8月3日 その3
「お前は自分が信じたいものは自分だけで決めるんだぞ」
セミの声、スイカの味、縁側を照らす太陽。あの時の爺ちゃんはとても力強くて、眩しくて、俺はそれに憧れた。
けれど実際のところはどうだ。あんな小さな女の子が自分の目の前で死ぬかもしれない、世界から消えてしまうかもしれない。そんな現実が怖くて俺はあの場から全力で逃げ出した。
知り合いが目の前からいなくなることか、それとも同じ症状に苦しめられる自分を重ねてしまったのかまではわからないけど、とにかく怖かったのだ。
「たーくんご飯は~?」
ドアの向こう側から姉さんの心配そうな声が聞こえる。いつの間にか日は暮れてカーテンの外も暗くなっていた。だがそれに返事をする気力もなく、俺はベッドの上でただ息を潜める。
姉さんはしばらくドアの外で様子を伺っているようだったが、出てこないと諦めがついたのか、しばらくすると重苦しい足取りで一階へと降りて行った。
「あれ、太一は?」
「なんだか調子が悪いみたい~」
父さんとの蚊の鳴くようなボリュームの会話が微かに聞こえてくる。そこまで確認して、ようやく止めていた息を吐き出した。
今は誰とも会いたくない。それこそ小町の時のように上手く表面上だけでも繕えればいいのだが、それすらできそうもなかった。
「獣還りか……」
真っ暗な部屋でまだ人である自分の掌を掲げて、これが俺の場合犬の手になるのだから不思議なものだと改めて思う。手だけでなく、脚も体も、そして頭の中でさえも。
それは言葉にできないぐらい、俺にとっては恐怖でしかない。
「小町はどんな気分だったんだろうな……」
既に人の枠から外れた幼馴染の顔を思い描く。うるさくて暴力的で、色気も無ければ恋も愛も知らないと思っていた。
けれど最後に会った小町は浴衣を着て柄にもなくめかしこんでいて、まるで自分の最期を華々しく飾ろうとしているかのように、笑ってはしゃいで、そして静かに消えて行った。
例の告白の結果は好美にも聞けていないが、上手くできていたことを祈ろう。
それが叶っていたとすれば、小町はこの世に自分の爪痕を残せていたのだから。
「俺は残せるのかな、爺ちゃん」
今の苦しみは、斜に構えて何事も真剣にやらなかったツケなのだとようやく俺は理解した。
けれど一カ月も残されていない今更になって、自分の存在が無くなってしまう事の恐ろしさに気付かされても、俺には跡を残せる爪も、誰かの心に食らいつき続ける牙も研がれていない。
小町も楓も、どうしてあんな表情ができたのだろう。
達観したようでいて、未練に塗れたあんな物悲しい諦めの表情を。
「わかんねぇ……」
いくら考えてもその答えが出てくることはなく、暗闇の中で横たえた体はいつの間にか眠りに就こうとしていた。
小町の物憂げな自嘲も、楓の儚げな笑顔も、諦め以外の何かを奥に潜ませている。
きっとそれが俺には無くて、だからどんなに悩んでもその正体がわからない。
あるいは、二人はそれを俺に対して伝えてくれようとしているのではないか。
そんな気にこそなるも、それは正体を掴むより早くやせ細って消えてしまい、この辛い現実から逃げ出すように、俺の意識は暗闇と混ざってドロドロに溶け、あっという間に次の朝が来るのだった。
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