8月17日

8月17日


 八月十七日


 丸一日泥のように眠っていたからだろう、いつぞやのように目を覚ましたのは早朝だった。まだ一日が始まるのには随分と早いが、夢のせいもあって二度寝する気分でもないし起きることにした。


 カーテンを開けると朝焼けと呼ぶにはまだ暗い空が広がっていて、窓を隔てているのに湿っぽい空気がこちらまで流れ込んでくる。


「とりあえずシャワーでも浴びるか……」


 よくよく考えたらキャンプから帰ってきてシャワーを浴びた記憶がない。

 いつまでも腐っているわけにもいかないし、体が綺麗になれば気分も幾分かマシになるかと、着替えを手に俺は風呂場へ向かう。

 脱衣所で服を脱ぎ、冷水でいいかと考えながら、鏡に映る自分の姿を見た。


「……おいおい」


 昨日までとは全く違う自分の体の様子に、思わず顔が引き攣った。


 胸部と腹部だけしかなかった毛はいつの間にか体の前部全てに広がり、楓のように二の腕の途中まで浸食されていた。引き攣った口端から覗く犬歯は、長さこそ変わらないが明らかに昨日よりも鋭さを増し、牙へと変化しようとしている。


 何度か口角を持ち上げて確認したが、牙は歯を剥き出しにして笑わない限りは見えないし、見えたとしても一瞬だから誰かにこの体を悟られることはないだろう。

 けれど、この体毛のせいであと少しの俺の人生、半袖のシャツはもう着る機会がなさそうだ。


「そりゃカーディガンも着るよなぁ……」


 スーパーで出会った小町の姿を思い出す。準備する間もなくいきなりこんなことになるのでは俺もそれぐらいしか思いつかない。


 しかしいつまでも全裸の自分と鏡越しに向き合っている訳にもいかず、ゴワゴワする毛と格闘しながらシャワーを終え、持ってきていた半袖は着れないので部屋に戻って薄い長袖シャツの上にカーディガンを羽織った。


「……さて」


 これから朝食までどうするのか考えたが、冷たいシャワーを浴びて目が覚めてしまったので結局また早朝徘徊をする事にした。それ以外にやることがないわけではないが、動いていないと落ち着かないのだ。


 サンダルを足に引っかけてブラブラと近所を練り歩く。朝早くだからか、カーディガンを着ていてもそこまで暑くないし、肌に吸い付くような湿気も服が吸ってくれるのでむしろ快適だ。


 行く宛も無く、これまたいつぞやのように歩き慣れた道を歩き続ける。


 そうして、ここ一カ月で調教されていたのかいつの間にか神社へとたどり着いていた。鳥居をくぐり、石段に座って楓から連絡が来ていないかを確認したが空振りだった。一応新着メッセージの問い合わせまでしている自分のなんと女々しい事か。


「……さすがに家に帰ったら連絡しないと」


 家に帰ったら、家に帰ったら楓に容体を聞こう。


 朝早いから電話よりラインの方がいいだろう。

 きっとアイツの事だから会長さん達に迷惑をかけたんじゃないかと気に病んでるはずだし、それで少しは気が楽になってくれればいい。


 楓の体に体毛が顕現してからまだ二日。


 ……もう二日と言うべきか。


 獣還りは進行スピードに個人差があるが、俺も楓もこうなった以上、次の瞬間には獣還りが始まってもおかしくはない。あの日いつまでも返ってこなかった小町からの返事が恐ろしかったのは認めるし、今もそうだ。


