8月4日 その2

 昨日と同じようにジュースを買い、楓に渡してから隣に腰かける。


 朝からけっこうな距離を歩いたので冷たいお茶は一瞬にしてなくなってしまった。


 しかし俺とは違い、楓はジュースに一度だけ口をつけてから飲もうとしない。


「ジュース飲まないのか?」

「あーうん。ちょっと今はいいかな……。体冷えちゃってるし」

「今日はそんな寒いと思わないけどな」


 楓の家は遠いという話だが、電車は数が限られているし、近くに自転車が置いてある様子がない以上、ここまで歩いてきたのではないのだろうか。


 それに今日の気温は寒すぎず暑すぎずで、もう太陽は完全に顔を出している。しかし楓はまだ朝露の中にでもいるかのように、寒そうに両手で互いの腕を擦っていた。


 楓はそんな俺の視線に気づいたのか、自分の尻尾を胸に抱きよせてぽつりと呟いた。


「アタシ、昨日からずっとここにいるから」

「……はぁ!? お前なにやってんだよ!?」


 予想外の答えに、つい声を荒げてしまう。


 いくらこの街が田舎で、全国的に年々犯罪率が下がっているとしても、野外に女の子が一人居ていいはずもない。しかも夜の間中ずっと神社に一人きりだなんて、一体何を考えてるのか。


「まあ普通そう言われるよね……。自分でも何やってんだろって思ったし」


 自分の行動がおかしなものであると、楓は自嘲する。


「だったらなんで……」

「……なんか、全部うまくいかなくて色々やんなっちゃって」


 憂いを帯びた瞳は、あの祭りの時とは違い、人一人いない石畳へと注がれていた。

 全部、とは一体何の事を指しているのだろうか。


「……それって昨日の俺との事か?」

「ううん、祭りの前から」

「祭りの前から……」


 オウム返しした俺に、楓は視線を前に向けたまま、淡々とそれを口にした。


「アタシのパパとママ、祭りの一週間前に獣還りしちゃったの。それも二人揃って同時にね」

「……っ」


 それは楓の口から聞く、初めての彼女自身の話だった。


 両親が獣になってしまい子供が残されるというのは時々聞く話ではある。しかし、いざこうやって目の前にするとなんて声をかければいいのかわからない。獣還りを祝福する世界ならば尚更だ。


 しかし、楓はまるで辛い事でもあったかのように平坦な声を作ろうと努めているようだった。


「アタシの家けっこう大きくて執事とかメイドとかいたんだ。だから二人が獣還りする前から準備してて、その後も全然慌てなくて、身辺整理とかも全部その人たちがやってくれたんだ。そうやって、すごく広い屋敷にアタシ一人だけ残されたの」


 訥々と、楓の口から語られる話は、俺なんかが想像もつかない世界の話だった。

 屋敷とか執事とかメイドとかは正直突飛すぎたけど、祭りの時に実際に見ている以上嘘とは思えない。


「……それから?」


 話を促すと、楓は一呼吸おいて続きを話し始めた。


「それだけ、だよ。親戚が引き取ってくれる話とかもあったけど、結局それも無くなっちゃった。葛西が体裁があるからって一応屋敷に残ってくれたんだけど、でもそれもお給料の関係とかで来月まで。そうしたらアタシは本当に一人ぼっちになっちゃう」

「いや、それでも金があるからって一人じゃ生きていけないだろ?」

「ああうん。葛西が居なくなるのと同時に、アタシは同じような境遇の子たちが集まる施設に預けられることになるんだけど、ここでまた一つ問題が起きたの」


 そこまで話して、楓は俺の顔を見上げて口の端を指で持ち上げる。


 綺麗な歯並びの中に、一つだけ鋭利なものが生えていた。


 犬歯のある位置に生えているそれは、今は他の歯に紛れて分かり辛いが、やがて時間と共に太く硬くなるのだろう。


 まるで、動物の牙のように。


「……牙か」


 俺がそう言うと、楓は恥ずかしものを見せていたとでも言うようにパッと手を離す。


「そ。四月にようやく乳歯が全部抜けたと思ってたのに、大人の歯じゃなくてこんなのが生えてきちゃった。あ、葛西には言ってないよ。アイツ口だけで自分の事しか考えてないから」


