7月29日 その5

 最後の花火はとても大きく、花火大会の締めくくりとしては相応しいものだった。


 余韻に浸っていると年代物のスピーカーから響く声で花火大会の終了が告げられ、周りの観客たちは思い思いのタイミングで立ち上がり、祭りを後にしていく。


「なんだ、もう終わっちゃうんだ……」


 自分の顔よりも大きい袋からベビーカステラを小さな手で掴み取り、楓は名残惜しそうにそう漏らした。いつだって祭りの終わりは寂しいものだが、目の前でこうも残念そうにされるとこちらまで終わってほしくないと願ってしまいそうになる。


「……今回は終わりってだけだろ。また次があるさ」

「……そうだね。次もある」


 口ではそう言っているものの楓の表情は優れないままだ。


 どうにかしてやりたいが祭りの延長なんて俺の力だけではどうしようもない。

 ならばせめてあと少し雰囲気だけでも引き延ばしてやろうと、俺は余っている屋台の飯を纏めたビニールを楓の方へ押しやった。


「それが残ってる限りまだ祭りは終わりじゃないだろ。大事に食えよ?」


 少しキザったらしい言い回しだったかもしれない。案の定楓は目を丸くしている。


「……いいの?」

「いいも何も、これは全部お前が欲しいって買ったやつだろ」

「……お金は返せないよ」

「返さなくていいよ。親御さんに会ったら売れ残りもらったって言っとけ」


 そう言って立ち上がりズボンについた土埃を払う。

 周囲の人々が石段を下る背中を見て、ようやく祭りは終わったのだと実感する。落ち始めた照明を見て感慨に耽りそうになったが、そこで俺は一つ見落としている事があると気付いた。


「そういえば、楓は一人で帰れるのか? さすがにこの時間に一人はまずいだろ」


 日中ならまだしも、よくよく考えたら夜九時を回ったこの時間に小学生を一人で帰らせる訳にはいかない。最悪俺が家まで送って行けばいいが、それでも十時を過ぎるとこちらまで補導されてしまう。


 だが、俺の心配をよそに楓は特に動揺した様子も無く、優雅にお茶を飲んでいた。


「おい楓……」

「迎えが来たみたいだし、大丈夫」

「迎え?」


 家も遠いし両親とも来ていないと言っていたのに迎えが来るとはどういう事だろう。


 それに迎えが来たとは言うが、楓の声は弾んでいるわけではなく、むしろ暗く沈んでいた。


「ほら、あそこに怪しい人いるでしょ」


 つまらなさそうに顎でしゃくる先を見ると、祭りの会場に全く似合わない燕尾服に身を包んだ白髪の老人がキョロキョロと何かを探している姿が目に入った。明らかに周囲から浮いている服装なので、人垣の中でも楓が誰を指しているのかすぐにわかってしまう。


「アレ、ウチの執事。葛西っていうの」

「し、執事? マジ?」

「そう、執事」


 突然聞き慣れない単語が飛び出してきたので、思わず聞き返してしまった。ただの俺の妄想に過ぎないと思っていたけど、楓が本物のお嬢様だったなんて。


 突然明らかになった真実に唖然としている間にも、葛西さんとやらは屋台一軒一軒にうやうやしく頭を下げ、何やら聞き込みを行っている。


 楓の言う事が本当なら、きっとこいつを探しているのだろう。


「迎えなんて来なくていいのに……」


 大慌てで自分を探している葛西さんの動きを見ているのに、そうであって欲しかったと、そんな願いが込められた呟きだった。


「……」


 気の利いたセリフを言おうとしたが、結局喉元まで出かかったそれは意味のない物だと飲み込んだ。もうこの子と会うことはないだろう。


 ならばとも思うが、俺はだからこそこのまま別れようと思った。


 俺が一段降りても、楓から声はかからない。そのままゆっくりと石段を降りていく。


「……残りの分も、腐らせる前に食えよ」


 未ださっきまでの余韻を漂わせるこの空気を、俺の好奇心で汚す必要はない。


「うん。明日とか明後日にはもうないと思う」


 そういう意図はなくとも、どこか突き放すようなその言い回しに一抹の寂しさを感じ、最後にもう一度だけ振り返る。


 もう撤収作業が始まっているのだろう、さっきよりも明かりが少なくなり、薄暗くなってきた石段に腰かけている楓は、白いワンピースと狐耳のせいかいやに神々しく、それでいて手にしているのが屋台の食事なんて絶妙なアンバランスさを醸し出していた。


 それのお蔭で、最後はしっかりと笑う事ができた。


「じゃあな。今度はちゃんと明るいうちに帰れよ。次は迷子センター行きになっちまうぞ」


「うん、気を付ける。今日はありがとう。とっても楽しかった。ばいばい」


 そうして笑顔を交わして俺達は別れる。俺が石段を下まで降りると、ようやく姿を見つけたのか葛西さんが行きも絶え絶えに俺の横を走り抜けていき、そのうち背後から説得するような声が聞こえてきた。だがそれも少しずつ遠のいて、やがて聞こえなくなった。


