8月8日
8月8日 その1
自動改札を抜け、指示されている出口から外に出ると、目も眩むような直射日光が俺に襲い掛かってきた。
そこから見えるプールまで往復するシャトルバスの列をスルーし、俺は日差し避けすらない車用のロータリーまで移動する。
「あっちぃ……」
ジリジリと自分の髪や耳が日差しに炙られているのを感じながら、顔すら上げれないまま俺はそんな文句を一人ぼっちでぼやくことしかできない。
全身から吹き出す汗をタオルで拭いながら、一昨日にかかってきた電話の内容を思い返す。
「最初はプールがいい!」
楓からかかってきた電話の口頭一番は、そんな欲求に忠実なものだった。
あの日、別れてから全く連絡が無かったので心配していたが、杞憂だったらしい。
そして特に予定の食い違いが起きるでもなく、隣町にある超大型プールへと行く運びとなった。移動手段もどうやらあの執事の葛西が車を出してくれるとのことだったのだが。
「……こねぇぞ」
集合時間から経つ事約十分、それっぽい車はどこにも見当たらない。
毛は剃っているが、いつもの癖で厚手の服を着ている俺の全身は既に汗でビシャビシャだ。
気がつけばシャトルバスはとっくに出発していたようで、さっきまで並んでいた人たちの影すらどこにもなく、それが更に苛立ちを加速させる。
「あのジジイすっぽかしやがったか……?」
さん付けで呼ぶ気もせず、並々ならぬ怒りを燃やしていると、車種はわからないが真っ黒で高級感のある車がロータリーへ入って来るのが見えた。
分かりやすい所に立っていたのですぐ気づいたらしく、車は丁寧な走りで俺の目の前まで来るとゆっくりと停止した。
開いた窓の奥に見えるのは、貼り付けたような笑顔の葛西だ。
「おはようございます里中様。暑かったでしょう、お乗りになってください」
汗一つかいてない涼し気な葛西の顔を見ると新たに殺意が沸いてきたが、車を出してもらっている以上多少の遅刻を責めるのはこちらが大人げないのかもしれない。
それに、一昨日の一件もある。
「……お邪魔します」
なのでここは折れることにした。楓がせっかく楽しみにしていた行事だ、始まる前にわざわざ空気を悪くすることもあるまい。背負ったリュックが少しだけ重くなったような気もしたが、それもまた錯覚だろう。
後部座席に体を滑り込ませると、既にテンションが高い楓が出迎えてくれた。
「太一! おはよう!」
「ああ、おはよう……」
それに適当に挨拶し、冷房の効いた車内の冷気が身体の火照りを打ち消してくれるのを待つ。
「汗凄いね。今日は真夏日らしいよ」
「通りで暑いわけだ。けど、これならプールに入ったら気持ちいいだろうな」
「うん!」
楓は家で準備してきていたのか、膨らんだビーチボールを胸に抱えて準備は万端だ。少しばかりはしゃぎすぎのような気もするが、初めてのプールならこんなものなのかもしれない。
「里中様、今日は何卒宜しくお願い致します」
未だ止まらない汗を拭う俺に、葛西が改めて声をかけてきた。
だがそれが普通の挨拶ではない事はこちらに向ける意味深な瞳で理解できた。
「こちらこそ、今日は車を出してもらってありがとうございます」
それに対し、わかっていますよとこちらもアイコンタクトで返す。
上手く伝わってくれたのか、葛西は満足そうに表情を綻ばせた。狸ジジイというのはこういうヤツの事を言うのだろう。
***
楓から電話がかかってきた日の夜、この葛西はなんの連絡も無く俺の家へとやってきた。
チャイムに呼ばれて玄関を開けると、妙に落ち着かなさそうな様子の執事が立っていたのだ。
「……里中太一様ですね?」
「……そうですけど」
「ああ、ああ、私、藤林家に仕えています葛西、と申します。立ち話もなんですし、こちらに車を置いていますのでそちらでお話ししましょう」
自分の家の玄関先に執事がいるという珍妙な光景に面食らっている暇も無く、葛西はこっちの意思も聞かないまま歩き出してしまう。誘拐されるんじゃないだろうな、なんてバカみたいな想像を膨らませるも、そんな訳ないとその後ろに続く。
「いやはや、旦那様と奥様が獣還りなされてからしょっちゅう家を抜け出されて、楓様には全く困ったものです。いくらお家問題から解放されたとは言え、最近の行動は目に余ります」
「はあ」
案内された車内で、葛西はハンカチで額の汗を拭いながら、楓へのフラストレーションを爆発させた。前置きも無くいきなりこれから始まったので、両親が獣還りしたという前提を俺が知らないという可能性は考えていなかったらしい。
「しかも同年代のお友達ならまだしも、里中様のような遊び盛りの年齢の方に懐く等、もし旦那様が未だ人の身であったなら叱責程度では済まなかったでしょう。そもそもそんなだから学校でも浮いてしまって――」
中身があるのかないのかわからない愚痴を聞いていると、俺の意思とは無関係に勝手に欠伸が込み上がってくる。それを必死に堪えていると、その空気を汲んだのか、葛西は急に佇まいを直し、咳払いを挟んだ。
「ですが今は旦那様も奥様もいらっしゃいません。私が世話役を仰せつかっていますが、一日に一回、一日に一回でも身の無事が確認できていればそれでよいのです。私が屋敷を去る一か月後まで、例え屋敷にいなくとも無事でさえあれば」
「……なるほど」
わざとらしい強調に、こちらも頷きで返しておく。
つまり自分が働いている間だけでも遊び相手になってくれればそれでいいと、この人は言いたいのだ。この様子だと楓の獣還りの兆候にすら気付いていないのだろう。
「お嬢様は里中様に大変懐いておられるようなので、里中様さえよろしければ一カ月ほどご贔屓にしていただけると――」
「わかりました。やります」
これ以上うざったらしい話を聞いていたくなかったので、食い気味に即答した。
するとご満足いただける返事だったようで、葛西はにんまりと悪い顔で笑う。
「ああ、ああ、左様でございますか。ではこちらを」
葛西さんは手早く上着の内ポケットから一枚の紙と封筒を取り出す。
紙には葛西と楓の連絡先が書いてあり、封筒の中には一万円札がざっと十枚以上入っていた。
普段なら間違いなく動揺する金額だが、妙に冷静なままそれを封筒の中に戻し葛西に問う。
「……これはなんですか?」
「遊ぶのならば色々と入用でしょう。バイト代の先払いのようなものです」
「……そうですね。有り難くいただいておきます」
「ああ、ああ、ご理解いただけてありがとうございます。では何卒よろしくお願い致します。この事は楓様にはご内密に」
心底嬉しそうに笑い、葛西はそのまま去って行った。
今もその封筒は手つかずのまま俺のリュックの中に入っている。
もちろん使うつもりは毛頭ないが、受け取らないと葛西はいつまでも俺を解放しようとしなかっただろう。
さっきのアイコンタクトの裏側はそういう事だ。
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