 笑ってはいるが、それはとても力ないものだった。


 だが、これで俺も確信を持てる。


 楓の言う『死』とはやはり、獣還りの事なのだ。


「なあ、楓。どうして獣還りが死なんだ?」


 解ってしまった以上、訊かずにはいられない。

 どうして、楓が世界の認識を俺と同じくしたのかを。


「そうだね、ちゃんと説明しなきゃ」


 自らの尻尾を握る手に力が入っているのが見えたが、すべて吐き出すまで待つ事にした。


 本格的に始まった蝉時雨の中、再び楓の話に耳を傾ける。


「アタシのパパとママはすごく厳しくて、毎日家庭教師とか習い事とかで大変だった。時々叩かれたり酷い事も言われたりしたけど、でもアタシの事を思ってだって必死に我慢してた。そうしたらいきなり人の言葉がわからない動物になっちゃって、眼の前が真っ暗になったの」


 楓は無表情のままだったが、言葉の端々に処理しきれない感情が浮いて見える。怒りか愛情か、それすらまだ楓の中では消化しきれていないのだろう。


 ……俺が小町の現在を受け入れられていないように。


「パパもママも勝手すぎる。アタシは我慢したのに、アタシは頑張ったのに、一回も褒めないまま動物になっちゃった。そうしたらね、気付いちゃったの。二人がいたところにぽっかりと穴が開いたみたいだって」


 言葉も通じないから当然だよね、と楓は付け足して、こちらを向く。

 楓の表情は、先程のように感情が感じられないままだった。

 けれど、押し込められた感情は噴出する先を求めて暴れ、それは言葉に乗る事によって俺へと伝わってくる。


「それって、死ぬのと何か違うのかなって。その時に初めてそう思ったの」


 淡々と、それでいて激情を含んだまま、楓はこの世界そのものを否定する。


「何も違わないさ。獣還りは……死だ」


 その強い意思に応えるように、目は逸らさず確かな肯定で返す。するとこんな哀しくて物騒な話をしているというのに、楓は嬉しそうに顔を綻ばせた。


「そうだよね。だから、アタシももうすぐ死ぬの。家族も未来も全部なくなって、そうしてアタシは忘れられていく。それが、そんなことが幸せな事だなんて、アタシは思わない」


 軽い口調とは裏腹の内容は、けして笑顔で語るような事ではない。


 世界と神様の否定。聞く人によっては殺されてもおかしくない反社会的な思想。


 けれど、


「……そうだ。それは、幸せなんかじゃない」


 けれど俺は、目の前でこの世界全てに憤る少女に対して、何よりも同調し、同情した。

 誰にも理解されないと思っていた獣還りに対しての不信感を、この女の子は持っている。


 それが、今の彼女を取り巻く凄惨な話を聞いたその上で、なお嬉しかったのだ。


「やっぱり、正解だった」


 噛みしめるように、楓は祭りの時のようにその言葉を口にした。


 今となってはその物言いも理解できる。

 もうすぐ死を迎える俺に声をかけて、尚且つ自分の価値観と同じものを持っていたとしたら、それは間違いなく正解だろうから。


「……ん?」


 けれど、そうなると一つの疑問が浮かび上がってくる。


「どうしたの太一?」

「いや、そういえば昨日さ、獣還りするヤツが分かるって言ってたよな? 間違いじゃなかったけど、そういう力を手に入れた人がいるなんて話は聞いた事がなくてさ」

「ああ、アレは嘘だよ。まさか信じてたの?」

「……嘘?」


 あっけらかんとネタばらしされ、肩の力が抜けていく。

 実際、楓は俺に獣還りが迫っている事を言い当てた。だから人によってはそういう変化も訪れるものだと思っていたのだが、違っていたらしい。


「……じゃあなんでわかったんだよ」

「階段の上から服の隙間が見えて、そこに動物の毛が生えてたから。男の人が獣還りするって時はそういうの見せる人が多いって聞くし、もしかしてって思ったの」

「……今度からちゃんとボタンは閉めるようにするわ」


 本当に迂闊としか言いようのない自分の落ち度に頭が痛い。見られたのが楓だったからよかったものの、これが好美だったらと考えるだけで肝が冷える。


「そんなに落ち込まなくても……。アレが無かったらアタシ達が出会ってなかったんだから結果オーライじゃない?」

「いやまあそうなんだけど、マジで気をつけよ……」

「あ、でも見えてなくてもタコ焼きが気になってたから声はかけてたよきっと。あの時一時間ぐらい歩いた後で本当にお腹空いてたから倒れそうだったし、半分ヤケクソだったもん」


 楓の声色に元気が戻ってくる。あの祭りの喧騒を思い出しているのだろう。

 楓はすっかり調子づいて何が美味しかったとか、やっぱりリンゴ飴はあんまり好きじゃないとか、花火は写真で見るより何倍も綺麗だったとか好き放題に感想を言った後、ふうと小さく溜息をついた。