 けれどそれは、まだ生きている楓に連絡をしない言い訳にはならないのではないか。


「……もう、二日」


 口にして、それがどれだけの時間だったのかをようやく理解する。


 長い夏休みのたった二日かもしれない。


 けれど、俺達にとってはとても長い時間なのだと。


「本当に俺ってやつは……!」


 問題を先送りにしようとしていた自分への言い訳を撤回し、急いでスマホを取り出す。昨日は全く動かなかった指先が動き、文章を作っていく。

 簡潔に、体は大丈夫かとだけ入力してそのまま送信した。


 キャンプも途中だし、線香花火は結局できていない。海には行ってすらない。


 俺達の夏は確実に終わろうとしている。


 けれどまだ終わったわけじゃない。


 こんな中途半端に終わるのは、嫌だ。


 ジワジワと上がり始める気温に呼応し、セミを筆頭にした虫たちの鳴き声が聞こえてくる。もう全身を現している太陽は高い建物のないこの街を満遍なく照らし、一日の始まりを告げていた。

 いつもは耳障りで目障りなそれらも、今ばかりは俺を励ましてくれているような気になって、送信が完了するまで俺は画面と逃げずに向かい合う。


「……はぁ」


 電波が悪かったのか、少々の時間が経ってから送信は完了された。

 しっかりとそれを確認して、体から力を抜くと自然にため息が漏れる。

 たった数文字、たった数秒の事なのに自分でもどうかしていると思う。


 けれど誰にもわかってもらえなくても、これが俺にとっては大事な事なのだ。

 例えそれがたった一人の女の子にしか理解してもらえなくても。


 傷がつくのも気にせず、石段にスマホを放って空を仰ぐ。

 たった一度連絡をするだけなのに、何をここまで気負っているのか。

 我ながら女々しすぎて恥ずかしくなってくる。

 ここまで引っ張っておいて既に楓が獣になっていたとしたら、それこそ手遅れだというのに。


「……楓」


 呟くように呼んでみても、当たり前だが返事はない。

 こんな朝早くに神社に居るわけないし、そもそも楓の家はここから遠い。

 それこそ前みたいに徹夜でもしてない限りいるわけがない。


 だから、ピロンと電子音が背後から聞こえた時、不覚にも俺は嬉しさを堪えきれなかった。


「あっ、やばっ」


 まるで誰かから隠れようとしている声が、電子音と同じであろう位置から聞こえてくる。もうすっかり聞き慣れているが、なんだかとても懐かしく思える声だった。二日間会わない事なんて普通にあったのに、それでも懐かしく、安心する声だ。


 声の主は残念、と溜息をついてこちらへ歩いてくる。


「……太一が連絡くれないから来ちゃった」

「……今日は徹夜してないだろうな」

「してないよ。さっき葛西に車で送ってもらった」

「そっか。あの爺さんも大変だ。もしかして、後ろから驚かせようしてたのか?」

「うん、結局失敗しちゃったけどね。うわ何これ、前から思ってたけど太一の文章って全然面白くないよね。もっと絵文字とか使いなよ」


 相変わらず可愛げのない事をズケズケと言うが、元気であるように振る舞おうとしているのが手に取るようにわかってしまう。

 だから俺も、振り返った先に何があったとしても、決して楓を悲しませるような事はしないと決心を固めた。


「いつまでそっち向いているの。こっち見てよ」

「……ああ」

 そうしてゆっくりと立ち上がってから振り返り、俺は二日ぶりに楓と対面する。


 眼の下にクマがある以外は元気そうで、寂しげに微笑をたたえた目鼻立ちは相変わらず整っている。服装はジャンパースカートに白シャツでその上に濃い藍色のカーディガンを羽織っており、いつものワンピース姿ではない。


