8月18日
8月18日 AM10:00
いつもより少しだけ遅く起き、朝食を済ませてから小町の家を目指して出発した。
あまり早くけしかけるのもそれはそれで礼儀がなっていないので、少し寝過ごしたがむしろちょうどよかったのかもしれない。
神社の前に差し掛かり、ついついいつもの癖で鳥居の奥を見つめてしまう。今日は夕方から会う約束なので、さすがに石段の上に楓の姿はなかった。
近づいてみると、昨日は気付かなかったが鳥居の下にも狐の像にも土埃が着き始めている。もう最後に掃除をしてから三週間が経つが、雨風をモロに食らうとしてもたったそれだけでここまで汚れてしまうのかと、狐の鼻についた汚れを指で拭って溜息をつく。
「せっかく綺麗に掃除したのにな……」
他にも石段の上にはまだ青い落ち葉が見受けられ、ここから見えるベンチの上には小さな虫の死骸が乗っている。手入れされていない場所なんてこんなものかと思いつつ、指に着いた汚れをズボンに擦りつけた。
「……爺ちゃん。これから少しだけ頑張ってくるよ」
自分の信じるものを確かにするために、小町の家へと向かう。
どんな結末になるかはわからない。けれど何かが変わる事だけは確かだ。
今朝になってなんとなく理解できたが、俺に残された時間はあと二日もない。
だからその僅かな時間で、逃げてきた現実と決着をつけなければならない。
「……行ってきます」
境内に向けた挨拶に当然返事はなく、振り返って小町の家へ繋がる道へと入る。
最後にもう一度だけ振り返っても、爺ちゃんが笑顔で立っていたなんて神様の悪戯は起きずに、ただ悠然と物言わぬ神社が佇んでいるだけだった。
***
小町の家はもう目の前に迫っている。
神社から歩いて数分なので別に遠いわけではないのだが、俺と好美の家が隣同士な事もあって何かと集まるのはいつもどちらかの家だった。なので小町の家に来るのはだいたい半年ぶりぐらいだ。
住宅街の中にある小町の家は何の変哲もない一軒家で、小学生ぐらいの時からその外観は何も変わっていない。千和と書かれたネームプレートの下にあるインターフォンを鳴らすと、記憶の中にあるままの小町のおばさんが玄関から顔を出した。
「あらあらあらあら太一君じゃない! こんな朝早くからどうしたの!」
おばさんは最初はセールスかと思っていたのか警戒している顔だったが、俺の姿を見るとぱあっと表情を明るくした。
「おばさん久しぶり。今日はその、小町の様子を見に来たんだ」
「あら、そういえば獣還りしてから一度も来てないものね! さあ上がって上がって! 小町~! 太一君がアンタの顔見に来たわよ~! さぁ上がって。お茶? それともジュース?」
喋りも動きも忙しないのは変わっていないようで、気がつくとおばさんはドアを開けっぱなしにして俺の答えを聞く前に家の奥に姿を消してしまう。
「おばさん変わらないなぁ……」
昔からずっとあの勢いに圧倒され続けているのでそういう感想だけだが、楓なんか引き合わせたらきっと固まってしまう事だろう。
礼儀として家の奥まで届くように大きな声で挨拶をして、開けっ放しになっていた玄関のドアを閉める。いきなり部屋に押しかけるのはさすがにデリカシーがないかと、ひとまずキッチンに向かったのだが、すぐに出てきたおばさんからいつ準備したのかジュースやお菓子が乗ったお盆を押し付けられた。
「小町なら二階の自分の部屋にいるから行っておいで。あ、こっちは小町用のお菓子だから食べちゃダメよ。一応食べれるけどすっごい固いんだから」
「わ、わかった」
「それじゃあよろしくね。おばさんこれから買い物に行かないといけないから」
「え、おばさん?」
「鍵は小町に言えば閉めてくれるから! それじゃあね!」
おばさんは喋っている最中にも足を動かし、まるで嵐のような勢いで去って行った。いくら幼稚園に入る前から知っている間柄とは言え、不用心過ぎないだろうか。
「……けど、むしろ好都合か」
内心で買い物に出たおばさんにお礼を言いながら階段を上り、二階へ足を踏み入れる。
