8月18日 PM2:00

「いきなりで驚いたよ。どうしたの?」


 お茶が乗ったお盆をテーブルに置き、好美は俺の前に座るとそう尋ねてきた。

 電話では詳しい内容は伝えていなかったので、何か重大な事でも起きたのかと心配そうにしている。


 キャンプからは会っていないので、花火をしていた時の続きから始められたらどうしようかと思っていたが、杞憂で済んだようだ。それは無視できる事ではないが、後で話すとしよう。


 とりあえず今は、俺の話を先にさせてもらうことにした。


「……小町の家に行ってきた」

「そうなんだ! 最近の小町本当にかわいいよね、あの銀色の毛羨ましいなぁ……」


 俺が小町の家に行ったと知るや否や、好美はぱあっと表情を明るくする。俺が抱えた喪失感や無力感とは違う、獣還りを肯定する人の顔だ。


「随分変わってたよ。中身はそんなでもなさそうだけど」

「太一もそう思う? やっぱり小町は小町なんだなって私も実感したもん」


 好美は嬉しそうに、ここ最近の小町との出来事を語り出す。

 どこに散歩に行ったとか、いきなり脱走して日が暮れるまで探してたら家に帰っていたとか、そんな他愛のない話。


 これがもし仮に一カ月前までならば、遊びや買い物に行った話だったかと思うと、友人を別の姿に変えたこんな世界を呪わずにはいられない。


 そんな俺の心情を知らず、好美は一方的に話を続けた。


「あ、そういえば最近小町が――」


 その思い出の一つ一つが棘のように俺へと纏わりつき、正体の無い痛みが俺を襲う。だからそうやって身動きが取れなくなる前に、俺は掌を向けて言葉を遮った。


「……太一?」

「好美、実は小町から伝言を預かってる」

「……?」


 何を言っているのかわからないと、好美は表情はそのままに小さく首を傾ける。

 しかし丸い大きな目だけは決して逸らさずに、俺の言葉の続きを待っていた。

 それはあのキャンプの時に、いや、もしかしたらずっと前から俺に向けられていた、身を焦がす程の熱を孕んだ視線とは真逆の冷めきった目だ。


 思えば、この夏休みの間に俺は今まで知らなかった好美の様々な一面を見てきた気がする。

 今の好美は、俺の知っている栗林好美とはもう違う存在なのかもしれない。


「小町はもう喋らないよ? 太一が何を言ってるのかよくわからないな」


 どこまでが本心なのか、それとも本当にわかっていないのか、好美の声は明るく、それが逆に違和感を与えてくる。

 できれば後者であってほしいものだが、それはあまりにも都合がよすぎるか。


 覚悟を決めて、息を整える。冷えた空気が循環して脳に巡るまでほんの数秒。

 そして、俺はゆっくりと口を開いた。


「……手紙があったんだ。アルバムの中に隠してあるのを小町が教えてくれた。誰も開けてなかったから、俺が好美に伝えないといけない」

「……へぇ、その手紙にはなんて書いてあったの?」


 小さいながらも確実な動揺が見える声で、好美は訊いてきた。

 再度深い呼吸を挟んで、俺は目に焼き付いている手紙の最後の部分を諳んじる。


「抜け駆けしてごめんなさい。それだけで伝わるって」

 その瞬間、お茶を手に取ろうとしていた好美がお盆の中でコップを倒した。

 言葉に動揺して取りこぼしたのだろう。

 そこまでの言葉だってことは、自分でもよく理解している。


「あ、あはは、ごめんね零しちゃった。拭かなくちゃ」


 まるで先を聞きたくないとでも言うように、いつも通りに戻ろうとしている好美を逃がさないよう、立ち上がった彼女の背中に向かって声をかける。


「好美、お前に言っておかなくちゃいけないことはもう一つある」


 息が苦しく、喉に詰まった息を絞り出すように吐いた。

 俺達の日常を壊すその一言を、無理やりに形作る。


「俺は……」

「ごめん、拭かないといけないから、雑巾取ってこなきゃ」


 部屋の外に走り去ろうとする好美の手を掴む。

