8月8日 その2
今思い返しても腹が立つ会話だな、と車窓から流れる景色を眺めていると、俺の側頭部に軽い何かが激突した。それはどうやらビーチボールだったらしく、犯人である楓は悪びれる様子も無く、太陽より眩しい笑顔をこちらに向けていた。
「いきなりなにすんだよ」
「へへへ、だって太一がなんか難しい顔してるから」
「……悪かったよ」
運転席からこちらに注がれる視線に目を逸らしつつ、楓を疎かにしていたのを素直に謝る。
俺が黙ってさえいればいい問題を今わざわざ悩む必要はない。
「よし、じゃあ行くよ!」
「おま、こんな狭い車内ではしゃぐな! 危ないだろ!」
「へーきへーき!」
楓は第二投を投げようと振りかぶり、俺は咄嗟に防御しようと顔の前で腕を構えたのだが、その時になってようやく一つの事に気付いた。
楓の服装がもうすっかり見慣れてしまった、いつもの白いワンピースだったのだ。
別にそれだけなら問題はないのだが、さすがに毎回この服装だといらん心配をしてしまう。楓の話だと両親があまり楓に興味がなさそうだったし、もしかして着替えがないのだろうか。
そうなると使うつもりはなかったのだが、楓の買い物だしあの十万円を使うべきなのでは?
「ん? 太一?」
急に黙り込んだ俺を不審に思ったのだろう。楓は振りかぶっていたボールを膝に置く。
こういううやむやは先に解消しておくに越したことはない。
「なあ楓、一つ聞いていいか?」
「え? アタシ?」
「ああ、そうだ。嘘はつかないで正直に答えてほしい」
「う、うん」
俺の真剣な様子に気付いたのか、楓は佇まいを直してこちらに向き直る。
もし俺の仮説が正しければ、夏の思い出を作るのと同じぐらい大事な事のはずだ。
女の子だし、さすがに同じ服装ばっかりってのは辛いだろう。
「そのさ、お前それ以外に服持ってないのか?」
だから全て包み隠さず、真剣に楓の身を案じての問いだったのだが、
「……は?」
それがいらぬ心配だったのは、楓の表情から明らかだった。
ハンドルを握っている葛西は吹き出してこそいないが、必死に笑いを堪えて肩を震わせているし、楓は怒りで顔を真っ赤にしている。
「し、失礼言わないでよ! 同じ服じゃないし! 葛西も笑うな!」
「は、はい……ブフッ!」
「葛西!」
笑われたのが癪に触ったのか、楓は車を走らせる葛西に遠慮なく罵倒を続けた。
早々に雲行きが怪しくなってきたが、まあプールに着けば機嫌も直るだろう。
「ちょっと太一聞いてる!? 本当にいっぱい持ってるんだから!」
だが、しばらく葛西に言いたい放題やって満足したのか、今度は怒りの矛先がこちらに向いた。真相を知るまでは深刻な事態だと思っていたが、こうやって紐解いてみるとただの趣味だったとは申し開きも無い。
「悪かったよ。まさか同じ服をいっぱい持ってるとは思わなくてさ」
「同じじゃないしちょっとずつ違うの! ああもうなんでわからないかな!」
「俺には同じようにしか見えないんだけど……」
「じゃあいいよ、プールに着くまでアタシの拘りについて教えてあげるから」
その言葉通り、楓はプールに着くまで自分の服に対する拘りを語り続けた。
金髪だから服の色使いがうんぬんかんぬん、ニーソはかわいいけどうんぬんかんぬん、内容のほぼ八割は理解できなかったけど、それらを語っている内に楓の機嫌は少しずつよくなってきているようだった。
「楓様、里中様、見えてきましたよ」
そうやって楓のご高説も佳境に差し掛かった頃、ずっと黙って運転をしていた葛西が窓の外を指さしながらそう言った。
葛西が指し示す方角にはまだ小さいながらも、プールのシンボルであるウォータースライダーがそびえ立っているのが見える。
俺と同じものが見えたのだろう、楓は瞬時に窓に張り付いた。
「太一! アレ、アレやりたい! ウォータースライダー!」
「落ち着けって。急がなくても逃げねぇよ」
俺のたしなめる声はあまり耳には届いていないようで、楓はウォータースライダーを食い入るように見つめていた。それを子供らしいと思いながらも、目的地が徐々に近づいて来るこの感覚は言いようのない高揚感があるのも事実だ。
程なくして俺達の乗る車はそこそこ繁盛しているプールの入り口付近に停車する。
入口受付もそこまで混んでいる様子はないし、これなら中でも快適に遊べるだろう。
「プールだ! プール!」
「あ、おい!」
楓は我慢の限界に達したのか、車が停車するなりドアを蹴破るようにして外に飛び出していった。手にしたトートバッグがひっくり返りそうになるのも構わずに全力で走り、俺が着いてきていないとわかるや否や、大きく手を振って呼んでくる。
あまり待たせても悪いだろうとドアから半身を乗り出したが、葛西にも一応礼ぐらいは言っておいた方がいいかもしれないと、車内を覗き込む。
「おやどうしました里中様?」
「いえ、送ってくれてありがとうございました。また後でお願いします」
「ああ、ああ、お気になさらず。こちらこそよろしくお願いしますね」
相変わらずの粘着質な笑みだったが、もう慣れてきている自分がいた。
「それじゃあ失礼します」
「ああ、そうだ、大事なものを渡し忘れるところでした」
ドアを閉めようとしている俺に、葛西はこちらに向けて何かを差し出していた。訝しみながらも受け取ると、それはこのプールの割引券のようだった。
「このプールですが、旦那様の経営会社が運営していましたので」
まるで我が事のように誇らしく、葛西は自慢を口にする。
「……さいですか」
恩着せがましいその態度にこれも使うかどうか悩んだが、現金でないなら有り難く使わせてもらおう。一応貯金はまだまだあるが、絞れるところは絞っておいて損はない。
「では夕方頃また迎えに来ますので。ああ、ああ、時間が早まりましたらご連絡ください」
俺を追うようにわざわざ車外に出て格式ばったセリフを述べると、葛西はさっさと駐車場から出て行ってしまう。すれ違う間際、ガラス越しに開放感のある皺くちゃな笑顔が見えたがなんとも腹ただしい。
「クソジジイが……」
「おーい太一! なにやってるの!」
「……悪い! 今行く!」
痺れを切らした楓が大声で叫んでいる。葛西へ不信感を募らせるのもこのあたりでやめておこう。今日の目的は夏休みの思い出作りで、クソジジイへの怒りなんて今は忘れるべきだ。
陽炎が昇るレンガ敷きの地面を楓の元まで走る。焦らされたというのに、楓は怒りよりも楽しみの方が強いらしく、もう待ちきれないと俺の手を取った。
自分のよりも小さな手に握られるというのは、なんだか不思議な感覚だ。
「ほら、太一行くよ!」
トートバッグの中に入れていたのか、いつの間にか楓は麦わら帽子を被っている。
この耳抜きの麦わら帽子もワンピースと同じく俺の中ですっかり楓のイメージとして定着してしまった。
「……今日は楽しめるといいな」
「うん!」
元気よく返事をする楓は眩しくて、それに感化され俺の頬も自然と緩んでしまう。
先は決して長くないが、この夏休み中はできる限り笑って過ごして欲しい。
「さあ行こう!」
楓に力強く手を引かれるがまま、俺達は過剰なまでにファンシーな装飾をされた、入場ゲートをくぐるのだった。
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