奥の突き当りにある部屋が小町の部屋で、昔は入る前にノックをしろだの部屋のドアは閉めろだの散々俺に文句を言っていたのに、今そのドアは開け放たれ、そこから銀色の尻尾がゆらゆらと揺れているのが見え、俺は足を止める。
「……」
覚悟はしてきたつもりだったのだが、いざ実際目の前にすると足が竦んでしまう。
あの犬は小町ではない、と言い切る自分もいれば、ああなっても小町なのだと俺自身の考えを否定する声もある。
以前は実体を持っていなかった獣還りに対する恐怖も、それが目前となった今ではその成れの果てと向かい合うこの状況で、歩みを止めてしまうのは仕方ないのかもしれない。
けれど、ここから先に進まなければ俺がここに来た意味がなくなってしまう。
一度深呼吸をしてから、ゆっくりと一歩足を前に進めた。ドン、とフローリングの床が鳴り、自分がいかに力んでいるのかがわかって笑えてきた。
開かれたドアの横に立ち、深呼吸をしてからノックする。
「小町、入るぞ」
覚悟を決めて中に入ると、小町の部屋は記憶の中にある光景と何も変わっていなかった。ただどこかでおばさんが片付けたのだろう、前はもっと雑誌や服が散らばっていたように思う。
そして一番の違いは、朝というには高くなった陽が差し込む部屋の中央に、銀色の毛を生やした大型のチワワが寝そべっている事だった。
「……久しぶりだな小町」
「……」
当たり前だが、返事はない。
祭りの日に跳びかかってきて俺の顔を舐めまわした犬と同じとは思えない落ち着きようで、小町は俺を一瞥すると興味がなさそうにそのまま目を閉じた。
それがなんだか小町が人間だった時の影を思わせて、懐かしさと共に胸にちくりと痛みが走る。
「……元気にしてたか? 顔を見に来れなかったのは、その、悪かった」
俺の言葉に反応して、小町の耳がピクリと動く。だがそれ以外に反応はない。
「俺さ、前から言ってたけど獣還りってよくわかんなくて、それでお前がいきなりそうなっちゃったもんだから、その……」
自分の声以外がやけに静かで、動き続けている冷房も、窓の外の騒がしさも、レースのカーテンを透過する太陽の日差しも、どこか絵空事のように思えてしまう。
けれど俺は口にしなければならない。これからする事の非礼を、小町にしっかり話しておかなければならないのだ。
「知りたいんだ。お前が獣になる前にどうなったか。どんな気持ちで過ごしてたか、何を考えていたのか、それを聞きに……知りに来た」
カラン、とジュースの入ったコップが音を立てる。
死人に口なし、という諺がある。
けれどそいつが残したものは、失われた本人より饒舌に話をするものだ。
「……だから最初に謝っておく。ごめん」
だから、俺は今日ここに墓を暴きに来た。
謝罪を口にして立ち上がりカーテンを閉めると、小町が使っていた机の引き出しに手をかける。見つけたいのは日記か手帳だ。それに相当するものでもいい。とにかく小町の気持ちに近づける手がかりのようなものさえあれば。
「ワン!」
乱暴に引き出しを開け閉めする俺をさすがに不審に思ったのか、小町は大きな声で吠え、牙を剥き出しにして威嚇を始めた。だが構っている暇はない。おばさんが帰ってくる前に急いで見つけなければ、ここまで来た意味がないのだから。
「ウウウウウウウ!!」
「くそ、どこにあるんだよ……!」
机の引き出しの中には特に目立ったものはなく、今度は部屋にあった衣装タンスに目を付けた。何が入っているのかを察して一瞬だけ躊躇ったが、ここまでやっておいて今更だと一番上の取っ手に手をかける。
「ワン!」
その時だった。威嚇をするだけで直接的な妨害をしてこなかった小町がいきなり俺の左ふくらはぎに噛みついてきたのだ。牙が突き刺さる鋭い痛みと嫌な圧迫感で咄嗟に後ろに手を振るうも、小町は噛みついたまま離れようとしない。
「いっだだだだだだだ! こ、小町やめろ!」
「ウウウウウウ……!」
暴力を振るうわけにもいかず、空いた片手で抵抗するも体は痛みでどんどん萎縮していく。小町は歪めた形相で足に食らいついたまま俺の顔を睨みつけていた。
