第129話

 そこでようやくあの違和感の正体に思い至った。ダイニングキッチンをぐるりと見回した。消えていた。すべてが消えていた。ふたりが選んでくれたあのお洒落な壁紙も。美砂ちゃんが世話をしていた棚の上の花も。そしてデーブルの椅子は1脚減ってまた元の2脚に。


 洗面所に駆け込んだ。そこでもやはり消えていた。コップと歯ブラシのセットはひと組しかなかった。息をはあっと吹きかけてみた。コップのあったはずの箇所を手で探ってみた。なにもなかった。なにも触れなかった。


 寝室のドアを開けた。床には俺のものしか置かれてなかった。ベッドの足もとにある収納ボックスを開けた。美砂ちゃんと久梨亜のスペースとして俺が買ったやつだ。そこに入っていた物はきれいさっぱり消えていた。ちりひとつ残ってなかった。部屋中を引っかき回してみた。ふたりの物はどこにもなかった。ただひとつ、ベッドの上のシーツのしわだけが、かつてふたりがここにいたってことを示していた。


「そんな……」


 立っていられなかった。そのまま崩れるようにへたり込んだ。体中から全ての力が抜けた。頭の中が空っぽになった。信じられない。今でもそこの物陰から出てくるような気がする。プラカードでも持って。「どっきり大成功!」とか言いながら。


 翌日会社に行った。会う人ごとにふたりのことを尋ねた。でも覚えている人間は誰もいなかった。空いたデスクを指さしても「ああ。あそこは前から空いていたじゃないか」って言われた。「おかしなやつ」って言われた。


 最後の望みは奥名先輩だった。診察の結果はなんともなかったそうだ。そりゃそうだよな。「頭を打ったかもしれない」てのは久梨亜のやつが先輩を現場から遠ざけるために言った方便だもんな。

 先輩ならふたりのことを覚えてるかもしれない。会社の中でふたりと一番接していたのは俺を除けば先輩だもんな。ちょっとでいい。ほんのちょっとでいいから先輩の記憶に残っていてくれ。そう願わずにはいられなかった。

 しかしその願いは叶わなかった。ふたりのことは先輩の記憶にも残ってなかった。それだけではない。あの日確かに4枚あったはずのチケットさえも。残っていたのは2枚だけだったのだ。


「終わったんだ……」


 昼休み、俺は会社の入ったビルの屋上でぼんやり空を眺めていた。それはあの日ふたりが現れた方角だった。あの日もこんな天気だった。あの日はもっと風が冷たかった。あの日は……。


 まぶたを閉じた。思い出が次々によみがえってきた。初めて出会ったあの日のことばかりじゃない。これまでのあらゆる出来事が。目で見、耳にし、手に触れ、舌で感じ、鼻にした香りすべてが。いや五感をも超えたあらゆる感覚がまざまざと。あの1万回を超えたループのどれよりも実感を伴って俺の心の中を通り過ぎていった。


 目に再びビル屋上の景色が帰ってきた。そうだ、すべてはここで始まった。そしてここで終わるんだ。ふさわしい幕切れじゃねえか。俺はそんなことを考えていた。何かをつかもうとするかのように上空へと右手を伸ばした。もう涙は出なかった。

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