 片づけを始めた屋台の間を通りながら、今日の祭りを振り返る。


「……ま、たまにはこういうのもいいかもな」


 内容は迷子の面倒を見ていただけなのに、何故だかとても新鮮で濃密な時間だった。


 またどこかで会えたらいいな、なんて考えたりもしたがそれはもうないだろう。


 祭りにすら行かせてもらえないお嬢様と偶然知り合ったのもそうだし、そもそも俺には大した時間が残されていないのだ。波長が合ったのは確かだけど、自分が獣になって祝福される未来を考えると、これ以上そんな人を増やしたくはない。


 一期一会で、お互い踏み込まずに別れたのだったら、それはいい思い出のままで終わるに越したことはない。一夜限りの出会いが素晴らしいもので終わるのなら、それが一番望ましいだろう。


 ここからは、また普段の日常が戻ってくるのだから。


「さてと……」


 しばらくはこの余韻に浸っていたかったけど、とりあえず好美と小町の行方を探さなくてはならない。気持ちを切り替え、改めて連絡が来ていないかを確認する。


「……返事はなし、か」


 スマホが振動した様子はなかったので予想はしていたが、やはり連絡は来ていない。念の為に電話をかけたが、二人とも留守電に繋がってしまう。


「さすがに今はタイミング悪かったか?」


 実際のところ小町が告白する相手も、どのタイミングで告白するのかも聞いていない。


 途中でいきなりいなくなったことに関しては気になるが、もしこれから告白するとして、直前になって緊張がピークに達し、俺にかまっている余裕すらなくなった可能性もあるだろう。


 成否はどうなったかわからないが、もう花火も終わってから時間が経っている。


 それこそトラブルにでも巻き込まれていない限り、とっくに祭りから引き上げて好美の家でくつろいでいるはずだ。


「……一応帰ったら顔出しておくか」


 好美の家は俺の家の隣だ。さっさとと帰ることにしよう。


 店じまいの準備をしている出店を両脇に眺めつつ、鳥居を抜ける。


 その途中で変な人だかりが歓声を上げて酒を煽っていたが、大方祭りの打ち上げかなにかだろう。知った顔もいくつかあったが、会長さんから現地で行われる打ち上げに未成年の参加はNGと言われているのでそのままスルーして神社の敷地を出た。


 不思議なものでそうやって目に見える境界を跨ぐと、本当に祭りは終わったのだと改めて実感する。特に今回はあの二人とはぐれたり、見ず知らずの女の子と仲良くなったりと非日常感が強かったから余計にはっきりと終わりを感じてしまう。


 それにしても楓は一体何者だったのか。ほとんど身の上を聞くことはしなかったがこんな時間まで一人で出歩いて迎えに来るのは親ではなく執事だなんて、俺なんかには想像もできない世界だ。楓が執事の葛西さんを見る目を思い出すと、家庭が放任主義というだけではあるまい。


「……やめよう」


 一期一会だ。一夜限りの出会いだったのだ。深入りはしないと決めたじゃないか。


 もう鳥居はとっくに跨いでいる。ならば、いつまでもあの輝きに魅入られているわけにもいかない。ここからはいつも通りに、いつも通りの日常に戻ろう。


 そんな事を考えていると、俺の家はもう目の前だった。


「ただいまー」


 玄関もまた神社の鳥居と同じで、一歩跨げば世界が変わる。

 だから祭りの高揚も、降って湧いた悩み事も、ここでは表に出す必要はない。


「おかえりなさ~い」


 後ろ手に鍵を閉めていると迎えの声が聞こえ、先に帰って来ていた姉さんがリビングから俺を迎えてくれる。しかしいつもなら祭りの話でも始める所なのに、今日は何やら不思議そうに俺の顔をじっと眺めていた。


「どうかした? なんか顔についてる?」

「いいえ~。お祭りはたのしかった?」

「……? ああ、楽しかったけど」


 その質問の意図がわからず、言葉そのままに答えたが、姉さんはぽわぽわとしたままその答えが正しかったかどうか教えてくれない。

 何か俺に内緒で悪戯でも仕込んでいたのか不安になりつつも、靴を脱ごうと座り込んだ俺の背中に姉さんは話を続けた。


「そういえば好美ちゃんたちは?」

「なんかはぐれちゃってさ。連絡もつかないし、ちょっと休んだら好美の家行ってくるよ」

「あら~そうなの~」


 パッと見姉さんは普段と変わりないが、今はいつも以上に妙なぽわぽわ感を醸し出している。何かを隠しているのは明白だった。


「……なんか隠してない?」

「うふふ~なんのことかしら~? お姉ちゃんわかんないわ~」

「いや……まあいいや。お茶飲んだらすぐに出るよ」

「あらあら~」


 どうせ聞いても教えてくれないだろうと、姉さんを置いてキッチンへと向かう。冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出していると、俺の後ろに着いて来ていた姉さんが何かを思い出したように、ぽんと手を打った。