それがまるで、この中に入っているものを見られるのが恥ずかしいなんて、人間のような感情で動いているように見えてしまう。
「……嘘、だろ?」
まさか、と思いながらも取っ手から手を離す。すると小町はさっきまでの燃えるような怒りはどこに行ったのか、すぐさま俺の足に突き刺さった牙を抜き、血が垂れ始めた傷口を労わるように舐め始めたのだ。
安心したからか足の力が抜け、タンスに背中を預けてへたり込むも、小町は傷口を舐めるのをやめようとしなかった。
それは媚びているようには全く見えず、むしろルールを破った俺に情けをかけるような気高さで、施しを受けているような気にすらなる。
「……小町」
傷口を舐める小町の顔へ手を伸ばす。小町はそれに気付くと舐めるのを止め、俺の手に頭を擦りつけてくる。恐る恐る撫でると、気持ちよさそうに目を細めて身を委ねてきた。
「……ごめん、小町」
ゆっくりと頭を撫でながら、俺は間違えたのだと自覚した。
小町が俺に噛みついた理由は定かではない。
目の前で何やら怪しい動きをされたからかもしれない。
もしかしたら記憶がまだ多少残っていてタンスを開けられるのを恥ずかしいと思ったからかもしれない。
けれど今こうやって大人しく俺に撫でられている小町を見ていると、後者で間違いないのだと、言葉なんてなくとも俺にそう言ってくれているようだった。
「……そりゃ、自分の部屋を荒らされたら誰だって嫌だよな。すまん」
俺の手の内で、小町は細めた目でじっと俺を見つめている。
当然言葉は無く、ただ底が見えない真っ黒な目を向けてくるだけだ。
そうやってしばらくすると、小町は俺の手から離れて部屋の隅にある本棚の前へ移動した。
その中から一冊だけ飛び出ている大判の本を咥えて引きずり出すと、それを咥えたままこちらへと持ってきて俺の隣に置き、その傍らに腰かけた。
その本の表紙には見覚えがあった。
小町が持ってきたのは何冊もあるアルバムの内の一冊で、主に中学に入ってからの写真を纏めているものだ。以前小町と好美と俺の三人で貼り付ける写真を選んだ記憶がある。
「これをどうしろって?」
返事は当然ないが、この行動はアルバムを開くのを催促されているように思え、一ページずつ写真を眺めながら読み進めていく。体育祭、文化祭、修学旅行と様々なイベントがあったが、どの写真も俺と好美、そして小町の三人が写っていた。
「懐かしいな……」
当時の思い出に浸りながらどんどん読み進めていくと、写真の中の俺達は高校の制服へと変わり、去年撮った覚えのある写真がいくつもあった。
そして今年の春、高校二年生になってからの写真は少なく、数ページめくるだけで後は真っ白なページが続くだけ。
それが無性に寂しくて、まだ何かあるのではないかとページをめくる手を止められなかった。
「……ん?」
アルバムの最後近くまで進めると、とあるページで変な物を見つけた。
何も貼られていないページの間に、一つの簡素な便箋用封筒が挟まっていたのだ。
宛名はなく、真っ白な封筒の裏には見慣れた文字で千和小町より、とだけ書いてある。
「お前、これを俺に見せる為に?」
咄嗟に隣に座っている小町にそう尋ねたのだが、小町は目的を果たしたからか、とてとてと部屋から出て行ってしまう。
「……読めってことか」
読んでほしくないのなら、さっきみたいに噛みつかれるはずだ。
手にした封筒のシールを破らないように丁寧に外す。
シールがベリベリと剥がれる感触があって、これを読むのは俺が初めてなのだと少し申し訳ない気持ちにもなった。
封筒の中には折り畳まれた白い便箋が二枚入っていて、開いてみるとそれはどうやら手紙のようだった。
最後にもう一度だけ心の中で謝り、俺は誰に宛てたものかもわからないそれを読み始める。
「この手紙が読まれている時に、ウチはもう人間ではなくなっているでしょう……」
書き出しから一人称にだいぶ個性が出ているが、それが余計に小町らしいと小さな笑いが漏れた。
――読み進めていくと、手紙にはこう記してあった。
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