8月18日 AM11:00

 手紙を読み終わり、便箋を封筒に戻そうとしても中々上手く入ってくれない。

 何度も何度も失敗していると、便箋が俺の手から零れ落ちてしまう。

 床に落ちたそれを拾おうとして、俺はようやく自分の手が震えているのだと気がついた。


「小町が、俺を……?」


 何の冗談だよ、と笑い飛ばしたくなる。

 けれど、今俺が手にしている手紙には確かにそう記されている。

 だとしたら、あの夏空の下、射抜くような焦がれた目はやはり俺に向いていて、小町が寂しそうに放った言葉たちは。そして、告白の合否は。


「……俺ってバカだよな」


 手紙を読み終わったのを見計らったように足音が聞こえ、小町が部屋へと戻ってきた。しかし小町は俺の存在を無視して、最初に居た位置に体を横たえて目を閉じる。

 それはまるで人間だった部分を全て無くしてしまったかのような、そんな喪失感を俺に覚えさせた。


「なあ小町、俺ってどうしようもねぇよ。不能だのなんだの言われてたけどその通りだ。お前の気持ちに全く気付いてなかった。バカみてぇに、いや、ただのバカだった」


 聞いていなくても、届いていなくても話しかけずにはいられない。

 そうしなければ、身勝手な罪悪感で押しつぶされてしまいそうだから。


「本当に、ごめん」


 頭を下げても、小町はもう俺のためには動いてくれない。

 まだ何かをしてくれるのではないかなんて甘えた考えは、頭の先から聞こえてくる規則的な寝息によって砕かれた。

 今まであれだけ獣還りを否定しておきながら、獣に成り下がってしまった小町に、これだけ縋りつくなんて恥知らずにも程がある。


「……」


 まだ語りたいことが沢山あるのに、言わなければならない言葉が山のようにあるのに、俺の口はぱくぱくと無様に動くだけだ。

 そうやってしばらく足掻いてから、俺はようやくその無駄な行為をやめた。


 小町はもう、とっくに人間ではなくなっている。

 それは自分自身が一番よく知っているじゃないか。それにここに来た目的を忘れてはいけない。俺はここに、何を知るために来たのかを。


 その答えはもう得ている。

 あまりにも皮肉だが、小町が俺に気持ちを告げることができず、この手紙が残っていなければ俺はそれを知る術すらなかったのだ。

 だから、この小町の態度もきっともう帰れと言っているのだろう。

 俺だって自分の手紙を目の前で読まれたらこんな態度をとってしまうに違いない。


「この手紙、元の場所に戻しておくよ。ありがとう」


 一応断りを入れてから封筒を挟んであったページに戻し、アルバムを元の場所に納めてから、温くなっていたジュースを飲み干した。

 そしてお盆の上に置いてある骨型のクッキーを寝ている小町の鼻先に置いて、静かに部屋を去る。


 小町に噛まれた足だがどうやら手加減してくれていたらしく、血はすでに止まり痛みも引いていた。

 あの時の小町はと想像しそうになり、それを頭から消し去って階段を降りる。

 そんなはずはない。そんなまさかがあってはならないのだ。


「あら、太一君もう帰っちゃうの? お昼食べて行けばいいのに!」

「この後に用事があるから今日は遠慮しておくよ。ありがとうおばさん」

「いいえー!」


 いつ帰っていたのか全く気がつかなかったが、おばさんが階段を降りる音を聞いてリビングから声をかけてきた。足を見られてはまずいと急いで靴を履いて玄関のドアを開ける。


「太一君、また小町と遊びに来てちょうだいねー!」

「はい! お邪魔しました! また!」


 おばさんが歩いて来る気配を察して、挨拶もそこそこにドアを閉め早足で家から離れる。そうやって神社の近くまで逃げるような足取りで戻ってきてから、ようやく一息。


「また、か」


 随分と無責任な事を言ってしまった。もう一度おばさんとこの姿で会える保証なんてどこにもないというのに。歩いてきた道を振り返っても、おばさんの姿や小町の家は姿形も見えなくなっている。


 これでもう今生の別れなのだと考えると、随分冷めた挨拶だったと自省するも既に遅い。そう思っているのは俺だけなのかもしれないが。


 だが、賽は投げられたのだ。後ろを向いている余裕はない。


「……じゃあな、小町」


 祭りの日のように、入道雲が我が物顔で占拠する空は見上げてもなお高く、それは俺の新たな門出を祝っているようでもあり、彼らから見たら小さな事で悩んでいる俺を嘲笑っているかのようにも見えた。


 この空の下、小町が俺の前で浮かべた儚げな表情。


 朝早くの神社で楓が泣きそうに笑っていたあの顔。


 俺はそれらを、自分の未来を諦めているからこそできた表情だと思っていた。


 けれど小町からの手紙を読んだ今は違う。


 あれは諦めの表情なんかではない。あの二人はきっと、覚悟を決めていたのだ。


 小町は自分の未来を知りながらも、誰かに覚えておいてほしいが為に、気持ちを言葉にしようとしていた。楓は未来が決まっているならばと、残された時間を有意義に生きようと心に決めていた。だからこそ、彼女らはあんな表情ができたのだ。


 ならば、俺は何を信じれば彼女たちのように覚悟ができるのか、それの答えを俺はもう知っている。いや、もしかしたら最初から知っていて見ないようにし続けていたのかもしれない。この土壇場になって直視できるようになっただけだ。


 ポケットから取り出したスマホから、通話履歴で一番上にある名前をタップし、相手が出るのを待つ。数回コールが鳴った後に回線が繋がり、相手がもしもし、と決まり文句を口にする前にすぐに本題を切り出した。


「好美、今日これから少し時間取れないか?」


 俺が覚悟を決める為に、まずは小町の遺言を伝えなければならない。


 それはきっと、俺にとっても乗り越えなければいけないことだろうから。

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