8月4日

8月4日 その1

 眠った時間が早かったからか、日はまだ完全に昇っていないというのに目が覚めてしまった。


 問答の答えが出ないまま眠りについたせいか、意識はハッキリとしているのに頭が重い。


 二度寝する気分でもなかったので、そのまま起きてキッチンへ降り、冷えた麦茶を飲むと多少は気が軽くなった。


 しかし、今日は十時に好美と夏休みの宿題を片付けるのを思い出し、こんな状態でそんな事本当にできるのかと、マシになりそうだった気分は再び深い所へ沈んでいく。


「宿題、何からやるかな……」


 まだ夏休みの宿題には一つも手を着けていない。

 夏休みが始まってすぐに祭りの準備に駆り出され、夏祭り本番、そして小町の獣還りと色々立て込んでいたので、今からでも場を設けないと絶対に終わらないのは俺もわかっている。けれど気が乗らないものは乗らないのだ。


「安請け合いするもんじゃないな、ほんと」


 溜息を漏らしつつリビングのカーテンを横に引くと、山並から小さく照らす太陽の光や、朝から元気な虫たちの声がいっぺんに俺の元へと飛び込んでくる。


「……散歩にでも行くか」


 元気を分けてもらうって訳じゃないけど、気晴らしぐらいにはなりそうだ。


 姉さんが起きて朝食の準備を始めるまでまだ一時間ぐらいはあるはず。


 腹は減っているが、なるべく家族全員で食卓を囲むってのが我が家のルールであり、勝手にどこかで朝食でも食べてこようものなら姉さんの機嫌を損ねかねない。


 早朝の散歩も随分久しぶりだな、なんて考えながらキッチンのドアに手をかけたのだが、その時俺は一つの事を思い出した。


「そういえば……」


 ドアノブから手を離し、リビングに置かれた棚へと向かう。その棚の中心に置かれた写真立て、そこに飾られた写真をまじまじと眺める。


 真っ白な犬だけが写ったそれは、常に目に入る場所にあるのに随分久しぶりに見たような気がする。実際、自分の視界から意図的に消していたのかもしれない。


 正直、母さんについて俺はほとんどの事を知らない。俺が生まれてすぐ犬になってしまい、物心つく前に死んでしまったからだ。人であった頃の写真は一応取ってあるが、それは父さんの部屋の収納に押し込められている。


「……行くか」


 何か声でもかけてみようかと思ったのだが、やめておいた。あの写真は確かに母さんだったモノの最後の写真かもしれないけど、母さん自身ではないと思ったからだ。


 洗面所で顔を洗って胸の毛が透けない厚手のポロシャツと短パンに着替えてから、音を立てないように玄関から忍び足で外に出る。


 夏の朝特有の湿気と熱気を肌に感じつつ、歩き慣れた道をあてもなく彷徨った。顔馴染みの爺さん婆さんたちと適当な挨拶をして擦れ違い、そこから更に歩いていたら気がつくと、通学路ではない道を進んでいたのに学校まで来てしまっていた。


 ここからだと植え込みに隠れてよく見えないが、既にグラウンドからは野球部の掛け声が聞こえてくる。喉が潰れた掛け声を聞きながら、いつまでもここに居たところで仕方がないと、歩いてきた道を再び辿る。


 そうして、神社の前まで戻ってきた時、足は自然と動きを止めていた。


 既に太陽は全身を見せ、初々しい朝日が鳥居を照らしている。まるで何も語らず、ただ堂々と佇む鳥居を見ていると、昔に姉さんと二人で爺ちゃんの所へ預けられた記憶が蘇ってきた。


 当時、とは言ってもまだ四、五年前ぐらいの話だが、夏休み中は父さんが仕事に出てしまうと子供だけで家に居なければならなくなり、それもどうかと爺ちゃんが俺達の面倒を引き受けてくれたのだ。


 今思えばそれも狙っていた節があるが、そうして俺と姉さんは朝から神社の掃除に駆り出され、そのまま一日を過ごしていたので、この太陽によって照らされる鳥居という光景は俺にとって数年前までは馴染みのあるものだった。


