8月3日 その2
晴れない気分のまま登校日のイベントを適当にこなしていると、半ドンなのもあっていつの間にか放課後になっていた。
呆けたまま椅子に座っていると、好美が軽そうなバッグを肩にかけこちらまでやってくる。
「あれ、帰らないの? 補習とかあったっけ」
あらかたクラスメイト達からの詮索は終わったのか、俺に尋ねる好美のテンションはいつも通りに戻っていた。
「……いや、帰る」
手短に答え、机の横にかけたバッグを手に引っかけて立ち上がる。
好美と並んで教室の出口に向かう途中、小町の机が嫌でも目に入ってきた。
大小様々な贈り物が増え、朝には白が多かった色紙もカラフルなペンで鮮やかに彩られている。それを見て俺はなんとも許容しがたい気持ちになった。
けれど、その感情を俺は見なかった事に、気付かなかった事にする。
ここでいくら怒鳴り散らしても、一から十まで俺の気持ちを説明しても、それはきっと誰の心にも届くことはないからだ。
その気分は外に出ても変わらず、むしろ刺すような日差しと蒸した空気のせいで、より一層気分が悪い。俺の欝々とした気分とは対照的に、今日も見事な夏空だ。
「そういえば、小町が最後にありがとうって言ってたよ。変だよね、遠くに行くわけでもないし、死ぬわけじゃないのに、変なの」
そんな俺の気分なんて知る由もなく、好美は伝言を預かってきたぐらいの軽さで小町の最期の言葉を口にした。それに対して俺は何というべきか悩んだ挙句、
「……そうだな。アイツはまだ生きてる」
やるせない気持ちを抑え込み、嘘をついた。
「だよね。これから小町の散歩に行くんだー」
俺の言葉が嘘なのだと全く疑わずに、好美は小町に首輪を買ったのだと嬉しそうに語っている。人は首輪なんてつけて散歩はしないのだと、喉元まで出かかった言葉を必死に飲み込む。
「あ、そういえば小町が獣還りする瞬間って話してなかったよね?」
「……いいよ別に」
「遠慮しなくていいよ。それでね――」
俺の力ない拒否は棄却され、好美は嬉しそうに小町の最後の瞬間を語り始める。
肉は裂け、骨が砕け、人が獣へと変貌するその様を。
好美から語られる凄惨な出来事の数々は聞いているだけで頭が痛くなる。
だが、好美の嬉々とした様子から、自分の感性が間違っているのだと改めて認識させられ、俺は全くそうは思っていないのに口は勝手に肯定するような言葉を吐いていた。
それが一段落しても好美のよく回る舌は止まらない。
途中から隠していたようだが、気分は朝から昂ったままなのだろう。
「そういえば小町の家、太一も来る? きっと小町喜ぶよ」
「また顔をベチャベチャにされるのは嫌だから遠慮しておく」
「小町は前から太一と一緒にいると楽しそうだったからね」
「そうか? いっつも喧嘩ばかりしてたような。あ、そういや今日の集会さぁ――」
これが好機だと、俺は獣還りの話からなんてことない世間話に話をすり替えた。
長い長い下り坂は、まだ昼だというのに仕事熱心な太陽に晒されて湯立ち、陽炎を立ち上らせる。だからこの真夏の暑さに乗じて、さっきの不快感を忘れようと俺は世間話に没頭した。
夏休みの宿題はどこまで進んだとか、今日の田中先生は夏バテでやつれていたとか、そんなどうでもいい内容。
そうやって帰宅までの時間を潰していると、辺りの風景はいつの間にか住宅街へと移り変わり、爺ちゃんの神社の前までさしかかっていた。
小町の家はここから曲がった先にあり、好美とはここでお別れだ。
「んじゃ、また」
「うん、またね」
歩きながら適当な挨拶を交わし、俺達は別れる。
「……小町の家、か」
ふと立ち止まり、好美が歩く道の先を見上げる。緩やかな上り坂の途中、今まで何度も遊びに行ったことのある小町の家が小さく視認できた。そこへ向かう好美の足取りは軽く、それがまた俺の無力感を強くする。
