8月8日 その3

「わっ、やったな! えーい!」

「おっ、そっちこそ! ほらほら!」

「きゃー!」


 楓は水しぶきを全身に浴び、祭りの時みたいな笑顔ではしゃいでいる。


 一応泳げるとは聞いていたが実際それなりのもので、これなら溺れる心配はしなくて済みそうだ。時刻は十一時半、強くなってきた日差しに冷たいプールはさぞ気持ちのいいことだろう。


「……太一、どこ見てるの」


 ああ、羨ましい。俺も早く冷たいプールに入りたい。今すぐ飛び込みたい。


「……返事は?」

「……どこも見てません」


 しかしそれは叶わない。何故ならプール横のコンクリの上で正座をさせられているからだ。


 汗が滴り、顎から雫となって零れて乾いた地面に落ちる。僅かな水源となったそれも一瞬で蒸発し、また新たな汗もそうやって消えて行く。


 数分前、更衣室で楓と別れてすぐに着替え終わった俺は、女子更衣室の前で楓の着替えが終わるのを待っていた。熱された地面も働きすぎな太陽も、この時ばかりは後に控える水の冷たさを際立たせるスパイス程度にしか思っていなかった。


「あれ? 太一?」

「え……?」


 そんな最中、偶然更衣室から出てきた彼女らと出会ってしまったのだ。

 好美と、会長さんに。


「太一、あの子なんなの? 説明して」


 休憩スペースの椅子に座り、好美は新品の水着を自慢するかのように、ふんぞり返って事態の説明をこちらへ要求する。その眼には明らかな軽蔑が込められていて、どうやらよからぬ疑いをかけられているらしい。

 最初に友達の妹だ、と嘘をついたのがどうやらよくなかったようだ。

 学校での俺の交友関係を好美は知っているというのに、悪手だった。


「なんなのって言われてもな……」


 頭上から日差しのように降り注ぐ視線が痛く、顔を伏せたままお茶を濁す。

 色々と複雑な事情が絡み合っていて、正直に答える訳にはいかない。いやそもそも、その辺りの事情を話したところで小学生の女の子と遊ぶのを正当化できるとは思えないが。

 なんとか誤魔化せないかと要領の少ない頭を捻る。


「その、新しい水着よく似合ってるな。フリルとかかわいいじゃん」

「ありがとう。でも今はそういう話はしてない」


 好美は俺のお世辞を一蹴し、不機嫌そうに足を組みなおす。


「それで、あの子は一体何なの?」


 二度目の問いに、俺は再び息を詰まらせる事しかできない。

 獣還りが嫌で思い出作りに来ました、なんて好美に正直に言ったらどうなる事か。

 上手い言い訳を楓本人から言ってもらえればいいのだが、その楓はというと、


「会長さん! ウォータースライダーやってみたい!」

「今は人も少ないみたいだからちょうどいいな。行こうか」

「うん!」


 いつの間にか意気投合した会長さんと、ウォータースライダー目指して進軍していた。 あの様子だと俺の事はもう忘れてしまったらしい。


「……」

「……」


 沈黙が耳に痛い。すぐそこにある楽園はまるで砂漠の蜃気楼のように、果てしなく遠い存在に思えてくる。水は冷たいだろうし、ウォータースライダーは楽しいだろう。

 しかしこちらが口を割る訳にはいかず、この無言の争いは平行線を辿るばかりだ。


「言えないんだ、ふーん、やっぱりそうなんだ」


 やっぱり、と口にした好美は、一人で何らかの答えに辿り着いたらしい。


「いや、だから、なんつーか……」


 それが良くない答えなのは明らかなので、なんとかして誤解を解きたくても天啓は降りてこない。

 言い淀むばかりで事態は進展せず、楽し気な喧騒が通り過ぎていくだけ。


 そもそも、プールに好美が来る事自体が俺からしたら完全なイレギュラーだったのだ。

 終業式の日に小町からの海の誘いをなんとか拒否しようとしていた記憶があったので、未だ肌を晒す場には慣れていないのだと思い込んでいた。


「……なあ」

「何? 話す気になった?」


 キャアキャアと騒がしい周りの声に紛れるように、俺は顔を上げ、小さく疑問を口にした。


「そうじゃなくて……プール、来れるようになったんだな」


 好美はその指摘にほんの少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐにそれは引き締められる。


「そろそろ時間も経ったし、いつまでもそのままじゃいけないでしょ?」

「……そうか」


 ほんの数秒だけ間を空けてからの返事に、何かを我慢している様子はない。


 表面上、好美の体にはリスの耳こそあれど尻尾はない。それは別に獣還りが進行していないという事ではなく、六年前までは好美には立派な尻尾が生えていたのだ。

 大きくて邪魔だ、と言っていたが毛艶もよく、好美本人も少なからず気に入っていた尻尾。


「もう六年前か。早いな」

「そうだね。六年、か」


 好美は遠い目をして、何を思い出しているのだろう。


 六年前の夏、リスの尻尾はトカゲのように抜けるのだと、誰かが噂した。


 動物のリスの尻尾は外敵から逃げる際に抜ける事がある。しかしそれは抜けるというより肉体の一部を引きちぎる行為に相当するもので、尻尾を差し出す代わりに命を拾う行動だ。


