7月29日 その4

「ふうっ、ごちそうさまでした!」

「そいつはよかった。これもやるよ」

「わ、ありがとう!」


 五分後、楓はなんなくタコ焼きを完食した。

 タコ焼きついでに買っておいた缶のお茶を渡すと、さっきまでの遠慮はどこへ行ったのかすぐさま受け取り勢いよく飲み始める。


「はぁ……こんなおいしいのを今まで知らなかったなんてもったいないなぁ」

「大げさすぎだろ。似たようなもんなら今まで食った事あるだろ」

「それでも、やっぱりおいしかったんだもん!」


 尻尾の動きを見るによほどお気に召したらしい。

 興奮気味の楓から味の感想を聞きながら、二人分のゴミを纏めて袋の口を縛る。

 お茶を飲み終わったら楓を迷子センターへ連れて行って、そうしたら好美と小町を探すのに戻るとしよう。


「よし、楓……」


 そろそろ行こうか、と声をかけようとしたタイミングで、俺はとある事に気がついた。


 楓は俺と話しながら、石段の下の祭りの様子を憧れるような、あるいは焦がれるような眼差しで見下ろしていたのだ。


「お祭りって初めてだったけど、いいかも」


 沢山の提灯に裸の電球も負けじと光り輝き、直火を使う屋台では赤々しい炎が踊っている。


 人々の笑い声、雑踏、喧騒、音の奔流はどこか遠く、それでもすぐそこに渦巻いている。


 それら全てを、楓は憧れと共に優しく見守っていた。


「……ああ、そうだな」


 すっかり見慣れてしまったとばかり思っていた光景だったが、こうやって見る角度や共に見る人を変えるだけでも随分と変わって見えるものだと知らなかった。


 楓の碧眼はラムネ瓶のビー玉のように爛々と揺れている。それは光の反射だけではなく、すぐそこにある見知らぬ景色に今すぐ飛び込みたいという彼女の内心も現していた。


「太一、アレは何?」


 さっきよりも一層楽し気に、楓は屋台の一つを指さす。

 宝石のような紅い球体がたくさん並んでいるのに惹かれたのだろう。


「アレはリンゴ飴だな。リンゴを飴でコーティングしてるんだ」

「リンゴを飴で……? じゃああの水槽みたいなのは?」

「スーパーボール掬いか。よく跳ねるボールをカップを使って掬う遊びだな。それの隣にあるのがモダン焼きで――」


 すっかり日が暮れた神社の闇の中から、燦然と輝く屋台の群れを一つ一つ説明していく。


 その全てが目新しいと喜ぶ楓の表情はコロコロと変わり、迷子だのとケチをつける無粋な真似はしばらく忘れることにした。ポケットの中のスマホも未だ振動一つ起こしていないし、時間はまだまだ有り余っている。


「出店って、変なのがいっぱいあるんだね」


 説明が一区切りついた頃、楓は初めて俺に向けて笑顔を浮かべた。


 どこか浮世染みていたり、大人びていると言ってもまだまだそれは子供のもので、この無邪気に笑っている楓こそがきっと本物なのだろう。前歯についた青のりは愛嬌みたいなものだ。


「ここにはないけどまだまだ色んな屋台がたくさんあるぞ。飴細工に今川焼、金魚じゃなくてエビ掬いってのも一回見た事あったな。あとは――」


 その笑顔がとても尊いもののような気がして、もっと笑って欲しいと俺は知り得る屋台の知識を総動員して楓に話を続けた。


「おおお……」


 楓は感嘆の声をあげ、俺に羨望の眼差しを向けてくる。こんな話を聞いたらすぐさま駆け出したいだろうに、話が盛り上がるにつれて何故だか楓の尻尾は徐々に勢いを無くし、いつの間にか楓の体を守るように太ももの辺りで大人しくなった。


