8月16日

8月16日

 あの後すぐに葛西に電話をして、楓を迎えに来てもらった。

 待っている間にも楓は錯乱し暴れていたが、車に乗せられる頃には疲れ果てて抵抗もしなくなっていた。


 気が遠くなるほどの時間を暗闇の中で待ち、ようやく俺らの前に現れた葛西は大きなため息をついて不機嫌なのを隠そうともせず口を開く。


「……里中様はご存知だったのですね?」

「……」

「獣還りの兆候があったなら事前に言っておいてもらわないと困ります」


 あくまで事務的に、しかし面倒事は作ってくれるなと葛西は俺を責めた。

 これに関しては葛西の言い分も分からないでもない。けれどそれを泣き腫らした目でぐったりとしている楓の前で言える神経は理解できなかった。


「これから私は方々に頭を下げなければなりません。ああこれはただの仕事ですからお気になさらず。体は以前雇っていたメイドにでも頼んで洗わせると――」

「わかりました。わかりましたから、早く楓を休ませてあげてください」


 葛西の言葉を遮り、自分の体が勝手に殴りかからないように抑えるのに精一杯だった。葛西は途中で遮られた事を特に気にした様子もなく、車の後部座席に楓を寝転がせると何の感慨もなく車を走らせ消えて行った。


 その後の事はあまり覚えていない。獣還りが身近なところで二人も出るなんて、と喜ぶ皆を見ていられなくて、現実から逃げるようにテントに潜り込み横になった。

 そうしたらいつの間にか夜が明けていて、家に帰ってきていた。


 楓がいなくなってしまう。

 実際にいなくなるわけではなく獣還りするだけだというのに、俺にはそれが何よりも、自分の考えに共感してくれる誰かがその価値観を失ってしまうというだけで、自分自身が獣に還る事より恐ろしい。


 自分の部屋に戻ってからも、シャワーすら浴びる気になれずそのままベッドへ倒れこんだ。ポケットの中のスマホを乱暴に放り出すと、それと一緒に結局火を点けなかった線香花火がくしゃくしゃになって出てきた。


「……線香花火、できなかったな」


 あれだけ楽しみにしていたのに、楓はきっと悲しんでいる事だろう。


 楓は今起きているのだろうか。起きた時にいきなり周囲の環境が変わっていて驚かないだろうか。何かを考えるにしても、それが全て楓のものになっていた。


 重い体をなんとか動かし、スマホの電源を入れて連絡が来ていないか確認する。画面は時刻を表示するだけで、誰からも連絡は来ていない。


 あんな状態じゃ連絡もできないか、と何気なく楓の連絡先を探し、メッセージの入力画面まで辿り着く。だが、そこに打ちこむべき文言は頭の中に全く浮かばない。


 思い出すのはあの夏祭りの日。

 いつまで経っても小町からの返信はなく、それがまた起きてしまうのではないかと想像しただけで、ほんの数文字送るだけなのに俺の指先を鈍らせる。


 結局、俺はスマホを再び放り投げ、枕に顔を埋めて目を閉じた。


 昨日は寝たのか寝ていないのかすら自分でもわからない。


 ただ茫然としたまま横になっていただけなので、自分の部屋という落ち着ける環境に戻って安心したのだろう、表面化していた意識はどんどん深く沈んでいき、煩雑な思考を伴ってあっという間に眠りに落ちた。


 それでも、瞼の裏に残る金色は、色褪せることなくいつまでも焼き付いていた。


***


 夢を見た。


 どこかも分からない広大な草原で、ただ走り続ける夢。


 夢だとすぐにわかったのだが、体は思い通りに動かない。

 そうやってずっと目的地も分からないまま走っていると、いつの間にか俺の体は徐々に変化していき、いつの間にか四本の足で地を駆ける獣へと変わっていた。


 徐々にスピードに乗り、宛もなく走り続ける。

 それがとても気持ちのいい事なんだと理解が及ぶと、それだけに頭の中は支配され、走る事だけが生きる目的のように、隆起した地面もぬかるんだ地面も関係なくただただ前を目指した。


 それのどこかでふと思い出す。この夢は以前楓と話をしていた獣還り前の兆候なのだと。


 これを見た自分はもうすぐ、それこそ本当に目の前に獣還りが迫っているのだ。


 だというのに、獣と化した身体で俺は笑っていた。


 これで、楓の苦しみを少しでも肩代わりしてやれるのだと、嬉しかったのだ。

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