 当然、抜けたからといって再生する物ではない。


 あまり思い出したくない光景だが、俺の脳には血の海に倒れる好美の姿が焼き付いている。


 クラスメイトの悪戯で、好美は自慢の尻尾を失った。


 幸い命だけは取りとめ、剥き出しになった骨は手術によって取り除かれた。だが尻尾が生えていた部分には大きな傷跡が残り、それを見せたくないが故に好美はそれから肌を露出する事を恐れるようになってしまった。


 過去に似たような患者を診た担当医の励ましもあり、自分が憧れている獣還りに異常はないと知った好美は表面上は前向きになったのだが、そこから俺は好美が水着を着ているのは一度も見ていない。


 そんな好美が、何のきっかけがあってプールへと訪れたのか。


 夏休みと今日までの間にあった大きな出来事と言えば一つ。小町の獣還りだ。


「……そう、今のままじゃダメなの」


 自分に言い聞かせるように、好美は目を伏せてそう呟いた。

 小町の獣還りから数度好美とは会っているが、あの日以来好美はどこか明るく振る舞うようになったと思う。演じている様子はないので、自分でも無意識なのかもしれない。


 幼馴染の獣還りという現実は俺と好美では受け取り方こそ違えど、彼女の生きた証としてそれぞれに何かしらの影響を及ぼしているのだろう。昔はよく、好美を泣かせるとその度に小町が顔を真っ赤にし、俺を正座させ説教をしていた。


 ……そういう意味では悪い影響を受けているとしか言えないが。


「一つだけいいかな?」


 好美はこの立ち位置からはまるで想像もできない、懇願するような声を出す。


「危ない事は、してないんだよね?」


 その一瞬だけ、好美は泣きそうな顔をして俺へとそう訊いた。


「してない。それだけは嘘も何もない本当だ」


 一点の迷いもなく即答する。


 何が好美へこれほどまでの心配をかけてしまったのかはわからないが、好美はまるで何かに怯えるように自分の胸元で強く手を握りしめている。それに安心していいと、揺れる瞳からは目を離さない。


「危ない事、してないよね? 嘘ついてないよね?」

「してない。危ない事なんて何もないし嘘もついてない」

「そう……」


 二度目の問いにも嘘偽りなく返答した。好美はそんな俺の答えを聞くと、深く目を閉じて何かを祈るように握った拳に額を預ける。喧騒の隙間に、僅かな静寂が訪れた。


 誠心誠意答えたつもりだったが、上手く好美へと届いただろうか。


 内容こそ違えど、こんなやり取りを昔は何度もやったものだ。


 俺と小町が騒ぎ、それを諌める立場の好美。その関係は未だに崩れていない。

 普段は大人しいのに俺や小町の事になると少々重く考えすぎてしまうのも、真摯に話せばわかってもらえるのも、好美の変わらない部分だ。

 きっとそれはいつまで経とうとも変わらないのだろう。


「……じゃあ、大丈夫かな」


 顔を上げた好美は、さっきまでの怒りなんてどこかへやってしまったように、どこか情けないいつもの笑みを浮かべた。何がどう大丈夫なのかはわからないが、とりあえずはこの説教も終わりでいいらしい。


 椅子から立ち上がった好美は正座したままの俺へと手を差し伸べた。


「それじゃあこの話はもう終わり。長くなっちゃってごめんね。足痛くない?」

「たぶんだいじょ……、あたたたた!」


 好美の手を掴み、感覚のなくなった足に鞭打ってなんとか立ち上がる。

 たたらを踏みながらもなんとか立て直すと、さっきまでの空気感はどこに行ったのか、すっかり元気になっている好美が掴んだままの俺の手を引いてプールへと走り出した。


「太一のせいでいっぱい汗かいちゃったから、早く早く!」

「ちょ、待てって! 足が、足が!」


 悶絶する俺を笑いながらも好美は手を離そうとしない。


 その屈託のない笑みの中に、やはりとある影がうっすらと重なる。


 それは太陽に透ける銀色で、つい先日まで俺らの側に居た友人の影だった。

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