「そうだ~。今日のお祭りで獣還りした人がいるらしいわよ~。おめでたいわね~」

「わざわざ祭りの日に、ねぇ」


 帰り際に見た人だかりを思い出す。どうやらアレは新たに獣還りした者を祝う人々の集まりだったらしい。祭りの日に獣還りなんて俺だったら絶対御免被りたい。


「あらごめんね~。たーくん獣還りあんまり好きじゃないものね~」


 天然な姉さんのこういう無遠慮な一面も、もう慣れたのでこのぐらいではなんてことはない。というかしょっちゅうだし。


「好き嫌いって言うか……まあいいやそれで」

「あらあら~」


 好き嫌いというよりは当面に差し迫った危機と言った方が正しいけれど、姉さんや父さん、そして好美や小町にも胸の秘密は話していない。


 いくら理解があるとは言え、姉さんや父さんに迷惑や心配をかけるのは確実だし、好美や小町を始めとした周囲の人たちは獣還りを肯定している以上、下手に話すと四六時中おめでとうだのいつ還るのだの付き纏われるのは目に見えていた。


 それに何より、獣還りに一番嫌悪感を抱いていた俺がこの有様だなんて、皮肉にも程がある。


「……神様はちゃんと見てるってか」

「ん~? たーくん何か言った~?」

「なんでもないよ。なんでも」


 鬱屈した感情を押し流すように、冷えた麦茶を一気に流し込む。


 そのタイミングをまるで狙っていたかのように、玄関のインターフォンが鳴った。


「こんな時間に誰だ……?」

「あらあら、もう夜も遅いのにお客さんかしら~?」

「いや、いいよ俺が見るから」


 玄関に向かおうとする姉さんを制し、すぐ近くの壁にあるカメラで相手を確認する。


 するとそこには先に帰ったと思っていた好美が浴衣姿のまま立っていた。


「なんだ、好美だよ」

「あら、小町ちゃんは~?」

「そういえばいないな。あーでも、もしかすると……」

「え? なになに~?」


 うっかり口を滑らせてしまいそうになったが、他人の告白をどうこう噂にするもんじゃないと、興味津々な姉さんの脇を通り抜けて玄関へと行き、鍵を開けてドアを押し開いた。


 最初の一言は居なくなった事へのお怒りだろうか。まあそのぐらいなら甘んじて受けよう。


「好美?」


 心細い玄関の明かりの中、好美は一人でそこに立っていた。やはり近くに小町の姿はない。


「太一! どこ行ってたの!」

「いや、どこってお前らが先にどっか行ったんだろ」

「違うよ! 太一がはぐれたの!」


 予想通り、いつもの静かさからは想像もできない大きな声で好美は怒りを露わにする。だが、何故か好美はここまで走ってきたとでもいうように肩で息をしていて、呼吸の苦しさからか頬は上気し目は潤んでいた。


