第105話

 すぐにピンときた。先輩が思い出せないシーン。それは俺が久梨亜や美砂ちゃんに命令したあの時だ。

 すぐに勇んで話そうとした。しかしその瞬間、久梨亜のやつが俺のつま先を踏んづけやがったのだ。


 俺の口からはわずかなうめき声が漏れただけ。代わって久梨亜が声をかける。


「そりゃあいけないね。もしかしたら頭を打ったのかもしれないよ」


 いかにも心配そうな口調だ。こいつめ、踏むのに加減をしろ、加減を。


「あっ、やっぱり久梨亜もそう思う? 実は私、救急隊の人に『念のために後で病院でてもらったほうがいい』って言われたのよ。今すぐじゃなくてもいいけど必ず2、3日中に、って」

「そうだろ。でもやっぱり早いほうがいいんじゃね。今からでもタクシー呼べば午前の診察に間に合うんじゃねえのか」

「そうね。でもみんなを置いて行くのは……」

「大丈夫大丈夫。気にすんなって。それよりも若葉の体のほうが心配さ。だろ? 英介?」


 久梨亜のやつがいきなりこっちを向いてニヤッと笑いやがった。おい、急に振るなよ!


「そ、そうですよ。もし病院に行くのが遅れて後でなんかあったら大変ですよ。そうだ、なんだったら俺、一緒に行きましょうか」


 どさくさにまぎれて奥名先輩とふたりっきりになろうと画策するも、久梨亜にギロリとにらまれる。


「う、ううん、大丈夫。ひとりで行けるから」


 先輩の言葉はぎごちない。俺は久梨亜を睨み返した。こいつ、先輩の思考に介入しやがったな。先輩はOKしてくれるはずだったのをひっくり返しやがったな。


 先輩は一緒にいられないことを何度も詫びながらタクシーを捕まえに行った。いつの間にか空を雨雲が覆いつつあった。雨が次第に強くなってきていた。おかしいな、今日は一日中晴れじゃなかったのか。


「おい久梨亜、なんで先輩から俺の一番カッコイイ場面の記憶を消したんだ」


 先輩は去った。もう会話を聞かれる心配はない。


「なに言ってんだい。当たり前だろ。あの時の会話はあたしや美砂の力にがっつり触れてたじゃねえか。『認識を一時停止』だの、『記憶を消去』だの」

「でも……」

「『でも』じゃないだろ。記憶は消したけどそのときの感情は残してやったんだ。感謝されても文句を言われる筋合いはないね」


 久梨亜はプン! とそっぽを向いてしまいやがった。そうか、感情は残してくれたのか。ありがたい。やっぱりこいつは頼りになる。


「私もあの時の英介さん、カッコ良かったって思います!」


 美砂ちゃんがキラキラした目で俺を賞賛しょうさんしてくれる。うーん、かわいいなあ。ほっぺにチューしたい。


「美砂ちゃん、勘違いしてるようだけど、俺はいつでもカッコイイから」

「ハイ、そうですよね。英介さんが普段見せているおとぼけな姿、あれはわざとやっているんですよね」


 ニッコリ微笑む美砂ちゃん。あのー、その言葉、いったいどう受け取ったらいいんでしょうか。

 それに「おとぼけな姿」ってなに? もしかして美砂ちゃんは俺のことをそんなふうに見ていたわけ?


 俺はあらためてバスのほうを振り返った。何人もの警察関係者、たぶん鑑識とかいうやつだろう、が写真を撮ったり車体やタイヤを調べたりしている。向こうの方にはTVの中継車らしきものも。昼のニュースで流れるのだろうか。しまった。全録レコーダーを買っておくんだった。次のボーナス出たら絶対買おう。って、よく考えたらうちの会社、年俸制でボーナスないんだった。

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