そうやって小さな背中を見送っていると、俺の視線に気がついたのか好美が不思議そうな顔をして振り返った。
「どうかした?」
「いや、なんでもない。散歩気を付けろよな」
「うん……? あ、そういえば明日暇?」
好美は急に何かを思い出したのか、焦ったように俺に予定を聞いてきた。
明日は丸一日予定はないが、何かあるのだろうか。
「暇だけど、なんかあんのか?」
「そういうわけじゃないんだけどね、夏休みの宿題二人で片付けちゃわない? どうせ私も太一も最後まで残しちゃうだろうし」
「ああ、そういうことか。いいよ、どうせならある程度片付けちまおうぜ」
「やった。じゃあ明日十時ぐらいに太一の家ね。それじゃ」
特に断る理由もなく、その申し出は願ったり叶ったりだったので、俺は考えるまでもなくその誘いを受けた。すると好美は笑顔で小さくガッツポーズをとり、一方的に予定を告げると背を向けて歩き出す。
「……俺も帰るか」
今日はなんだかやけに疲れてしまった。とりあえず家に帰って昼飯食べてゴロゴロするか。
別に宿題なんかやらなくてもいいのだけど、普段通りの日常に埋没して、そうやって気を紛らわせていないと、いつか気が狂ってしまいそうな気がして怖いのだ。
「ん?」
そうやって何かから逃げるように歩き出した視界の端に、金色の光が揺れたような気がした。咄嗟にそちらに視線を向けるがそこには誰もおらず、朱色の鳥居が悠然とそびえる神社の入り口があるだけだった。
「楓……?」
まさかと思いながらも、僅かに残る金色の残滓に導かれるように、俺の足は自然と神社へと戻る。まだ祭りから日が浅いので綺麗なままの鳥居を抜け、石畳の上を歩く。
ジージーとうるさいセミが近くの木で鳴き、生温い風が頬を撫でる。
「ふんふんふふんふーん」
そのセミの鳴き声に紛れるように、どこかから調子はずれな鼻歌が聞こえてくる。汗を拭う手を止め、声が聞こえた石段の上を見上げた。
そこには太陽にも負けず光り輝く金色の髪が、木々の枝と動きを同じくして風に舞っていた。
「ふんふんふふんふーん」
日光を遮るものがない石段の上に、彼女は座っていた。
何をするでもなく、ただ真正面を見つめて鼻歌を歌っている姿は五日前と何も変わらない。
違うところがあるとすれば、今日は耳抜き穴のある麦わら帽子を被っているぐらいか。
「何か面白いものでもあるのか?」
石段の下から声をかけると、ようやく人がいることに気付いたのか、楓は鼻歌を止め、しばらく目をパチクリとさせる。
「……太一?」
思い出すように、あるいは確かめるように、楓は俺を呼んだ。
何故だか、それだけでさっきまでの薄暗い気持ちは吹き飛び、自然と笑顔になっていた。
「ああ、一週間ぶりだな。こんなところに居たんじゃ熱中症になっちまうぞ」
照り返しの暑さに辟易しながら石段を上る。太陽はちょうど空の真ん中にあって、まだ昼過ぎだが十二分に気温は高くなっていた。そんな中ではいくら帽子を被っていたとしても、体調を崩しかねない。
「……そうだね。そういえば暑いや」
しかし当の楓は汗一つかいておらず、涼しい顔をしてそんな事を言う。まるで本当に暑さなんか忘れてしまっていたような、どこか他人事みたいな顔をしていた。
「何だよそれ。ほら、ジュース買ってやるから日影のある所行くぞ」
「……うん」
心ここにあらずな返事にどこか肩透かしな感じが否めなかったが、そのまま楓を引き連れて神社の外にある自販機でジュースを選ばせ、日影の中にある境内のベンチに戻った。
この暑さも日影の中で時折そよぐ風さえあればあまり気にならない。少なくとも石段の上で日照りのままよりは数段マシだ。
「そういえば、あの焼きそばとか全部食いきったか?」
「ぷはぁ! 美味しかったよ。ありがとう。葛西もお礼言ってた」