 そして一番の違いは、楓の象徴であった腰まで届く長い金髪が、肩口辺りでバッサリと切られていた事だ。


「……髪、切ったんだな」

「ああこれ? キャンプの時に被ったあの花火水? の臭いが取れなくてメイドにお願いして切ってもらったの。自分的には気に入ってるんだけど」


 楓は短くなった髪をまるでその先があるように、優しい手つきでなぞっている。

 正直、動揺しなかったと言えば嘘になる。

 動く度に目を奪われるあの輝きを俺自身気に入っていたからだ。


「本当は伸ばしっぱなしにしておきたかったんだけど、どうせアタシ達そんなに長くないし、その間ずっと嫌な臭い嗅ぎたくないじゃん。似合ってるかなこれ?」


 楓はその場で体を回転させ、短い髪をふんわりと風に遊ばせた。

 俺に聞いていながらもその表情は自信に満ち溢れている。


「似合ってるよ、すごく。長いのもいいけどそっちもすげーいい」

「……本当? なら嬉しいんだけど、なんか感情篭ってなくない?」


 俺の世辞に満更でもないと一瞬だけ頬を緩ませた楓だが、すぐにダメ出しがきた。お嬢様的にはもう一声欲しいらしい。


「本当だって。長い時とは違ってなんつーか、別人みたいだ」

「それって褒めてるのかなぁ。もっと気の利いた事言えないの?」

「そんなん言われてもなぁ……」


 こういうのは言い慣れていない俺にとってけっこうハードルが高く、これ以上の褒め言葉は頭の中には浮かんでこない。どうしたものかと頭をかいていると、俺の次の言葉を今か今かと待っている楓と目が合った。

 その様子が餌を目の前にして待たされている犬のように見えて、それがどうにもおかしく思わず吹き出してしまう。


「な、何笑ってんの?」

「いや、だって、お前、あはははは!」


 いきなり笑い出した俺に楓はドン引きしていたが、止まらない笑いが伝染でもしたのかいつの間にか楓も俺同様に笑い出す。そうしてしばらく笑い続け、呼吸がままならなくなるぐらいまでどうしようもない空気を堪能して、ようやく俺達はちゃんと向かい合った。


 乱れた呼吸を整えて、しっかりと楓の目を見る。


「……キャンプの時は怒鳴ってごめんな。俺が落ち着いてないといけないのに」

「ううん。自分もあんな風になっちゃうかもって思ったらしょうがないよ」

「……ありがとう」


 俺達に残された時間はもうあと僅かだ。

 楓は普通の人の普通の遊びを最後の我儘だと言っていた。

 それができればいいと、それが最後の望みなのだと。

 俺はそれについていけば楓や小町のように、何かと折り合いがつけれるのではないかと思ったのだ。

 けれどその何かはやはりわからないまま。


 だが、それも当然だ。

 その為に、最後にやらなければならないことを俺はやっていない。

 ずっと逃げ続けていたものと、真っ向から対峙する時が来たのだ。


 ――明日、小町の家に行こう。


「楓、明日行く予定だった祭り、夕方からだから現地集合でいいよな」

「え? あ、うん。それって前言ってたヤツだよね」


 いきなりの話題転換に楓はきょとんとしている。

 本当は一緒に行って欲しいのだが、楓はとっくに乗り越えた道だし、何より知らないヤツの家に行っても居心地が悪いだろう。


「それだ。駅の周り全部でやるらしいからこの前のよりも全然大きいぞ」

「本当!? やったぁ!」


 ちょっと強引だったかと思ったが、楓は祭りの話だとわかると途端に両手を上げて喜び始めた。会長さんや好美に行かないかとは誘われていたが、この前のような獣還りの浸食が始まらないとも限らないし二人だけで行った方がいいだろう。


 そんな風に喜ぶ楓を眺めていたら、楓の腹がぐううと大きな音を立てた。楓はすぐに腹を抑えたが、既に俺には聞こえているのでそんなものは意味がない。


「……朝ごはん食べてないから」


 別に悪い事をしたわけでもないのに、楓は頬を赤らめて言い訳を口にする。


「ウチ来いよ。姉さんお前の事気に入ってるし、朝飯ぐらいならお安い御用だ」

 それに対して、俺は笑いを堪えながら我が家の朝食に招待した。

 楓は頬を膨らませていたがそのうち恥ずかしそうにしたまま首を縦に振り、俺達は二人揃って神社を後にする。


 ここまで歩いて来るのは幽鬼のような徘徊染みた動きと気分だったが、楓と二人で歩くだけで、そんな気分は全て吹き飛んでしまう帰り道となった。

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