 じわじわと上がる気温に、伴うようにして動き出す街並み。


 そこに生じるほんの僅かな静けさの中、楓はゆっくりと口を開く。


「太一はさ、あとどれぐらいなの?」

「たぶんだけど今月末には、もう」

「そっか。アタシも同じぐらい。お揃いだね」

「……ああ、お揃いだ」


 楓は小さな頭を傾けてこちらの肩へと預けてくる。耳の間の頭頂部をマッサージするように撫でてやると、楓は心地よさそうに頬を緩ませた。


「もし声をかけたのがヤバい奴だったらどうするつもりだったんだ?」

「どうでも。言ったでしょ。ヤケクソの時にそういう事をしたんだから」

「……気持ちはわからないでもないけど、今後はもうこんな事するなよ」

「わかってる。理解してくれる人がいるなら、それだけでいいから」


 俺達はそのまま朝の時の流れに身を任せ、ゆったりとした時間を過ごした。

 交わす言葉に意味なんて無く、時間を浪費するだけ。

 あれだけ恐れていた時間の浪費は、今この時だけは何よりも有意義なものになっていた。


「何か最後にやりたい事とかないの? お酒とかタバコとか、女の子と遊ぶとか」

「不思議とねぇんだよな。俺の周りは誰も酒とかタバコやってないし」

「太一は大人なんだね。男の人って皆そういうの好きだと思ってた」

「大人じゃないさ。だから諦められない。そういう問題じゃない気もするけど」


 大人じゃないから、と楓は噛みしめるように小声で反芻した。


 俺達は大人じゃない。この問題においては大人も子供も関係ないけど、だからと言って割り切れる問題ではないのだ。子供だからと言い訳させてもらえるだけマシなのかもしれない。


「……」


 どこからか聞こえてくるラジオ体操、子供の笑い声、車の音、それらにつられるように顔を上げる。世界はやはり俺達を待ってはくれないのだと改めて実感した。


「ねえ太一、アタシはやりたい事たくさんあるよ」


 その中で、まるで俺の内心を見透かしたかのように、楓は前向きな声を上げる。


 軽くて小さな頭が離れ、俺の腕を金色の髪が撫でる。


「……楓?」

「アタシはね、やりたい事いっぱいいっぱいあるよ!」


 立ち上がった楓は、その勢いのまま大きく両手を広げる。


 その動きに合わせて金髪がふわりと舞い、あの祭りの時よりも眩い光を辺りに振りまく。


「プールにキャンプに花火に海! あともう一回お祭りに行きたい! 本当はかまくらも作りたいし雪合戦だってやりたいけど、冬まで生きてられないからそれだけでもやってみたい!」


