セカイはたった二人ぼっちで

能登ヒロノリ

プロローグ

 世界が崩壊したのは今から百年前。

 崩壊した原因は戦争だとか食糧問題だとか、そんな物騒なものでもなんでもなく、そいつが何の前触れもなく突然世界に現れたからだ。


 百年経った今もそいつの正体はわかっていない。しかし直視すれば目を焼かれ、誰もが頭を垂れるその神々しき輝きはまさしく神そのもので、その神様とやらは地上に存在する全人類に向かってこう言ったらしい。


「お前たちはやりすぎた」


 たったその一言だけ残してそいつは消え去ったらしいが、そいつがバラ撒いた種は既に人類を蝕んでいた。ある者は突然体から針金のような毛が生え、またある者は鋭利な爪と牙が伸び、またある者は獣へと変貌してしまったという。


 自らの体の一部が哺乳類のそれと取って代わったように変質するその事象を、人々は『獣還り』と呼んだ。進化の過程で別の枝に別れた哺乳類という大きな括りを遡り、獣へと還っていく事になぞらえたらしいが、なんとも趣味が悪い。


 体を徐々に蝕む病のような症状は誰にも止めることは出来ず、世界中の学者や研究機関が総出となって研究していたものの、誰もが神の悪戯の片鱗すら突き止める事ができなかった。


 そうやって年月が経ち、人々は諦めた。

 自分の体がいつ獣のものとなってしまうのか怯えていたのは最初だけ。成す術がなく、抗うだけ無駄だと判明した現在では既存の神の概念が覆され、唯一神となったそいつの力に服従し、獣になる事が素晴らしく、人のままでは救われないのだと死生観すらも崩壊した。


 だが、人類は未だ生き続けている。

 自分の未来にすら、嘘をついたままに。


 ***


 夢を見た。


 広い草原で、真っ白な犬と遊ぶ夢。


 疲れなんて全く感じず、どこまでも走り続けた。

 平坦な地面を蹴り、小さな丘を越え、見上げた青空はどこまでも広い。

 目的なんて知らないけど、足はただただ前に向かって動き続け、そんな俺の隣をどこか見覚えのある犬は楽しそうに追従している。


 どこでこいつを見たんだっけと、夢の中で冴えない思考を働かせると、すぐにその犬の正体に思い当たる。家のリビングにある写真立て、その中に飾ってある写真の犬とこいつはそっくりだったのだ。


「……そっか」


 なんで今更こんな夢を見たのか何となく察すると、半ば自動的に動いていた体は自分の意識下へと戻ってくる。すうっと頭から熱が冷めていく感覚と共に、俺の手は自然と自分の胸へと当てられていた。


 草原に吹く穏やかな風とは対照的に、今の俺の表情はさぞ曇っている事だろう。


「あれ?」


 気がつくと、犬の姿がどこにも見えなくなっていた。周囲を見渡すが影すら無く、どこかに走り去って行ってしまったのだろうか。いや、視界を遮る物のないこの場所でいなくなったのならきっと姿ごと消えてしまったのだろう。


 結局これは現実でも何でもなく、ただの夢なのだから。


 地面に腰を下ろすと、犬の姿が消えた非現実さとは違い、現実的な濃い緑の匂いを感じる。突飛な展開に何とも言えない気分になり、溜息交じりに後ろ向きに倒れると尖った野草がチクリと背中を刺した。


「……前にもこんな事があったな」


 嫌にリアルな青空を眺めていると、懐かしい記憶が蘇ってくる。

 あれはそう、確か俺が小学校に入ったばかりの頃だったか。父さんはさっきの犬が写っている写真を指さし、この写真の犬はお前の母さんなのだと、笑いながら教えてくれたのだ。


 それまで何となく受け入れていた『人が獣になる』という常識に、違和感を覚えたのはそれが最初だったか。当時の俺はその感情を上手く言葉にできなかったが、その違和感は誰もが抱くものだと勘違いしていた。当時色んな人に神様や獣還りの話を聞いては怒られたのを覚えている。


 ほとんどの人はいつか獣になってしまう。

 その原因も、どんな現象であるかも理解している。

 だけど、あたかもそれが正解のように振る舞う世界はどうやっても許容できない。

 だってそんなのは、目の前の現実から目を背けているだけじゃないか。


「……はぁ。夢の中で躍起になっても仕方ないか」


 やめよう。結局高校生が一人で何をしようと、何を考えようと世界は変わらない。いきなりこんな夢を見て変に感傷的になってしまったようだ。


 そんなやるせない気分から目を逸らすように、俺は寝転がったまま目を閉じた。

 夢の中で微睡む、というのはなんとも奇妙な感覚で、すぐに自分の体勢すらわからなくなってくる。酔いそうになりながらも、これ以上面倒な事を考えたくなかった俺はその感覚に身を委ねた。


 ゆらゆら、ふわふわと揺れる世界の中、犬ではないかつて人間だった母さんの顔を思い出そうとする。


 しかし、いくら頭を捻っても出てくるのはさっきの白い犬ばかりで、母さんが人間だった頃の顔は、どれだけ思い出そうとしても霞がかったまま見えてこなかった。

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