「……懐かしいな」

「何が懐かしいの?」

「うおおっ!?」


 感慨深くかつての日々を思い返していると、誰もいなかったはずの背後から急に声をかけられ、妙な声を上げてしまう。

 急いで振り返ると、目線の少し下に金色の耳が二つ揺れた。


「そんなにびっくりしなくても……。昨日ぶり、かな?」

「……楓」


 気まずそうに目線を逸らしながら、昨日と同じ服装の楓は頬を指でかいている。昨日逃げ出した手前もあり、俺はどう動くべきかわからない。謝るべきなのか、それとも追及するべきなのか、出会ってしまうとは思っていなかったので、何の答えも用意していなかった。


「あーっと、えと、だな」


 出てくるのはそんな意味のない呻きだけ。中身なんて全く篭ってはいない。

 そんな俺を見て、楓は俯きがちに麦わら帽子のつばをぎゅっと握りしめた。


「その、昨日はごめんなさい」

「あ、いや、……え?」

「ごめんなさい」


 何で楓が謝っているのかが理解できず、またしても間抜けな声を漏らしてしまう。

 逃げ出したのは俺のはずなのに、楓はまるで自分に落ち度があるといった風に、小さな体を更に小さく縮こまらせている。


「い、いや、楓は悪くない」


 その楓の行動に妙な居心地の悪さを覚え、すぐにその肩を掴んだ。掴んだ掌にはしっとりと汗をかいた肌が、異常なまでに震えているのも伝わってくる。


「その、昨日のは、俺が悪い。逃げたのは、俺のせいだ」

「……本当?」


 楓は必要以上にビクビクと、まるで俺が拳でも振り上げているように怯えていた。その脅威から逃れようとする為か、こちらを見上げる瞳には恐れと同時に媚びまでもが含まれている。


「……本当だ」


 それは本当に、死を間近に待つ同士に向ける瞳なのだろうか。

 本当は信頼だったり信愛だったり、同情や憐憫なんじゃないのか。


「俺も色々考えてる事とかあって、上手く言えないんだけど、これだけは言える」


 私もそうだから、と楓は言った。


 だったら、俺もそれに応えるべく真摯に向き合うべきだ。


「俺が逃げたのは楓のせいじゃない。これだけは本当だ」


 伝わってほしいと、しっかりと目を見て、楓のせいではないと断言をする。


 その誤解はあってはならないものなのだと。


「……本当に本当?」

「ああ、本当に本当だ」


 二度目の問いにも即答すると、楓はようやく信じてくれたのか、詰まらせていた息を吐き出し、胸を撫で下ろした。

 同時に、体を守るように巻かれていた尻尾も元に戻っていく。


「よかった。アタシが怒らせちゃったのかって……。変な事言ってごめんなさい」

「俺こそ昨日はその、逃げ出してすまなかった」

「ううん……怒ってなくてよかった」


 噛みしめるように、楓はよかったと表情を柔らかくする。

 純粋にそれが嬉しくて、俺の顔も同じく柔らかなものになる。

 けれど、お互いに和解しただけで終わりではない。


 楓には聞いておかなければならないことがあるからだ。


「そのさ、昨日言ってたアタシもってのは……」


 俺が逃げ出したきっかけとなった楓の言葉。あまりにも唐突すぎて考えが回っていなかったが、死んでしまうとは、言葉通りの意味で捉えるのなら致死性の病気が末期であるというのが普通だろう。俺のように獣還りをそう揶揄する人は多くない。


 だが、この藤林楓という少女は違う。


 ほぼ間違いなく、この子も獣還りを死と認識しているはずだ。


「そうだね、太一には話しておく。座れるところに行こ」


 楓は俺の言葉の意図を理解し、鳥居の奥に見える石段を指さした。


 今思えば、きっと祭りの夜からすべては始まっていたのだろう。


 この神社で起きた偶然の出会いから、きっと。

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