでございました。背には大きなリュックサック、足下には同じくらいの大きさのこれまた汚れた(これまた失礼。)スポーツバッグが置かれておりました。手に持つ段ボールには隣県の県庁所在地が書かれておりました。


 そして、いよいよお顔を拝見しようと思った時でございます。

私の熱い視線に気づいたのでしょうか。満面の笑みで私を見つめながら、その方は、おもむろに行き先が書かれました段ボール裏返したのでございます。


何事かしらん??


と、疑問符が飛び出た刹那にございました。

裏返された段ボールには


『I♡YOU』


の文字が……


鳩に豆鉄砲、てのに『I♡YOU』でございます、、


 私のそれまでの人生の経験値では、全く予測不能な事態の連続なのでございます。


 そうして、私にその『I♡YOU』をしっかりと見せつけましてから、段ボールを地面に捨てますと、満面の笑みで私を見つめながら、両手を無精髭で覆われました口元に運んだのでございました。


今度は何をなさるのかしらん?


と、思ったのとほぼ同時にその攻撃は始まったのでございます。


 真っ黒な、日焼けしてらっしゃるのか、汚れてらっしゃるのか判別できないお顔の口元に当てた指先を、左右交互に私に送ってくるではございませんか!!しかも目にも止まらぬ早さで!

そうです。私は初めてお見かけした青年に『高速投げキッス』を浴びせられているのです。

唇が大胆に( ̄ε ̄@)ぶっちゅ~と幾度となく動いているではありませんか!あまりの衝撃に、私は飲んでいた美味しいカフェオレを吹き出しそうになりながらも、その青年から目を離せずにおりました。端から見れば、私もその青年と同じくらいに満面の笑みだったのかもしれません。それがまた、良くなかったのでしょうけれども。


 先にも言いました様に、愛車の中におります私は、守られた安心出来る空間にいるのでございます。サファリパークで猛獣を優雅に見ているがごとく、その方の『高速投げキッス』を眺めて、なんて変わった方がいるのかしらん。どこからいらしたのかしらん。と思っておりました。身の危険など微塵も感じてはいなかったのでございます。


 青年のその行動は突然でございました。足下のバックを手に取ると、なんと言うことでしょう!!私の愛車に近づいていらっしゃるではございませんか!


私はこの段になりまして初めて、恐怖を感じたのでございます。


『私は、あなた様を、愛車に乗せる気など、もうとうございません!』


とっさにドアロックをいたしまして、そこでようやく目を合わせるべきではなかった!微笑むべきではなかった!と思い至りましたが、時、既に遅し、でございます。私の微笑みが、かの青年にとっては


『お兄さん。お乗りなさい。』


と解釈できるほどだったのでしょうけれども。


『早く!信号機さん、青になってくださいまし!!お願いでございます!』


真っ直ぐ信号機を見つめて、祈る様な心持ちでございました。それはほんの数秒のことなのですけれども、とても長く、長く、感じられたのでございます。


 幸いその青年が近づいて来る前に信号機は青に変わり、逃げる様にアクセルを踏みました。

何とも言えぬ安堵感とともに思いましたのは、このような、得体の知れない風変わりな青年をこのスタンドまで乗車させて来られた勇者についてで、ございました。私にはそのような広い心はございません。どなたか、優しい運転手さんに出会えるとよいですね。

私には絶対に無理でございます。

 

 とはいいつつ、バックミラー越しに両手を振る青年を見ながら、また笑いが込み上げてきて笑みをこぼした私も、すれ違う方から見ましたら、なかなかの変わり者に見えたやもしれません。


 あれから数年経ちましたが、その道を通ります時には思い出してしまいます。

  

 これは、後悔なのでございましょうか、、、


 

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