 そのまま逃がさないように強く握ってこちらを振り向かせた。

 その瞳に溜まった雫は今にも零れそうで、酷く俺の決心を鈍らせる。


「離してよ! やだ! 太一!」


 雰囲気で察したのだろう、好美の抵抗は予想よりずっと激しかった。

 けれどここで止めてしまえば、小町から託された沢山のものを無駄にしてしまうのだと、手の内で暴れる好美の肩を必死の思いで掴んだ。


 瞬時の間、涙で揺れる好美の目をしっかりと見て、


「俺は、好美の気持ちには応えられない」


 はっきりと、そんな惨い決別の意思を好美に投げつけた。

 あの夜の続きを否定する。好美の告白を拒絶する。

 これが俺の答えであり、覚悟だ。


 小町は覚えておいてほしいというエゴの為に告白する選択肢を選び、覚悟を決めていた。

 ならば、俺もそれに倣いエゴを押し通そうと思ったのだ。


 俺のエゴとは即ち、ずっと歪んでいると言い続けたこの世界を、俺の大事な人たちを奪い去ってしまう壊れた価値観を否定する事だ。


 今までのように口で否定するだけの生温いやり方ではなく、全てを拒絶する。

 そうしてたった一人となってしまう俺の仲間だけを大切にする。これが俺の覚悟。


 こうする事でしか、弱い俺は覚悟を決めることができそうにない。


 その結果こうなってしまうのだと覚悟はしていた。

 その答えは好美をも否定し、悲しませてしまう事も理解していた。


 けれどいざそれを口にしてしまうと、さっき手にしたばかりのもの以外がガラガラと音を立てて壊れていくような、そんな感覚に陥る。

 小町はこんな恐怖と戦いながら俺と軽口を交わしていたかと思うと、尊敬の念しか抱けない。


「……」


 好美は俺の拒絶を聞くと、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 ただ茫然とした顔のまま静かに涙を流している。

 実体のない痛みに咄嗟に胸を押さえるが、破裂しそうな程高鳴った鼓動が聞こえるだけで、その痛みが和らぐことはなかった。


「……ごめん、好美」


 謝るべきではない、そんな事はわかっている。

 この言葉が、今までないがしろにし続けてきた好美をどれだけ傷つけるのかも。


「……なんで」


 虚ろな目で、好美は俺を見上げてそう訊いた。尻尾を失くしてしまった時と同じく、抜け殻になってしまったような幼馴染のその顔が、俺の答えは間違えているのだと告げている。

 けれど受け入れないのなら、一度間違えたのならば、そのまま前に進むしかない。


「……ごめん」

「……なんで、ねぇなんで?」


 許しを請う子供のように、好美は震える声で俺へと手を伸ばす。

 その手を取って、目の前で泣いている女の子を抱きしめられたらどれだけ楽だろう。それが出来れば、どれだけ救われる事だろう。

 尖り始めた爪が掌に刺さるまで拳を握るも、無力感は尽きない。


「私ね、頑張ったんだよ。ずっとこっちを見てもらいたいって、私だけを見てほしいってずっと思ってた。けどそれは私だけじゃなかったの」


 這い上がるかのように好美は俺の服を掴んで立ち上がる。

 怖くて目を合わせられない。合わせてしまったら、そのまま引きずり込まれてしまいそうだから。


「小町も、小町もそうだった。でもどっちかが抜け駆けして、三人でいられなくなるのが嫌だからって、私も小町も太一に告白できなかった。それがおかしくなったのが夏祭りの前、太一も聞いてたんでしょ?」


「もう、いいだろ。もう、これ以上は――」


 どっちも辛いだけだ。

 好美はただ俺の事を憎んで、一生許さないだけでいい。

 それなのに、好美は棘の道を傷つくことも躊躇わず自分から歩みを進めている。


「だからね、私は小町に譲ることにした。小町が幸せなら私も幸せ。今までもずっとそうだったから、私は二人の間に居れればそれでいいって。けど小町は告白する前に獣になっちゃった。だから、だから――」


