第103話

 突然美砂ちゃんの声が響き渡った。


「そんな……。いいんですか久梨亜! 英介さんが……、英介さんが死んじゃうんですよ! いくら魂がもらえるからって、そんなの絶対おかしいです!」


 美砂ちゃんの声。泣き声が混じっている。久梨亜の返事はない。


「美砂ちゃん、久梨亜、ありがとう。短い間だったけど楽しかった。俺、ふたりにえて本当によかった。感謝してる。だからふたりに逢えるきっかけを作ってくれた神様にも感謝してるんだ。もちろんもう一方の悪魔メフィストフェレスにも」


 涙が声をぐずらせ始める。待ってくれ。もうちょっと待ってくれ。俺の言葉の邪魔をしないでくれ。


「だからふたりとも悲しまないでほしい。もしこれで神様の賭けが終わるのなら、楽しかった思い出だけを持ってそれぞれの場所に戻っていってほしい。あっ、そうだ。戻る前に先輩の記憶をいじってくれないか。先輩から俺の記憶が消えちゃうのはつらいけど、先輩が悲しむのはもっと辛いんだ」


 ふたりから返事はなかった。俺はゆっくりと目を閉じた。


「さあ、やってくれ」

 力強く言った。すべてを吹っ切るかのように。


 その瞬間、時間が歩みを取り戻した。足が床から離れるのを感じた。

 もうほかにはなにも感じない。閉じた目に光は届かず、開いた耳に音は聞こえず。


 俺はひたすらその時を待った。フロントウインドウに激突するその時を。しかしその時はなかなかやってこない。

 でも俺は知っていた。死に直面した人間には周りの動きがゆっくりに見えるってことを。まるで時間が遅く進んでいるかのように感じるってことを。


 体は宙にあった。周りのことはなにもわからない。俺はすべてを自分の信じるところにゆだねていた。


 体の右側面に圧。フロントウインドウだろうか? それともとっくにそいつを突き破って道路に叩きつけられるところだろうか?


 圧が強さを増す。しかし相手は平面でもなければ固くもない。立体であり弾力もある。さらには右足が勝手に動く。右足裏に平たいなにかが押しつけられた。そいつを押し戻すように脚の関節が伸びていく。


 変化がやんだ。どうやら生きている。俺はゆっくりと目を開けてみた。


 真っ先に目に入ったのはガードレール。バスとは距離があった。変形しているようには見えなかった。その向こうに歩道。そしてその先には河が見えた。


「えっ?」


 とっさには自分の置かれている状況が理解できない。


 右側を見た。ハンドルに突っ伏している運転手がいた。俺の体はそいつに押しつけられていた。

 右足を見た。ブレーキペダルを床につくまで踏んでいた。運転手の右足はアクセルペダルから外れていた。俺がブレーキを踏むのを邪魔した運転手の左足はその位置を変えていた。


 顔を上げた。運転手席横の窓から道路が見えた。バス右側面後方よりに車のテールランプ。間違いない、バスの直前にいた車だ。そいつはどこも壊れていない。


 ようやく俺は理解した。バスは左に90度向きを変えて停まったのだ。


 突然、車内に拍手がおきた。驚いて後方を振り返った。

 乗客が総立ちで俺に拍手を送っていた。中央に久梨亜と美砂ちゃん。でも俺はそんなことはどうでもよかった。ただひとつの姿だけを探した。


 それは座席の隙間からゆっくりと姿を現した。そして俺のほうへ顔を上げた。


 途端に俺の中から全ての力が抜け落ちた。そこにはいかにもひどい目にあったという表情の奥名先輩の姿があった。

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