 まるで祭りの魔法が解けてしまったように俺への返事は小さく、焦がれていた瞳は影を潜め、届かないモノを見るような遠い目となっていた。


「楓? どうした?」

「あ、ううん。なんでもないよ大丈夫」

「大丈夫ってお前……」


 何が原因か、楓は祭りの場へと赴くのを必死に堪えているようだった。

 たったそれだけなのに、何故だか俺は胸が締め付けられる思いになる。


「……よし」


 その理由はわからない。けれどどうにかしなければ、なんとかしなければと、気がつくと俺は立ち上がって楓へと手を差し伸べていた。


「それじゃあ、そろそろ行くか」

「え?」


 俺の突然の行動に、楓は何を望まれているのか理解が追いついていないようだった。


「祭り、行きたいんだろ?」


 伸ばした手はそのままに楓に問う。すると心の内でも見透かされたというように、尻尾の毛を逆立て大げさに後ずさった。


「な、なんでわかったの!?」

「いや、どっからどう見てもお前行きたがってんじゃん。それとも何か行けない理由でもあるのか? 宗教上の理由とか」


 例の神様の宗教にご執心の人は既存の宗教施設に足を運ぶ事すら躊躇うと聞くが、楓は既にこんな奥地まで入り込んでいるので、さすがにそれはないと信じたい。


「そ、そういうわけじゃないんだけど、その……」


 楓は何やらごにょごにょと口ごもり、恥ずかしそうに目線を逸らした。顔を赤くし、情けなく耳を畳んでいる姿は最初の尊大さからは信じられないしおらしさだ。


 そんな楓が落ち着くまでしばらく待っていると、楓は観念したように立ち上がってお尻についた土埃を払い、伏し目がちに口を開いた。


「その、実は、お金がないの。一円も」

「……ああ、そういうことか」


 若干涙目で打ち明けられた事の真相が大したことなくほっとする。それだったら俺の虎の子を切ればどうにでもなると、安心させるように手ごろな高さにある楓の頭に手を添えた。


 ビクリと身体が跳ねるが気にせずにゆっくりと頭を撫でる。まるで溶けるように柔らかい金色の髪が指の股をくすぐり、髪に感覚でもあるようにその動きに合わせて楓の耳がピコピコと動く。怒られるとでも思っていたのか、窺うように楓は俺の顔を見上げた。


「金がねぇなら最初からそう言えばいいのに」

「は、恥ずかしいじゃん! お、お金もないのにお祭りとか」

「バーカ。子供が変な気使ってんじゃねぇよ」


 バカとはなんだと抗議する楓を放置し、俺は財布の中に潜む屋台無料券を取り出した。これこそ毎年会長さんから労働の対価として支給されるモノに他ならない。小町の激励の為に使おうと思っていたが、本人がいない以上どう使っても俺の勝手だ。


「これはな、屋台がタダで利用できるチケットだ」


 分かりやすく耳と尻尾を立て、楓は俺の手に握られているそれを半信半疑といった様子で見つめている。


 今日のメインである花火まではまだ時間がある。これから屋台を一つずつ堪能したとしても時間はまだまだ余りあるぐらいだ。アイツらからの連絡は未だにないし、小町の告白については気になるがもう気を揉んでも仕方がないだろう。


「というわけで、全部の屋台ってわけじゃあないがある程度はこれでタダになるってわけだ。つまり遠慮も必要ない。さあ行くぞ!」

「え、ちょ、待ってよ太一!」


 楓の手を取り、石段を駆け下りる。


 階下に広がる祭りの風景は上から見ているよりも何倍も楽し気に見えて、それは楓も同じように感じてくれているようだった。その光の渦に照らされて、瞳が潤んだように揺れている。


「さあこの辺の屋台は選びたい放題だぞ。どれがいい?」

「えっと、えっと……」


 おずおずと祭りの雰囲気を確かめるように歩く楓の答えを待つ。


「それじゃあアレがいいな……」


 いきなり目の前に現れた大量の選択肢の中から楓が選んだのは、リンゴ飴だった。


「ほら、リンゴ飴だぞ」

「わぁ……!」


 屋台は空いていたので手早く無料券を渡して引き換え、小町や好美よりも更に小さい楓の手に握らせる。よほど気になっていたのか、タコ焼きの時なんかメじゃないぐらいに尻尾が振れていた。