 さっき俺がそうしたように、好美は俺の肩に爪を立て、逸らしていた顔を無理やり自分の方に向けさせた。


 小柄な好美とは思えない力に思わず膝を降り、涙と鼻水でグシャグシャになった幼馴染の顔が目の前に現れる。


 お互いの息が触れ合う距離で、好美は涙を流しながらぐずりと鼻を鳴らし、


「……今度は私の番だって、そう思うじゃん」


 もう居なくなってしまった誰かに懇願するように、好美は俺の肩を掴む力を強くした。


「……好美」


 知らなかった、それで通せれば俺も好美もどれだけ幸せだっただろう。

 この世界がおかしくなんてならなかったら、俺も小町も好美も、笑顔のままの日常があったに違いない。


 そんな俺を、逃避なんて許さないと好美は己が内を吐き出し続ける。


「友達が獣還りしたのは嬉しいよ。祝福しなきゃ、おめでとうって言わなきゃ。けど、それとは違う喜びもあった。だってライバルが減ったんだからこれでようやく私だけを見てくれるんだって、そう思えたのに」


 獣還り、という単語に動揺し、思わず目を伏せる。

 その態度が気に食わなかったのか、好美は俺を突き飛ばし自分ごと床に倒れこんだ。


「でも、でも太一はいつの間にかあの子と知り合ってて! あの子とばっかり仲良くなって! 私は寂しかった! なんで私じゃないの!? なんで!?」


 肩に好美の全体重が乗り、骨がギシリと軋む嫌な音がした。痛みに顔をしかめていると、俺の頬に好美の涙が数滴落ち、肌を嬲るような感覚が頬に走る。


 熱い。頭も、体も、全てが熱い。


 この体を熱するモノが何の感情なのか、俺にはわからなかった。


 頭は茹立ち、心は荒れ、好美の言葉の意味すら理解できなくなってくる。


「私の番じゃないの!? ようやく、ようやく私の番だと思ったのに!」


 でも、その中で、一つだけ聞き逃せない事があった。


 友達が獣還りして嬉しいと好美は言った。悲しいでも寂しいでもなく、嬉しいと。


 それが、誰からも忘れられて置いていかれるのが怖いと怯えていた友人への手向けの言葉なのか。ただ普通に生きていたかったと願う女の子への言葉なのか。


 握った拳が、噛みしめた牙が、さっきまでとは違う感情に体が支配され、砕けて壊れても厭わないと更に力を籠める。


 ああ、やっぱりだ。やっぱり俺は間違っている。


 そうやって自己肯定をすると、楓の顔が頭に浮かんできた。

 楓はいつも笑っていて、俺を引っ張り回して、俺よりずっと小さいのに、俺より何倍も強い金髪の女の子。


 俺の大切な、世界でたった一人だけの大切な仲間。


「――ッ! ――!!」


 目の前で激昂し声を荒げる好美の顔が何故かぼやけてはっきりと見えず、声もガラスの壁でもあるように輪郭を失い聞き取れなくなっていた。


 さっきまではその顔がとても恐ろしいものに見えていたが、何故だか今はとても力ないものに見え、少しでも流されそうになっていた自分が無性に腹ただしい。


 だから、もう終わりにしようと思う。


 この世界を肯定する好美と、否定している俺とでは絶対に理解しあえないのだから。


「……なんで好美じゃないのか聞きたいのか?」


 体の奥で猛る炎とは正反対の、冷めきった声で楓へと問いかける。


 この言い方では色々と誤解を招きそうだが、既にそうに違いないと勘違いをしている好美ならもう今更だ。


「……」


 好美の反応はない。けれど俺の肩を掴む力は弱まり、一方的な糾弾は収まった。

 未だ大粒の涙が零れる瞳は、ただじっと俺の顔に向けられている。

 そこにどんな感情が含まれているのかを、俺はもう推し量ろうともしない。


「……こういう事だよ」


 好美に跨られたままなので、外せるだけのカーディガンのボタンを外し、下に着ていた厚手のロングシャツが伸びるのも気にせずに襟元を一気に下に引っ張った。


 好美は俺が何をしているのかをじっと眺め、そして服の下にあるそれを見て、何故かがっくりと項垂れた。


 そして数秒の後に、


「……ああ、なんだ、そういうことかぁ」


 と、さっきまでの激情が差し替えられてしまったかのような、恐ろしいまでに優しい声で、納得した。


 垂れた前髪で好美の表情はよく見えない。

 けれどその声はもう怒りは感じられず、俺の言動を全て理解したのだと思わせる調子で、好美はしばらくそうしていたかと思うと、おもむろに俺の体の上から起き上がり、腕を掴んで引き起こした。


