第96話

 バスは何ごともなく進んでいるように見えた。問題なんかなにもないように見えた。普通の路線バスだからしばしばバス停で停まる。そのたびに客が乗り降りし、そしてまたバスは走り出す。どこにも予兆のようなものは見当たらなかった。いや、たとえあったのだとしても、先輩との小旅行に浮かれていた俺が気づくはずはなかった。


 バスの旅はなかなか面白かった。あまり会話ができないこともあって自然にまわりの景色を見ることが多くなる。出発して程なく大きな河を渡った。鉄道の駅名がついたバス停もいくつかあった。「○○中学校前」「○○高校前」というバス停もあったがあいにく今日は春休み。歩いているJCやJKを見かけることはない。なんで先輩はよりによってこんな時期を選んだんだ? もう1週間も早ければ……って。いかんいかん。俺としたことがなにを考えているんだ。


「ところで先輩、このバスいつ着くんですか」


 出発して20数分ばかり経ったころだろうか。何気なく振り返って奥名先輩に聞いてみた。ちょっばかり退屈になっていた。念のために言っておくがJCやJKがいないとわかったのがその原因じゃないからな。


「さあ。そのうち着くんじゃない」

「そんな。調べてないんですか」

「ちゃんと調べたわよ。このバスで行けるってことは。でも時間は気にしてなかったな。待って、今調べるから」


 先輩はiPhoneを取り出してなにやら調べ始める。


 しかし考えてみればこれもおかしなことだったのだ。奥名先輩は何ごとにもきっちりしている。以前先輩のスケジュール帳をのぞいたことがあるけど、分単位でみっちり書かれたその帳面にめまいを覚えたくらいだ。その奥名先輩がバスでどれくらいの時間かかるのかということを調べていない。おかしい。普通あり得ない。


 でもこの時はそれに思い至らなかった。それはもしかしたら先輩が俺のアパートに来たあの日、先輩は天然じゃないかって思ったことが頭にあったのかもしれない。


 いや、本当の理由はそんなことじゃないはずだ。気づいていなかったけどあのときは俺も先輩もなにか大きな力の支配下にあった。そいつに思考をゆがめられていたに違いないんだ。


「うん、あと15分ぐらいかな」


 先輩はiPhoneを見ながら軽やかに答えた。俺も先輩のその軽やかぶりに大したことがないような気分になっていた。15分だなんて、すぐじゃないか。


 やがてバスは左に曲がった。右横になにかの高架。バスが坂を登っていく。どうやらこの先は大きな河になっているらしい。隣の高架もこちらに合わせて登っていく。


 ついにバスは大きな橋に出た。片側2車線の大きな橋だ。橋の中ほどに鋼鉄製のアーチがいくつか見える。ガードレールの外側に歩道が見える。さっきの高架も隣で橋になっている。こっちの橋よりいくらか高いところを通っているのが少しばかりしゃくにさわる。


 あと10分ほど。10分ほど走れば目的地のバス停に着く。もう少しだ。バスを降りれば奥名先輩と並んで歩くことだってできるだろう。美砂ちゃんと久梨亜はそれを邪魔したりはしないだろう。天気は快晴。3月末だから気温はまだ低めだけど寒くて震えるほどじゃない。パークまで歩く20分なんかあっという間に違いない。


 しかしこの時俺たちは知らなかった。神様の“一手”がもう間近に迫っていることを。あの大混乱の事態がすぐそこにまでやって来ていることを。

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