8月3日
8月3日 その1
小町が犬に還ってしまってから一週間が経つが、世界は何も変わらない。
登校日の通学路には俺以外にも学生の姿をちらほら見るが、皆それぞれ耳や尾を持っているのにも関わらず、いつ獣還りが自分の身に降りかかるかもわからない現実と、うまく折り合いをつけて生きている。
獣還りは決して死ではなく、新たな生の始まりなのだと。
「はよーっす」
クラスメイト達に挨拶をして自分の席に座ると、視線は勝手に小町の席へと向いてしまう。
先に教室に来ていたヤツらが置いたのだろう、小町の机の上にはアイツが好きだったお菓子や雑誌、花がたくさん置いてあった。
獣還りをした就学中の生徒がこうやって祝われるのは今まで何度も見てきたが、慣れるもんじゃあない。
しかも今回は家族みたいなヤツがその対象になっているから尚更だ。
「……ん?」
その積み重なった物の中に紛れて、何やら白い板のようなものが見えた。
近づいて確認すると、それは大方の予想通り、転校する生徒や卒業する先輩に送るような寄せ書き用の色紙だった。まだ少ないが小町への祝福の言葉が書き連ねられている。
あまりの悪趣味さに思わずそれを放り、逃げるように自分の席へと戻った。
「里中おはよ、って……お前顔色ヤバいぞ? どうした?」
机にほとんど突っ伏している俺へと、山郷が声をかけてくる。
正直、山郷にも会いたくはなかった。
「……ああ。ちょっと体調悪くてな」
「いや、マジで土気色してるぞ。無理すんなよ」
「……悪い、少し寝るわ」
心配してくれる山郷との会話を一方的に打ち切り、机に突っ伏した。こいつは小町の事が好きだったはずなのに、その手にはさっき俺が放り投げた色紙が握られていた。
好きだったんじゃないのか。この夏休みの間に仲を深めようとしようとしたんじゃないのか。
そうやって問い詰めるのは容易だ。
けれど、その答えは絶対に俺が望んでいる答えではないのを知っている。
「獣還りねぇ。俺もいつ獣になっちゃうかわかんないし、もっと人生楽しむか」
「ウチも! ねぇそれなら来週海とか行こうよ! 皆誘ってさ!」
「そうだな! 千和の分まで遊んでやらねぇと!」
いくら塞ぎこんでいても、狭い教室では小町の話題は勝手に耳に飛び込んでくる。
千和小町という人間はこの世からいなくなり、代わりにその場所に一匹の犬が納まった。
その事実は共通認識なのに、人がいなくなっているのに、何故それを肯定的に捉えられるのかが俺にはわからない。
今にして思えば、小町があれだけ熱心に海だの祭りだのと駆けまわっていたのは、自分がもう長くないことを理解していたのだ。
先がない現実を小町がどう捉えていたのかはわからないが、人であるうちにやっておきたい事をやったのだろう。獣還りの事も、もしかしたら好美は聞いていたのかもしれない。
俺も小町のように近いうちに獣に還るだろう。けれど、それはあまりにも現実味がなくて、それは死と同義ではないかという俺の考えは誰にも理解してもらえない。
アイツは最後までにちゃんと折り合いをつけられたのだろうか。
しかし、いくらその謎を紐解こうとしたところで、それはもう誰にも確かめる事はできない。
「……やっぱり、この世界はおかしい」
突然消失したクラスメイトを祝っている空気の中、悼む気持ちで一人そう呟いても何かが起きるなんてことはなく、自分の胸が締め付けられるだけだった。
それがまるで痛みでも持っているかのように、俺はまた自分の胸に手を当てる。
少しずつ範囲が広がってきた毛は、今朝には腹部にまで到達しようとしていた。このスピードで広がっていくのなら、あと一カ月もしないうちに俺は立派な犬になっているはずだ。
「こりゃ小町は大変だったろうな」
小町の体には耳と尻尾こそあったものの、爪や牙はまだ伸びきっていなかった。ということは服の下に体毛を隠していたはずだ。さぞ処理に追われていたことだろう。
獣還りと言えど、さすがに体毛を見られるのは恥ずかしい女性は少なくないと聞く。
スーパーで小町と出会ったあの時、どこか恥ずかしそうにカーディガンを着ていたのにはそういう理由があったのだ。
「おはよー」
そんなことを考えていると、好美が教室に入ってくる。あの日以来好美との接触を避けていた俺はそのまま寝たふりを続けた。
「あ、栗林! 千和の事詳しく教えてくれよ!」
「なあ、あのサイズがどうやって変質したんだ? 俺見た事なくてさ!」
好美が小町の獣還りの瞬間を見たというのは既にクラス内では周知されていたらしく、我先に話を聞こうと、好美の周りにはあっという間に人だかりができた。
「あっと、まずはバッグ置いてからね。小町が獣還りした時はばっちり覚えてるから」
いつもの好美ならその迫力に圧倒されるだろうが、今回ばかりは雄弁にその時の事を語り始める。
それは予鈴が鳴り先生が教室に入ってくるまで、聴衆共々大興奮のまま続いたのだった
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