「そういうことなら早く言ってくれればいいのに、私早とちりしちゃったよ。楓ちゃんと同じタイミングってのは、少しだけ妬けるけど」


 何故だか、顔を伏せたままの好美がどんな顔をしているのか手に取るように理解できてしまう。

 正直、想像通りなら決して見たいものではない。


「太一は責任感強いから周りの人の事気にしてたんでしょ? でも大丈夫、それを気にしているのは太一だけだし、むしろ大好きな人がそうなるならそれはいい事なんだから」


 そこまで言って、好美はようやく顔を上げる。


 涙はもう、流れてはいなかった。


「獣還りおめでとう、太一」


 一点の曇りもない笑みで俺の手を取り、好美は俺の獣還りを祝福した。


 何の迷いもなく、仮に想い人が獣になろうともおめでとうと、好美は世界を肯定した。


 これが正しいと言うのならば俺は間違えたままでいい。そう思える歪んだ笑みだ。


「……


 必死に気持ちを押し殺し、作った笑顔で礼を言うと好美は満足そうに頷いた。


 狂っている。


 さっきまでの激情も、涙も、好きな人の事を想う気持ちも、獣還りというフィルターを通せば全て無にしてしまうこの世界は何もかもが狂っている。


 小町が獣に還った時も好美は笑っていた。

 友人が目の前でいなくなったというのに、内に秘めた禍根や怨嗟を全てかなぐり捨て、それが祝福されるべき事であると信じてやまない。


 それはなんとも歪で恐ろしい、俺が決して相いれない世界そのものなのだ。


 唯一の救いはたった一人だけの味方と、程なくしてこの世界から逃げ出せるって事だけ。


「あ、太一の事だから誰にも言ってないんでしょ? 一緒に言いに行こうか?」


 好美は目尻に残った涙を指先で掬うと、微笑みながら握った手を小さく引く。


 俺の事が好きなんじゃなかったのか、と喉元まで出かかった叫びを必死に抑える。


 その言葉の自惚れっぷりと、目の前の現実があまりにも乖離しすぎていて本当にどうにかなってしまいそうだ。


 俺は握られた手を上から握り返し、そしてゆっくりとそれを外させる。


「……いいや大丈夫、俺一人でも言えるよ。好美には最初に言っておかなくちゃって思っただけだから。まだ時間もあるし、迷惑をかけないぐらいでちゃんと言うから」

「本当? 智代さんとおじさんに迷惑かけちゃダメだよ」

「わかってるって。だからネタばらしはしないでくれよ」


 好美の様子からして、隠していたつもりがバレていたって事はないらしい。

 それがなんだか楓との二人だけの秘密をずっと守れていたのだと、とても誇らしい事のように思えて、いくらか俺の気持ちは軽くなった。


「あ、そうだ。お茶零しちゃったんだっけ。代わりの持ってくるね」

「いや、もう帰るよ。今日はそれを好美に伝える為だけに来たんだ」

「そっか、ごめんね理由も知らずに怒っちゃって」

「……いいさ」


 荒れた水面が落ち着いてくるように、さっきまでの非日常は日常へとすり替わっていく。


「悪かったな。うるさくしてごめんっておばさん達に謝っといてくれ」

「うん、わかった。決心がつかなかったら教えてよ、私も一緒に着いていくから」


 玄関で俺を見送る好美は目こそ赤いものの、普段通りに戻っている。

 小町の残した手紙の在処を好美に伝えるかどうか悩んだが、言わないことにした。

 きっと好美に、あの言葉が届くことはないだろうから。


「……じゃあな好美」

「うん、じゃあね」


 今度は、また、とは言えなかった。

 小町の家を出た時よりも心は落ち着いていて、何故だかそれが無性に悲しい。

 好美は泣いた名残が残る目元をそのままに笑顔で俺を見送っている。


 少し触れただけで壊れてしまいそうなその笑みは、どれだけ経っても頭から離れることはなさそうだった。

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