暑さついでに喉の渇きも忘れていたのだろう、缶ジュースを一気に飲み干し、楓は頷く。
「葛西ってあの執事の人か。時間も遅かったからだいぶ心配してたみたいだし、あの後たっぷり怒られただろ」
子供の時に起こられた時の事を思い出して、茶化してみる。
楓と同年代ぐらいの時は怒られた後も誰かに分かって欲しくて、分かった顔で相談に乗ってくれる相手がいると安心したからだ。
俺の場合は会長さんにはよくお世話になっていた。
しかし、食いついて来るとばかり思っていた予想とは違い、楓は俺の方を見ないまま、手の中で汗をかいたジュースの缶を弄びながら、
「……別に」
少し間を空けて、明らかに何かがあった様子でつまらなさそうに答えた。
一週間前に踏み込めなかった領域を侵した自覚はあったが、拒絶とも受容とも取れない曖昧な返事だったのでこちらも返す言葉がなくなってしまう。
気まずい沈黙になるかと思ったが、祭りの前にここで会長さんと話していた時と変わらず、木漏れ日がちらちらと紋様を変え、枝葉の囁きがこの空間を上手く誤魔化してくれている。
それに甘えるように、俺は自分のジュースで乾いていた口内を潤す。
何と切り出したものかと悩んでいると、楓が小さく息を吐いた。
「やっぱり、太一で正解だったね」
楓は俯きがちな姿勢のまま、どこか寂しげに笑っていた。呟きに等しい小さな声だったのに、凛とした楓の声は蝉時雨の中でもよく通り、聞き漏らさずに俺の耳へと飛び込んでくる。
「正解って……」
祭りの日にも楓は同じような事を言っていた記憶がある。石段に腰かけ、屋台の食事に舌鼓を打ちながらそんな事を言っていたのではなかったか。
「正解は正解だよ太一」
寂しげなまま、しかしどこか儚な気に楓は俺に微笑みかけた。
その表情が、小町と二人で会話した最後の記憶と影を重ねて、無性に胸が苦しくなる。
そんな俺に、楓はゆっくりと、聞き漏らす事がないよう、はっきりとこう言った。
「太一、そろそろ死んじゃうでしょ?」
どれだけセミが騒ごうと、風が木々をざわめかせようと、その声を阻むものはなかった。
体が熱くなり、鼓動が耳を打つ。何故、という疑問を口にするより早く、楓は言葉を続ける。
「耳と尻尾はあるけど、爪と牙は伸びてない。けど、これで三つだよね」
「ッ!?」
それは、誰にも知られていないはずの秘密だったはずだ。
服の下に隠した、誰にも知られてはいけない秘密。
「どれぐらいまで進んでるかは知らないけど、長くはないよね」
それに、今楓は死ぬと言った。
獣還りではなく、それは死なのだと。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
予想だにしない事態に声を荒げても楓は表情を崩さない。言葉には出さないが、その瞳には同情が色濃く映っている。
針のような毛が内側へ皮膚を突き破ったみたいに、胸が痛い。
鼓動も早く、うまく息を吸えなくて頭がクラクラしてくる。
「その反応だと間違いじゃなかったんだね。間違ってた方がよかったんだけど」
「だから、ちょっと待て。なんで、なんで……」
俺の言葉の先を理解したのか、楓はゆるゆると頭を横に振った。
金色の髪が木漏れ日に当てられ、祭りの夜とは違った輝きを見せた。
「アタシね、もうすぐ死んじゃう人がなんとなくわかるんだ。お祭りの時に太一に声をかけたのも、あの中で死んじゃいそうなのは太一だけだったから」
人混みの中で偶然知り合いを見つけた、そんな軽さで語っていいものではない。
けれど楓は失われた俺の声に先んじて、あの夏空の下で儚げだった小町より、もっと力無く、今すぐにも消えてしまいそうなか弱さで笑った。
「アタシも、そうだから」
そんな、とてつもなく残酷な告白をしながら。
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