「よし、じゃあ次行くか」

「うん! 次はアレがいい! フランクフルト!」

「おい、走ると危ないぞ!」

「へーきへーき!」


 ワンピースの裾を翻しながら、楓は器用に人の波間を縫って走る。置いていかれないように俺も見知らぬ人にぶつかりながらそれを追いかける。


 煌びやかな光景に負けず劣らず輝く楓は、ここにいる誰よりも楽しそうで、俺が持っていた無料券はあっという間に無くなってしまう。けれど何を見ても驚き笑っている楓の邪魔をしたくなくて、特に何かを考えるでもなく俺は身銭を切っていた。


 そうやって過ごしていると時間が経つのはあっという間で、俺達は花火の場所取りも兼ねて石段へと戻ってきていた。


 俺たちの間には大量の食事が置かれ、二人でそれを奪い合うように食べ始める。


「リンゴ飴、なんか食べてると飽きるね。見て楽しむものなのかな」

「まあ普通のリンゴに飴がついただけだからな。おっ、このお好み焼きみたいなのうまいけど食うか?」

「食べる!」


 祭りの来訪者皆が待ちかねている花火までもう少し。さっきまでの閑散とした空気とは打って変わって、今はこの石段にも多くの人が溢れていた。


 最初はその一員ではなかった俺達も、今ではすっかりその中に溶け込んでいた。途切れる事のない楓の笑顔が、それをより一層確かなものにしてくれている。


 最初はどうなるかと思っていたこの祭りだったけど、今ではそのトラブルが起きてよかったと思えるぐらいに充実したものとなっていた。


「……ね、太一、ありがとう」


 だから、未だ祭りの中に居ながら楓がそんな事を言うのが少し気になった。


「まだ祭りは終わってないだろ。これから花火だぞ?」

「うん、それでもありがとう。太一が居てよかったよ」


 祭りを遠目で眺めていた時には羨望に塗れていた瞳は、もう影すら残っていない。

 けれど、それ以外の形容できない何かが、その笑顔の奥に潜んでいるような気がした。


「声をかけたのが太一で正解だった」


 だから、その正解という含みのある言い方に妙な引っかかりを覚えて。


「……それってどういう――」


 その真意を訊こうとした俺の視界に、幾筋もの光が走る。

 やがてそれらは夜空に吸い込まれるように消え、数瞬の後に連続した炸裂音を遥か上空から光と共に響かせた。

 どうやら話している間に、花火の時間が来ていたらしい。


「わぁ……」


 不意打ちのように響く内臓を揺らす轟音に、楓の感嘆する声と周囲がどよめくのはほぼ同時だった。疑問は消えないままだったが、花火の間だけは忘れていようと、周囲の昂ぶりにあやかるように俺も夜空に目を向ける。


 星空にピュルルと間抜けな音が響き渡り、大きな黄色の花が開いた。そうしてすぐに消えた花の後を追うように、今度は赤、緑と大輪の花が咲き誇る。もどかしい間を空けながら花火はそれぞれの花弁を散らし、一瞬だけ星よりも眩くその身を燃やし消えていった。


 それがあんまりにも綺麗で、眩いものだから、いつか見た真昼の太陽が蘇ってくる。


『自分が信じたいものは自分だけで決めるんだ。そこにどんな横槍が入っても誰からなんと言われようとも、それだけは間違えるな』


 知らず、胸元を強く握りしめていた。


 俺の人生はああも綺麗に終わりを迎える事ができるのだろうか。


 今そんな事を考えるのは無粋だとわかっている。


 しかし俺の体を蝕む獣の因子は、いつ本格的に俺を乗っ取ってしまうのかわからない。


 ならばこそ、問わずにはいられなかった。


 諦めたくはない。諦めたくはないけれど、あまりにもそれに抗う術がなさすぎる。


「わぁ、わぁああ……」


 隣で無邪気にはしゃぐ楓は、ただただ一瞬の花びらに心を奪われている。

 そんな姿を見ると、自分自身がより惨めに思えてくるのは何故だろうか。


「ほら見て太一! すごく綺麗! まるで星が目の前にあるみたい!」


 幸い顔には出ていなかったらしく、空を指さす楓は俺の心情には気付いていないようだった。


「……ああ、綺麗だな」


 だから、一期一会の最後だと、俺は無理して楓の言葉に合わせることにした。


 この屈託のない笑顔に水を差すのは、俺が抱えている問題なんかよりも、もっと大事にしなければならないと思ったから。

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