 ほんのささやかな望みと、そのはにかんだ顔が、俺の中で小町の面影を孕む。


 一瞬だけ、眼の前の金色が銀色であるかのように錯覚してしまう。


「よし、それじゃあもしアタシがフラれるような事があったらちゃんと慰めてよね」


 頭の中に響くのは、もう帰ってこない幼馴染の在りし日の声。

 もう小町はあの日の出来事を誰にも語ることはできない。

 死者の墓を暴こうとする以外に、それを知り得る方法はないのだ。


「死ぬ前に、最後のわがままぐらい許されるよね」


 だからだろうか、今度こそは最後まで見届けなければならないと、目を離してはいけないと直感が告げる。


 最後まで、そう、最期まで見届ける事ができれば、この無力感や、いつまでも正解の見えない悩みにも答えが出るのではないかと、


「……それ、俺が手伝ってもいいか?」


 縋りつくように、楓にそう提案していた。


「え?」

「いや、だってほら、楓ぐらいの年だと一人じゃ色々不便だろ? 祭りのある場所とかキャンプ場とか知らないだろうし、一人じゃ寂しいぞ」


 自分の浅ましさを隠すように、口早に楓にそう提案する。


 こちらに振り返った時、既に銀色の面影は消え去っていたが、未だ金色は燦然と輝きながら残っている。その輝きを消させまいと、俺は言葉を紡いだ。


「それに俺も思い出が欲しいんだ。最後の夏だし、どうせならいつもと違う事がしたい」

「それ、本当? アタシ小学生だよ? アタシは一緒に居て楽しいだろうけど太一は……」

「俺も楽しい。今だってそうじゃなきゃずっとここにいない」

「……本当?」

「本当だ。またお祭りに行こう」


 いつの間にか俺は笑っていた。


 それが楓を安心させる為か、それとも自分の内に秘めたモノを隠す為なのかは判別がつかない。けれど思い出が欲しいのも、楓と居て楽しいのも、そのどちらも嘘ではない。


「……そっか」


 今は対等な視線の先、疑うように細められていた目が、静かに閉じられる。

 突然の申し出に驚いているのか、楓の返事はすぐには返ってこない。


「お祭り、次はいつあるかな」


 けれどその代わりに、楓は優しげに微笑んで、そんな事を聞いてきた。


「……この辺だとでかい祭りは月末だな。小さいのは途中にいくつかあるだろうけど」


 いきなりの質問に驚きながらも、毎年足を運んでいる夏祭りの存在を思い出す。

 隣町で毎年行われる夏祭りは、駅を中心として出店が広がり、この神社で行われた祭りの規模の何倍も大きいものだ。


「月末、うん。お祭り、お祭りだ」


 祭り、という単語を噛みしめるように、楓は目を閉じたまま呟きを重ねる。


 俺には計り知れないその言葉の重みは、自然と俺の口を閉ざす。


 再び蝉時雨に空間が支配され、向かい合ったまま数分の時が流れた。


「ねえ太一」

「なんだ?」


 ゆっくりと、楓は口と同時に瞳を開く。


「本当に、アタシと一緒に遊んでくれる? 先に居なくなったりしない?」


 どこかが壊れてしまったかのように、楓は軽い口調のまま、さっきまでの俺のように縋っていた。そして同時にその瞳は、楓の中の強い感情を俺へと伝えてくる。


 もう、あんな想いをするのは嫌なのだと。


「やろう」


 その感情に突き動かされるように、俺はそれを肯定する。


「キャンプも花火も、海だってプールだって行こう。祭りも二人で一緒にだ」


 決して嘘はないと、目を逸らさずにはっきりと断言した。そんな俺を、楓はどこか遠い所を見ているような、極めて薄い表情で眺めている。


 蝉時雨が遠のき、木々のざわめきが静まる。


 すうっと息を吸い込んだ楓は、


「……ああ、よかった」


 そんな、しみじみと、本心から安堵しているであろう声で、胸を撫で下ろした。


 様々な感情が入り乱れたその顔は今にも泣き出しそうで、どれだけこの子は世界に一人きりだったのだろうと、ぶつけどころのない憤りが湧いてくる。けれど、こんな俺でもほんの僅かでも肩代わりができるのであれば、それ以上のことはない。


 打算が無かったとしても、楓をこのまま放っておく事なんてできなかっただろうから。


「契約成立、だな」

「うん、そうだね。あぁ、よかった」


 内心ずっと不安だったのだろう、楓は何度も何度もよかったと口にし、俺の隣に戻ってくる足取りすらおぼつかない。急にどうしたというのだろう。


「おい、大丈夫か?」

「あー、うん、大丈夫だいじょ、うわっ!」

「っと!」


 危なげだった足の運びは案の定絡まって、楓は体当たりでもしようかという勢いで俺の胸へと飛び込んできた。咄嗟に受け止めた体は細くて薄く、そして想像以上に軽かった。


「あはは、ごめん限界みたい。実は夜の神社が怖くて全然寝てなくて、ちょっと寝ていい?」

「あのなぁ……」


 更なる悪行を暴露し、楓は力無く笑った。さっきのやり取りで緊張の糸が切れたのだろう、ぐったりと体重を預けたまま、楓はそのまま目を閉じた。


「明日からは、楽しくなるよね?」


 そうであればいいと、願いの篭った声の振動が、俺の体を通して伝わってくる。


「ああ、きっと楽しくなるさ」

「だよね、うん、楽しくなる、と――」


 先にあるであろうどんな楽しみを想像したのか、その声は何よりも楽し気で。


「すぅ、すぅ……」

 安心しきったせいか、楓は言葉の途中で寝息を立て始めた。一人で夜の神社にいるなんて俺ですら背筋が冷たくなるだろうに、よく一人で耐えれたものだ。それだけあの祭りの日が、自分と価値観を同じくしている人間が恋しかったのだろう。


「いい夏休みになるといいな」

「……えへ」


 返事でもしたのか、間抜けな声と共に楓は幸せそうに笑っている。


 そのままむにゃむにゃと意味不明な続きを吐いて、楓は大人しくなった。


 遠のいていた時間が、風が、再び動き始める。


 それは奔流となって、まるで俺達を中心として広がっているかのように、或いは、取り残された世界に俺達が戻ってきたかのように、見える世界に音を取り戻させた。


 ようやく、夏休みが始まる。

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