第101話
一瞬耳を疑った。だがそれははっきり聞こえた。聞き間違いではない。
「久梨亜、なにふざけてんだ。もう時間がないんだぞ!」
思わず俺は彼女を怒鳴りつけていた。
「時間ならあるさ。たっぷりとな。でもあたしにできるのはここまで。バスを停めることはしない。美砂、あんたも力を使うのはやめておくんだね。でないとあたしが容赦しないよ」
ムスッとしたままの表情で久梨亜が答えた。
俺には久梨亜の言葉が理解できなかった。「時間がある」だって? こいつなにを言ってるんだ。
しかし次の瞬間、俺はさっきの自分の奇妙な感覚を思い出した。そして
時間が停止していた。
そう、時間が止まっていた。乗客の動きが止まったのは認識を停止したからじゃない。時間が止まったから。それは外を見たことでわかった。外の一切のものが動くことをやめていた。
ハンカチを落としてみた。そいつは宙にとどまった。
「お前なに考えてんだ。誰が時間を止めろなんて言った。バスだ。俺が止めてほしいのはこのバスだ。なのに……」
しかし久梨亜の言葉がそれを
「はあ? 『なに考えてんだ』だって? それはこっちのセリフだよ。英介、あんたこそなに考えてんのさ。『神様のテスト』にあたしらの力を借りちゃいけないってことは、あんただって重々承知してたはずじゃなかったのかい?」
そう。確かにそれはそうだ。例えばあの“キューピッドの件”。なぜ俺が美砂ちゃんの申し出を断ったのか。それは神様がこう考えると思ったからだ。「たかが人間のくせして天使を利用するなど不届き千万!」
つまり俺が自分の私利私欲のために美砂ちゃんや久梨亜の力を利用したなら、それすなわち人類滅亡。彼女らの力を借りたってことが人類滅亡の格好の理由になるってわけだ。
でも今は緊急事態だ。しかも自分の私利私欲のためじゃない。あの時とは違う。
「人が死ぬかも知れないんだぞ! 人の命を助けることがどうして人類滅亡の理由になるんだ! 惨事を避けるにはもうこれしか選択肢がないんだ!」
「『選択肢がない』? 選択肢ならあったはずだよ。このまま前の車に突っ込むのもよし。ハンドルを切ってガードレールにアタックするもよし。どちらでもお好みでどうぞ、ってな」
俺は久梨亜の目をじっと見つめた。こいつまた俺をからかっているのかって思った。しかし違った。やつの目は真剣だった。こいつは本気で言っていたのだ。
「お前……、本気なんだな」
全身から力が抜けた。悲しかった。もう久梨亜の顔を見れなかった。今まで久梨亜はいろんなことで俺を助けてくれた。それは俺が「こいつほんとに悪魔か?」「悪魔のくせに俺に幸せをもたらしてくれるってどういうことだ?」とまで思うレベルだ。
でも今の久梨亜はどうだ。俺を、そして奥名先輩を地獄の底に突き落とそうとしている。これまでのやつの態度は仮面で、今まさにやつの悪魔としての本性を現したっていうのか。
ちきしょう! 久梨亜のやつ、こんな時になって俺を裏切るのか。やっぱり悪魔なんかを信じた俺がバカだって言うのか。
しかし俺はどうしても彼女を憎めなかった。彼女を信じたいという心を完全に消し去ることができなかった。
いやそうじゃない。正確じゃない。こんな事態になってもなお、俺の中の久梨亜を信じる心は微動だにしていないと言ったほうがより真実に近かった。
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