第97話

 バスは橋にかかった。前の車との距離がかなり離れている。坂を登ってきたからだろうか。バスは重たいもんな。乗用車と差がついても仕方ないんだろうな。


 ブオンとエンジン音が響いてバスが急加速を始めた。


「乱暴な運転だな」


 ふとそうつぶやいた。でもちょっと変な気もした。俺たちがバスに乗って既に30分あまり。その間に運転が乱暴だと思ったことは一度もなかった。それがなぜ今急に……。


「キャー!」


 突然、バスの左ロングシートの女性が悲鳴をあげた。顔が引きつっている。体をいくらか後ろに傾け、ブルブルと震えながら右斜め前のほうを見ている。右側一段高い先頭席のさらに前。そこには……。


「う、運転手さんが!」

 その女性が震える腕で指し示した。


 弾かれたように俺は座席から飛び出した。俺の前には一段高い先頭席がある上に仕切り板があって運転手のようすは見えない。通路に飛び出した俺は運転席の横へと急いだ。


 運転手は頭をガックリとハンドルにもたれかからせていた。意識があるようには見えない。両の腕でハンドルを抱え、そして右足でアクセルペダルを床いっぱいまで踏みつけていたのだ。


 それまでのんびりした車内のようすが一変した。複数の悲鳴。子供の泣き声。「助けて!」の声。


 頭の中が真っ白になった。どうしたら……、どうしたらいいんだ。


「瀬納君! ブレーキ! ブレーキをかけるのよ!」


 背後から奥名先輩の怒鳴り声。振り向く俺。先輩も通路に飛び出してきている。


「あなたが一番近いのよ! あなたがやりなさい!」


 先輩の怒声どせいが再度響く。そうだ、俺がやらなきゃ。俺がやらなきゃいけないんだ。俺がやらなきゃ誰がやる。


 とっさに運転席横のバーをつかんで飛び越えた。運転手のすぐ脇へと着地。そして運転手の脚の隙間からブレーキを踏もうと試みる。


「ダメです! 運転手の足が邪魔でブレーキが踏めません!」


 もう半分悲鳴だった。運転手の右足はアクセルを踏み続けていた。そして左足は俺がブレーキを踏むのを邪魔するような位置に置かれていた。さらには横のバーのせいで自由な姿勢がとれない。スペースが狭すぎる。このままじゃどうやってもブレーキは踏めそうにない。


「サイドブレーキを!」


 先輩の怒声が三度みたび響く。俺はサイドブレーキのレバーに飛びついた。そしてそれを力の限り動かした。しかしMAXに踏み込まれたアクセルの力に対抗できるだけの力はサイドブレーキにはない。


「運転手をどけなさい!」


 またしても先輩の怒鳴り声。俺は運転手につかみかかった。その体をバスの壁際に寄せようとした。しかしハンドルを抱え込んだその体は座席から離れようとしない。シートベルトをしているから当然なのだがそのときはそれに気づかない。しかもその体を動かそうと力を入れるたびにハンドルが動いてバスが左右にふらつくのだ。その度に乗客の悲鳴が響くのだ。


「ダメです! 動きません!」


 もはや俺の声は完全に悲鳴と化していた。


 前を見た。かなりあったはずの前車との距離が詰まってきている。速度差に加えてどうやらこの先の信号が赤になっているらしい。このままでは衝突だ。


「瀬納君! ハンドルを! ハンドルを切ってガードレールにぶつけなさい! それしか手はないわ!」


 再び先輩の声。しかしそれはもはや指示を怒鳴る声ではなかった。怒鳴るというより悲鳴に近い。もはや限界の時が間近に迫ってきていた。残された時間はわずかしかないのだ。

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