 しかし、そんな状況なのにも関わらず、好美はとても嬉しそうにしていて。


「それより……小町のアレは上手く行ったのか?」


 きっとそうなのだろう。まるで何かを祝福するようなその笑顔は、聞いていた話通りに小町が告白して恐らく成功したのだ。


 この時まで俺は、そうに違いないと確信していた。


 だからあの花火を一緒にやってあげないと、とか、最初にしっかりとおめでとうと言おう、とか、そんなバカみたいな事しか考えていなかった。


「あ、それはもういいんだ」


 だから、好美の急に冷めたようなその声に、上手く言葉が返せなかった。


 好美にとって小町は実の姉妹のように仲がいい存在だ。そんな大事な幼馴染の告白を、それ呼ばわりした好美に、不信感を抱かずにはいられない。


「……もういいって、どういうことだ?」

「もう! そんな事より、実はお祭りの最後ですごくいいことがあったの! だから太一にもすぐ教えてあげなくきゃって思って!」


 詰め寄って勢いよく捲し立てる。好美の熱は、まるで俺から奪ってその熱さを保っているように、俺の頭はどんどんと温度を無くしていく。


 好美がここまで感情を露わにするのはとても珍しい。


 だから、こんな突拍子のない単語がまるで繋がってでもいるかのように、頭に浮かんでくる。


 お祭り、獣還り、いいこと。


「いい、こと」


 連想ゲームを咄嗟に頭から追い出しても、絞り出した声は震えていた。

 思考は既にまさか、で塗りつぶされ、想像していた未来とのギャップにしか注意が向かなくなっている。


 家はすぐ近くなのに、なんで好美は動き辛い浴衣のままなのだろう。


 告白の成否を放って喜ぶ、いいこととは何なのだろう。


 そして、何故好美は今日の主役である小町を連れてきていないのだろう。


「うん! ほらこっちだよ! おいで!」


 凍った頭で一つずつ現状を整理しても追いつくはずがなく、好美は待ちきれないと自分の背後に向かって声をかける、


 すると暗闇の中からのそりと、白く大きな犬が現れた。


 犬種はチワワだろうか、だがそのサイズは大型犬にすら匹敵する程大きく、それだけでこいつが普通の犬でないというのは見て取れる。


 それはまるで、突然変異で生まれたとでも言うような――。


「ワンッ!」

「うわっ!?」


 つぶらというにはいささか大きすぎる瞳と目が合うと、そいつは一言吠えて勢いよく尻尾を振りながら俺へと飛びかかってきた。想像以上に重くて尻餅をついたのだが、チワワは気にすることなく一心不乱に俺の顔を舐め始める。


「ちょ、おい、やめろ!」


 引きはがそうとしても、犬は決して俺から離れようとはしなかった。


 俺とこいつは初対面のはずなのに、まるで以前からずっとこうするのに焦がれていたのだと、迫る手をかいくぐり俺の顔を唾液まみれにしてくる。


「ほら、そのへんにして。太一も嫌がってるでしょ」


 もはやどうすることもできず、されるがままになっていると、好美が犬を叱責する。


 すると俺の言葉には全く耳を貸さなかったというのに、その一言で犬は名残惜しそうにしつつも、俺から身を引いて好美の隣に行儀よくお座りをした。


「もう、いくらなんでもやりすぎ」


 好美は犬の頭を撫でながら仕方ないと苦笑いしている。しかし当の犬は悪びれる様子もなく、ただじっと何かを訴えるように、体を起こした俺をその真っ黒な瞳で見つめていた。


「……なあ好美、その犬、ってさ」


 逃げるように視線を逸らし、好美へと問う。


 すると好美はされるがままのチワワと肩を組み、我が事のように心底嬉しそうにしながら、


「うん、太一の思ってる通り、この子は小町だよ。かわいいでしょ?」


 とても直視できない現実を、満面の笑みで俺に突きつけた。


「ッ……」


 胸の奥でつっかえていた重い空気が、吐瀉物のように口から溢れる。

 脳味噌は完全に凍ってしまったのか、まともな言葉すら出てこない。


 その中でただ、なんで、と。


 何故小町なんだと、やりどころのない怒りがふつふつと燃え上がるだけだ。


「よしよし、うんうん、大丈夫だよ。おばさんには私からちゃんと説明するからね」


 小町の柔らかそうな体毛に顔を埋めて、好美はもう届かないであろう心配事を、小さい子供に言い聞かせるような口調でかつて小町だったモノへと語りかけている。


「……好美、は、それでいいのか?」


 知らず、そう問いていた。


 獣還りは祝福すべき事である。世界がそうなっているのは、理解している。


 けど、こんなのは、こんな現実があっていいのか?


「それでいいってどういうこと? わ、小町ったら急に顔を舐めないでよ」


 かつて人であったモノと、嬉しそうに肩を寄せ合う好美に恐怖すら感じてしまう。


 友達がいなくなってしまったというのに、好美はそれがいいことなのだと信じてやまない。


 それはあまりにも真っ直ぐで、間違いだと考える事すらしていない無垢なものだ。


 子供の頃からずっと一緒に過ごしてきて好美はそう考えているのだと知っていた。


 けれど、一緒に過ごしてきたのは小町も一緒で、その小町は俺達の知っている姿とは違う、言葉すら発することができない獣と化してしまった。


 最後になんて言葉を交わしたのかすら、俺は覚えていない。


 そんな事すら確かめられないこんな世界を祝福するのは、間違っているんじゃないのか。


「皆でお祝いしなきゃ! 登校日にクラスでもやってもらおうよ!」

「あらあら~、好美ちゃん嬉しそうね~」

「はい! 親友の獣還り祝いですから!」


 その会話はどこか遠いところで交わされている、自分には関係のない話のように受け入れ難く、助けを求めるように泳がせた視線は犬になってしまった小町と再度交わった。


 深淵の見えない真っ黒な瞳は、まるで俺の胸にぽっかりと空いた穴のようだ。


 しかし彼女はもう言葉を持たず、何も言わずにただただ俺の目を見つめ続けるだけ。


 皮肉にもそういう態度は人間の時から変わっておらず、この犬が本当に小町であるのだと俺に現実を理解させるのには十分すぎるものだった。

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