7月22日

7月22日 その1

 枕元でけたたましく鳴り響く目覚まし時計の所在を、確かめる事もせず適当に手を振るう。スイッチに上手く手が当たったらしく、目覚まし時計はすぐに大人しくなった。


 しかしそれと入れ替わるように、今度は外から聞こえる蝉の声が微睡みを妨害し、結局二度寝なんかできるはずもなく、意識を浮上させるしかない。


「あー、朝から元気だなホント……」


 そんな夏の風物詩に文句を言っていると、さっきまで見ていたはずの夢の内容は眠気と僅かな怒りに塗りつぶされてさっぱり思い出せなくなってしまう。

 何か懐かしい夢を見たような気がするが、思い出せないのなら大したことはないだろう。


 亀のようにのそのそベッドから這い出てからシャツを着替え、階段を降りて洗面所へと向かう。顔を洗ってから鏡を見ると犬耳が裏返っていたので手で直し、ついでに尻尾についた毛玉もコロコロで取ってから、いい匂いの漂ってくるリビングへのドアを開いた。


「あっ、たーくんおはよう~」

「おはよ」


 なにかが焼ける音と共に、姉さんの声がキッチンの奥から聞こえてくる。それに適当に返事をして自分の椅子に腰かけた。父さんはまだ起きていないのか姿はなく、料理ができるまでテレビでも見ていることにした。


「いやー、最近は獣還りされている方が多いですねぇ。私も今日ここに来る前に見かけまして、ほら、私ももうすぐですから早くああなりたいと――」


 つまらん、次。


「本日、衆議院議員の倉守民雄氏が獣還りなされたと発表がありました。倉守氏は昨晩未明から体調不良を訴え病院へ――」


 次。


「ここ数年調子が悪かったのが嘘みたいにこれを飲んでから毎日健康です。獣になったら人の時以上に健康でいたいですからね――」


 どのチャンネルに変えても似たように獣還りの話題しかない。毎日の事なのだけど、せめて朝ぐらいは気の休まる時間を与えてはくれないものか。結局のところ、俺がこんな価値観でこの世界を受け入れられないのがいけないのだけれど。


「……はぁ」


 テレビから目を逸らすように、キッチンで揺れる姉さんのもさもさとしたボリュームの髪を観察する。

 俺の姉さんである里中智代は羊の獣還りで、このパーマいらずの髪はその影響だとかなんとか。


「も~、たーくん。朝から溜息なんて幸せ逃げちゃうわよ~」


 さっきの溜息が聞こえていたのか、姉さんは料理をしながら声をかけてきた。


「迷信だろ。溜息を吐くって事はストレス発散に繋がるからむしろいい事のはずだ」

「たーくんは相変わらず偏屈ね~、もう朝ごはんできたから持って行くわね~」


 俺の苦言は聞き流し、姉さんはキッチンから湯気を立てる皿を二つ持って出てきた。歩くたびにふわふわと揺れる髪の合間から、羊のものである渦巻いた角が顔を覗かせている。


 髪の毛が揺れる様をぼけっと眺めている間に、姉さんはのほほんとした雰囲気からは想像できないてきぱきとした動作で用意を済ませ、席に着いた。


「いただきます」

「いただきま~す」


 それぞれ手を合わせ、朝食の時間が始まる。


「最近どのチャンネルも獣還りばっかりね~」


 半熟の目玉焼きを白米の上に乗せながら、姉さんはワイドショーの話題について言及した。

 先週も隣町の親戚が獣還りしたばかりなのでその事を思い出しているのだろう。昔何度か遊んでもらった事があるおじさんだったが、駆け付けた時には既に大型の雑種犬になっていたが。


 こんな世界になって約百年。最近では寿命で死ねる方が珍しい。

 かと言って現実から目を逸らすように獣還りを許容したり、それを自ら望んだりするのもおかしな話だと思うが、そう口にして同意を得られた例は一度もない。


「みんな死にたがってんじゃないのか。等しく爆弾を抱えてるわけだし」

「たーくんは相変わらず辛辣ね~。あと獣還りは死ぬわけじゃないのよ~」

「本当にそうかねぇ……」

「そうよ~」


 姉さんは特に気にした様子も無く、あらあらうふふと笑っている。

 例の神様を崇めている連中の前で口にしたら袋叩きにされる発言も、姉さんの前ではこの程度だ。理解してはくれないが許容はしてくれている姉さんと父さんには頭が上がらない。

 できれば理解までしてくれると嬉しいのだけど、さすがに高望みが過ぎるか。


「あっそうだ。昨日も言ったけど、今日は祭りの準備があるから寄り道しないで帰ってきてね。好美ちゃんと小町ちゃんにも念を押しておいてもらえる?」


 そんな益体のない事を考えていると、姉さんがポンと手を打つ。言われてから俺もすっかり忘れていたそれの存在を思い出した。一週間後に近所の神社を使って町内会の祭りが行われることになっているのだ。


「あー、忘れてた。何時集合だっけ?」

「えっと、確か昼の二時とかじゃなかったかしら~」


 今日からその準備をするらしく、暇を持て余した学生である俺達が駆り出されるのは毎年恒例となっていて、もしズル休みなんてしようものならとんでもない制裁が待ち受けている。


「さすがに去年の事があるから忘れてないだろうけど、一応声かけとくよ」

「助かるわ~。お願いね」


 去年はコスプレしたまま屋台の売り子をさせられたアイツら二人の姿を思い出し、笑いがこみ上がってくる。さすがにあんな醜態を晒した以上、今年はボイコットしないだろう。


「去年の二人のコスプレはかわいかったわね~。いっぱい写真撮っちゃったもの~」

「かわいいかどうかはともかく、まあ面白かったな」

「そうよね~。今年もやってくれないかしら~。その為にカメラ新調したのよ~」

「何買ってるんだよ……」


 とまあ、そこそこに平和な朝だったのだが、それは家の奥から聞こえてきた父さんの絶叫によって幕を閉じた。きっと今さっき目を覚ましたのだろう。何かを探して走り回る音がドアの向こうからドタバタと聞こえてくる。


「何探してると思う? 昨日洗濯したしワイシャツ探してるんじゃねぇかな」

「それだったらネクタイじゃないかしら~」


 自分で探し物を見つけられない父さんの事だから、しばらくしたらキッチンへと飛び込んでくる事だろう。今日もまた、いつもの朝がこうやって始まるのだ。


 騒々しい父さんにあてられたのか、庭の木で朝から元気なセミが父さんに負けないようにと、より一層声を大きくしたような気がした。

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